触れられない距離

神崎

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祝い飯

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 翔はその一馬と待ち合わせをしていた。普段ほとんど変装などしなくても、声をかけられることは無い。普段テレビや雑誌に出ているときにはキラキラした衣装を着ることが多いのだが普段はあまりそんな格好はしないし、整髪料も嫌いなので髪もそのままだ。
 三十は超しているが、一見見れば大学生のようにも見えないことは無かった。
 駅の前の改札口の側で待っていると、見覚えのある男がそこから降りてきた。エレキベースのケースを背負ってこちらへ向かってきている。
「待ったか。」
 一馬はこの時点でもう一見仕事を終えてきている。海外へ行く前に、アイドルのデビューイベントの打ち合わせへ行っていたのだ。アイドルとしても「二藍」のメンツがいるというのは強みになるのかもしれない。
「いいや。相変わらず忙しいよな。お前。」
「そうでも無い。夜には帰れるし。お前こそ大丈夫なのか。」
「え?」
「一度レコーディングを中断していると聞いていたが。」
 アニメの曲のサウンドトラックを依頼されたのだ。そのレコーディングのことを言っているのだろう。
「中断するのは今度海外へ行くからだ。レコーディング自体は順調だよ。」
「そうか……。変に聞いたからかな。」
 世の中的にはあまり知られることは無かったが、慎吾の兄である翔から話を聞きたいとマスコミが押しかけたという噂があったのだ。沙夜もそれを危惧して翔に付いていたが、結局は肩すかしだったのかもしれない。慎吾自体の名前もそこまで出なかったのだから。
「どこで聞いたの。その噂。」
「この間、ほら……役者もしているシャンソンを歌う人が居るだろう。」
「あぁ。一馬が独身の頃から世話になっている人だろう。」
 本業は役者なのだが、歌を歌うこともある中年の女性だった。女性は一馬をずっと気に入っていて、ライブやレコーディングの度に呼び出しているようだ。
「そこのプロデューサーが翔のその仕事があまり順調では無いと言っていて、いつか会ったときに聞いてみようと思っていたんだ。何かあったのかと思ってな。だが肩すかしだったようだな。」
 翔は少し笑う。一馬がそう言ったことまで気にしていたのかと思ったからだ。こういう感じだから、一馬は沙夜からの信頼があるのだろう。
「でもね……まぁ、俺はあまりアニメとかのサントラは作ったことは無かったから、プロデューサーからダメ出しはかなり食らっているよ。そういった意味では順調では無かったのかもしれない。」
「曲は出来ているんだろう。」
「それでもイメージに合ってなかったりしたら、奏者を変えることもある。またはもうパソコンの方が早いなって思うこともあるし。」
「どんなアニメなんだ。」
「見る?アニメなんか。まだ子供だってアニメがわかるような歳じゃ無いだろう?」
「息子が大きくなったら嫌でも付き合わないといけないだろうな。」
 駅を出て、すぐにコンビニがある。今度ある映画なんかの前売りを、コンビニでも取り寄せることが出来るのだ。
「こんな感じのアニメだったよ。」
「ロボットか。」
 ロボットアニメだったら翔の作るモノによく合っているのかもしれない。シンセサイザーと生の音の融合はそういうアニメの曲なんかに合っているだろう。
「一馬はアニメなんか見ないだろう。」
「そうでも無い。甥っ子が小さい頃は、アニメを一緒に見させられたこともある。あの時は子供だましだなとは思っていたが、最近は絵も綺麗だな。」
「ほとんどCGだよ。」
 否定はしない。よっぽど興味が無ければはっきり知らないと言うくらいだ。それだけ器が大きい男だと思った。沙夜が居て楽だと思うのは何となくわかる。
 その時、一馬が思わず足を止めた。ビルから見覚えのある人が出てきたからだ。
「沙夜さん?」
 髪をアップにした沙夜が出てきた。夜会巻きと言われるスタイルのようで、後ろ頭に飾りが刺さっている。それにメイクも普段より濃く、少しキャバクラ嬢のように見えた。
