触れられない距離

神崎

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祝い飯

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 銀行で変えてもらった一万円に封をして、あとは買ってきた祝儀袋に包む。そして名前を書こうとしてふと、サインペンしか無いことに気がついた。筆ペンなどいざというときにしか使わない。そう思って沙夜は一度部屋を出る。そしてリビングへやってくると、食事を作っている芹と翔が居た。
 今日は、職場の同僚同士の結婚式なのだ。だからおそらく昼、夜とここで食事を作ることは出来ない。そう思って二人が食事を用意することにしたのだ。キッチンにいつもいる沙夜では無く翔が居る。そういうときは少なくは無い。最初の頃はやりにくいと思っていたが、翔もやっと芹と料理をするこつがつかめてきたのだろう。
「翔。悪いけど筆ペン無いかしら。」
 沙夜はそう聞くと、翔は少し笑って言う。
「そこのテレビの下の引き出しにペンなんかが入っているよ。その中に一本くらい筆ペンが無いかな。」
 そう言われて沙夜は消えているテレビに近づくと、その引き出しをあけた。そこは家電の説明書や、使わないコード類などが入れてあり、滅多に沙夜達がそこをあけることは無い。そしてその片隅にケースに入れられたペンなんかが数本ある。そこから筆ペンを取り出すと、沙夜はそのローテーブルで祝儀袋の表に自分の名前を書く。
「これで良いわね。そろそろ時間だわ。」
「こっちももう終わったよ。」
 翔はそう言ってガスの火を切った。食べれるか食べれないかはわからないときには、カレーやシチューというのは便利だと思う。食べられなければ明日に回せるからだ。
 芹はサラダや汁物を作り、手を洗うとエプロンを脱いだ。
「俺もそろそろ準備しよう。えっと何時だったかなぁ。」
 芹も今日は担当である藤枝靖の誘いを受けて、イベントへ行くのだ。それは古書などの青空市だった。中には貴重な本もあると、靖は自分の叔父と共に足繁く通っているのだ。その場に芹がいれば、いくら叔父でも不思議に思うかもしれない。だが関係を聞かれれば「友人」だと言うつもりだ。
 それでも靖に言わせれば叔父はとても勘が良い人物だ。言わなくてもおそらく感じ取れるだろう。そしてそのことを言うことは無いと思う。
「良かった。思ったように似合ってるよ。」
 ナチュラルに翔は沙夜に言う。今の沙夜の格好は結婚式でのワンピースの姿だった。それは青色のワンピースで胸元が開いているが襟周りまで同じ色のレースがあり、結構肌を隠している。それに膝下のスカートは膝の下でふわふわと舞っている。それでも生足には抵抗があるのでストッキングを履いていた。だがどんな格好でもあまり沙夜には慣れていないモノだ。
「普段パンツスーツなのが徒になったわ。あぁ。とても歩きにくい。」
「こういう時じゃ無いと沙夜はそういう格好をしないからね。」
 翔はそう言うと、ちらっと芹の方を見る。芹は少し不満そうだった。
「どうしたんだ。芹。」
「何でも無いよ。」
 本当なら先に綺麗だと言うつもりだった。なのに、先に翔に言われた。
「へアセットってどれくらい時間がかかるかしら。テレビ局のようにぱっとメイク溶かしてくれるわけじゃ無いんだろうけど。」
「美容室だからね。その人の腕もあるだろうけど、沙菜が教えてくれたところだろう?」
「うん。」
 沙菜は仕事上美容室へは定期的に行っているようだったが、沙夜はほおっておいたら一年以上行かなかったと言うこともある。真っ黒な髪は癖が無く、伸ばしっぱなしでも全く影響が無いように思えた。
 包みを手にすると沙夜はそのまま自分の部屋に戻る。そして包みやショールを入れたバッグとその中に更に小さなバッグがある。それが式場に持ち込めるバッグだからだ。その中身は携帯電話、財布、ハンカチなど必要なモノを入れたらすぐに一杯になるようなモノだ。
 その時、部屋のドアがノックされる。
「はい。」
 沙夜はそう答えると、そこには芹の姿があった。芹はここ最近では珍しく夏用のニットの帽子をかぶっていた。
「どうしたの?」
