触れられない距離

神崎

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焼きプリン

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 保冷バッグでも大きめのモノを持って沙夜は電車に乗っていた。その保冷バッグの中身は一馬と沙夜の夕食になる。タッパーに詰められているのは、ポテトサラダ、鶏肉の照り焼き、小松菜のおひたしなどバランスが良いモノばかりで、他の三人の食べれないものなどを考慮したメニューになっている。一馬の奥さんも口にしないモノはあり、辛いもの、ニンニクを使ったモノは使わないらしい。仕事に影響があるからだ。今は仕事をするどころでは無いが、もう習慣になっていて欲しいとも思わないらしい。遥人も一馬もそれで文句は言わないのだ。そういったモノを口にするときには、外食をしたときくらいだろう。
 流れる光を見ながら、窓に映った自分が見える。いつもの普段着から、駅のトイレで着替えをした。ワンピースを着て、髪をほどいて眼鏡を取っている自分が別人のように思えた。だがそうするスタイルが、あのスタジオへ行く格好なのだ。変装の意味を持っていて、スタジオへ行く沙夜だとは誰も気が付かないのだから。
 そして駅に着くと、コンビニでお茶でも買おうかと思いそこへ立ち寄ろうとしたときだった。携帯電話のメッセージが鳴る。それを開くと一馬からで、飲むモノは買っているのでそのまま来て欲しいと言っていた。
 そのメッセージにコンビニへの足を遠ざける。そしてそのままスタジオの方へ向かった。町は古い町並みで、立ち飲みの店や古いスナックの看板が光を点している。そしてそれに吸い寄せられるように立ち寄るのはサラリーマンくらいだ。お洒落なOLや大学生はこういうところへ来ないだろう。それが一馬の狙いでもあり、同じようにスタジオや倉庫を借りている別のアーティストの狙いなのだろう。誰にも邪魔をされたくなかったのだ。
 建物へ着き部屋の鍵を開ける。合鍵は持っているので、そのまま部屋に入ると光が見えた。一馬がもういるのだろう。それにベースの音が聞こえる。練習のあとに打ち合わせがあって、新しい楽譜と音源をもらったはずだ。それを練習しているのだろう。そう思いながら部屋の中に入る。
 すると椅子に座ってベースを弾いていた一馬がいる。珍しくいつものベースでは無く、六弦ベースを鳴らしていた。手が大きく指が長い一馬だがこのベースはあまり得意では無い。何でも器用に弾いているように見えるが、一馬でも不得意なモノはあるのだ。それでも何とか弾きこなそうとしているのを見て、沙夜はそれを見ながら床にバッグを置いた。そしてその音を聴く。
 その真剣な目が好きだった。沙夜は音楽を楽しもうとしているところもあるが、一馬にとって音楽は楽しみでもあるが挑戦でもある。出来ないことを出来るようになる達成感が快感だというのだ。
 その気持ちは沙夜もわからないでも無い。初めて渡された楽譜を出来るまで練習して、繰り返し弾き、弾けるようになったら自分でアレンジをしていた。練習もまた楽しいが、そのアレンジがまた更に楽しさに拍車をかける。
「……。」
 音が止まる。そして一馬はやっと沙夜がいることに気が付いたらしい。
「声をかけてくれれば良かったのに。」
「集中していたみたいだから。六弦ベース?」
「あぁ。久しぶりに出してみた。帰国後の仕事で使うから。」
「映画のサントラだと言っていたわね。」
「映画自体はあまり観ないんだが、面白そうな映画だった。」
「珍しいわね。映画が面白そうなんて言うの。」
「時代物だったからな。太刀筋なんかを観るのが良い。」
 元々剣道をしていたのだ。そういう目線で映画を観ているのだろう。
「時代物の映画と言うことは、和楽器も入るのかしら。洋物と和物が組み合わさった音は楽しいでしょうね。」
 そういって沙夜は保冷バッグを一馬が楽譜を避けてくれたテーブルに置く。すると一馬はその沙夜の表情に気が付いたように、沙夜に声をかけた。
「どうした。」
「何が?」
「何か無理をしているような顔だ。」
「やだ。あまり表情には出さないつもりだったのに。」