 沙夜も一馬と翔の姿に気がついたらしい。普段履かないようなヒールの音をさせて、二人に近づいてくる。
「思ったよりも早かったんだね。」
「えぇ。あの美容師の人が編み込んだり巻いたりしかけたから、そういうの辞めて欲しいって言ったの。そしたらこういう髪型。メイクもあまり派手にしないで欲しいって。」
「そうか。結婚式だと言っていたな。」
 一馬はそう言って、やっと納得したようだった。沙夜がこんな格好をしているのを初めて見たから。
「眼鏡は外せないの?コンタクトなんかにしてさ。」
「外さないわ。これを取ったら本当に妹に見えるから。」
 眼鏡は本当はそんなに必要では無い。細かい文字を読むときだけだ。だがこれを外したら本当に沙菜に見える。それが一番嫌だった。
「それでもあれだな……。」
「何?」
「いや。これを言ったら沙夜さんが本当に傷つくと思う。」
 アパートを行き交う女性達に見えた。毎朝ジョギングへ行くとき、帰ってくる女性達だ。酒と香水の匂いは、一馬が小さい頃から嗅いでいた匂いの一つだった。
「良いの。自分でもキャバクラ嬢みたいだと思ったから。」
「はっきり言うなぁ。で、その格好で二次会も?」
 翔はそう聞くと、沙夜は頷いた。
「そうね。お互いが担当しているバンドが演奏を披露すると言っていたわ。」
「そんな個人的なことを許されるのかな。」
 お金が絡んでいるわけでは無いが、そんなことを平気でするのは良くないと思っていたのだ。
「そんなに堅くは無いわ。それにお互いのバンドも持ち歌はしないみたいだから。」
 おそらくみんな気合いを入れて演奏するだろう。沙夜の前であり、そして奏太の前でもある。二人とも聴いて駄目だと思ったら目にも留めないだろうが、良ければ「二藍」とコラボをしたりとか言い出すかもしれないと淡い期待を持っていた。つまり、「二藍」の勢いに乗りたいと思っているらしい。
「ボーカルの男はアルバムで歌っていたな。良い声をしていた。あれだけ歌えるのに、姿で売っているのが惜しいよ。」
 翔はそう言うと、一馬も頷いた。あの男のバックで弾いている人達がもっと実力を付ければもっと売れても良いと思うのだ。
「あなたたちは先のスタジオだったかしら。」
「あぁ。あとから純も来るんだ。」
「そう……音を楽しみにしてるわ。」
 待ち合わせている駐車場へやってきた。そこには数人の同僚達がいる。結婚式場が用意してくれたバスでみんなで結婚式場へ行くのだ。
「じゃあ、私はここで。」
「あぁ。楽しんで来いよ。」
「飲み過ぎないようにね。」
「大丈夫だろう。沙夜さんは飲み過ぎて潰れることは無い。」
 一馬がそういうと翔は少し笑う。
「沙夜が飲み潰れたら、周りは致死量だね。」
「また、そういう事を言って。」
 からかうようにそう言うと、沙夜は二人に手を振ってそのまま駐車場の中に入る。同僚達がいる中に、紛れて行ったのだ。その中に奏太の姿もある。奏太はスーツがよく似合っているように見えた。元々はプロ志望のピアニストで、そういう格好をしてピアノを弾いていたこともあるのだろう。いつもよりもドレスアップをした沙夜とよく似合っていた。
「行かないのか。」
 一馬が声をかけて、翔は我に返る。そうだ。いつまでも沙夜を気にしていられない。自分には今日しないといけない仕事があるのだから。
「一馬さ……。」
「何だ。」
「今日、終わったら奥さんの所へ行くのか。」
 その言葉に一馬は頷いた。一馬は仕事の合間に一馬の奥さんが勤めている店へ行き、コーヒーを持ち帰りで飲むことがある。それは一馬なりの息抜きのつもりだった。コーヒーの味もそうだが、何より奥さんがカウンターで自分のためのコーヒーを淹れてくれているのが嬉しい。
「良いな。やっぱり。仲が良くて羨ましいよ。」
 一馬はおそらくコーヒーだけのためにわざわざ途中下車をして、砂糖の匂いがする洋菓子店へ行くのでは無い。一馬は、奥さんを心配していたのだ。奥さんが誰に手を出されていないか。一馬のモノだとわかっていてもそれは気にかかることだろう。
「……翔には言っておかないといけないことがある。」
 そう言って一馬は背負っているベースを持ち直した。
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