「忘れ物をしてるなって。さっき見たときに。」
「忘れ物?」
 そう言われて芹は部屋を見渡すと、棚の上にあったそれを手にする。
「沙夜。一階ベッドに腰掛けて。」
 不思議な顔をして、沙夜はベッドに一度腰掛けた。すると芹はその足下に跪いた。
「何……。」
 すると芹はその左足にアンクレットを付けた。そして沙夜を見上げる。すると芹の耳元にもピアスがあった。
「普段付けないんだろう。まぁ……俺もピアスはどっかいってしまうこともあるし、大事なモノだから取っておきたいと思うけどさ。」
「今日は付けるの?」
「俺のモノって証拠は何個でもあって良いと思うから。」
 結婚式なのだ。式自体は何も無いと思うが、同僚の結婚式に二次会まで行かない理由は無いだろう。その時に沙夜が他の男に声をかけられないわけが無い。こんなに綺麗なんだから。
「そうね……。あなたも声をかけられないようにしてね。」
「俺が?」
「まぁ……あなたでは無くても、藤枝さんのついでくらいで声をかけられるかもしれないわ。」
「俺がついでって……。」
 すると沙夜は少し笑う。その顔が好きだった。思わず、芹は立ち上がると、沙夜の方に手を伸ばす。そして沙夜も自然と上を向いた。
 軽くキスをすると、笑い合った。
「家で待ってる?それとも……。」
「髪をセットした状態も見たいな。終わるまで待っていようか。」
「夕方くらいまでかかる?夜までかかるかな。」
「夜までかかると思うわ。二人は明日からお休みだけど、私たちは普通に仕事だもの。そんなに遅くなるとは思えないわ。」
「わかった。だったら家で待っとくよ。」
 芹らしいと思った。本当だったら、綺麗になった沙夜をホテルへ連れて行きたいとかというのだろうが、そういう事は全く言わないのだから。
 その会話をドア越しで翔は聞いてため息を付く。芹がこんな感じだから、奏太に付け込まれそうになっているのだ。奏太が沙夜に気があるのは目に見えているのだ。幸い、芹が付き合っている人だとは奏太は気がついていないのかもしれないし、それに奏太は少し誤解をしているところがある。
 奏太は当初は翔と付き合っているのかもしれないと思っていたが、それは誤解だとわかった途端、今度は一馬との関係を疑っていてそれが不倫の関係だと思って妙な正義感を出している。迷惑な話だと思った。
 確かに沙夜は一馬と話をしているのが一番気が楽だと思っているだろう。翔だって一馬と話をしていても楽だと思える人間だった。おそらく一馬は特殊な環境で育ったこともあり、人の気持ちに敏感なのだ。そのくせ自分の気持ちと自分に向けられている気持ちには鈍感なのだが。
 それに口を開けば神父か僧侶みたいに人生を悟ったような言い方をする。沙夜はそれを頼りになると思って相談しているだけだろう。そして一馬も女心がわからないと、沙夜に相談していることもあるらしい。それはつまり奥さんのことだろう。
 それを奏太がいぶかしげな顔をしてみていることもあった。不倫でもしていると思っているのだろう。翔はそれがわかっても誤解だと言うことは無かった。むしろ都合が良いと思う。
 自分の気持ちも芹の気持ちもわからないまま、一馬に嫉妬をしている奏太はとても滑稽だと思うから。
「俺も性格悪いよなぁ。」
 そう呟いて翔は自分の部屋に戻る。そして携帯電話を手にすると、ニュースをチェックした。不倫をした女優のことはもうインターネットのニュースにも上がっていない。それがわかって慎吾は今日の便でこの国に戻ってくるらしい。
 幸いにも不倫をした若手俳優の顔というのは知られていない。慎吾はまた役者の仕事を始めるだろう。そして女優はきっと引退する。それは事務所の狙い通りだったとしか言えないだろう。
「翔。俺らもう出るよ。」
 ドアの向こうで芹の声がした。
「俺も出るよ。」
「一緒に出ても大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。最近は、記者も張り込んでいないみたいだし。」
 翔はそう言ってバッグの中に携帯電話をしまい込むと、そのバッグを持って部屋をあとにした。
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