 要らない心配をかけたくない。だから無理をしてでも気丈に振る舞いたかったのだが、一馬には見抜かれてしまったのだろう。すると一馬はベースをスタンドに立てかけると、立ち上がって沙夜の体を抱きしめる。
「俺の前で無理はしなくても良い。俺らは何でも言い合える関係だろう?体だけでは無いのだから。」
 すると沙夜はその胸の中で頷くと、一馬の体に腕を伸ばした。そしてその温もりを感じる。触れたいのにここでしか触れられなくて、寂しいのに寂しいとはいえないのはお互い様だろう。
「家に帰りづらい。」
「お前の家か。」
「帰ったら食事が出来ていたの。エプロンを奥様がしていて、芹と海斗君はもう食事を始めていたわ。私が作るモノとは味は違うけれど、とても美味しいって。海斗君も、嬉しそうだった。」
 買い物へ芹と奥さん、それに海斗の三人で行ったのだという。一馬の奥さんもあまりスーパーなんかで買い物をしたりしない。だから近くの商店街にある小さな店での目も利いていたのだ。それに海斗の愛らしさが八百屋の女将さんには好評だったという。
 そして帰ってきて芹も手伝って食事を作っていた。それ自体は全く悪いことでは無い。だがいつも居る沙夜の場所に、別の人がいる。そんな感覚になったのだ。食事をいつも沙夜が用意していて、それを芹が手伝って、美味しいと言って貰えるだけで嬉しいと思えたのだ。
「食事を作ることしか価値が無い感じがどこかでしていたと思う。でもその食事を作ることも他の人に奪われた気がするの。」
 誰も悪いわけでは無い。むしろそうして欲しいと言ったのはこちらだった。家主である翔がそう言ったわけだし、そうしないと奥さんもあの家に居づらいだろう。だがそれで沙夜が居づらくなっているのかもしれない。
「悪かったな。」
 一馬が謝ることでは無い。自分の気持ちの問題なのだ。
「違うの。あの……私が……。」
「そう思って当然だ。お前がずっとしてきたことを、別の人がしていたらそういう感情になるのは当然だろう。治が無理をしてでも海外へ行くと言ったのは、治だってプライドがあるからだと思っていた。」
「プライド?」
「治の代わりのドラマーを見つけると部長からは言われていたな。そうするのが一番良かったのかもしれないが、治はそれを拒否した。なぜなら、治だって自分の代わりを置いて欲しくない。自分の場所を取られたくないと思っていたからだ。」
「……。」
「お前の場所をうちのが取ったような感じに見えたんだろうな。そう思うのも仕方が無いと思う。辛いだろうな。ずっと台所を守っていたんだから。」
「誤解をしないで欲しいの。奥様に非は全くないのよ。」
「わかっている。だからうちの妻も気を遣ってくれたんだ。」
 そう言って一馬は沙夜の体を離すと、テーブルに置かれた保冷バッグを手にした。
「俺一人のモノでは無いのだろう。」
「えぇ。私の分もあると言っていたわ。」
「あの場で、食事をするのは針のむしろだろう。うちの妻は置いてもらっていると思っているだろうし、海斗の面倒も見てもらっていると思っている。だから何でもやれることはしようと思っているみたいだが、それがお前にとって居心地を悪くしているんだろう。だからここに食事を持ってきて、ここで俺と食事をして欲しいんだ。」
 すると沙夜は少し笑って言う。
「本当に、一馬は奥様のことがわかっているのね。」
「一応妻だからな。」
 すると沙夜はその保冷バッグを開けながら、一馬に言う。
「少し疑ったのよ。」
「何を?」
「どうして奥様は私にここへ来るようにと言ったのかって。もしかして、この関係がばれたのかって。」
 不倫をしているのだ。それを黙認するだけでは無く、進めるような真似をしているのだろうかと思ったのだ。だが一馬は首を横に振る。
「妻は少しくらいは関係があるのだろうとは思っているはずだ。」
「え……。」
「負い目を感じているのだと思う。だからこんなメッセージを送ってきたんだ。」
 そう言って一馬は携帯電話のメッセージを沙夜に見せる。すると沙夜はそれを読んで、一馬を見上げた。
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