触れられない距離

神崎

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イチゴジャム

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 昼頃まで仕事をして、芹はジーパンと白いシャツ、紺色のカーディガンに身を包んだ。そして帽子を手にしようとしてそれを辞める。もう隠れる必要は無いのだ。紫乃に会ったからと言って何だというのだ。今一番大事なのは沙夜なのだから。
 そう思いながら、芹は荷物と沙夜の着替えが入った紙袋を手にする。
 そしてリビングへ向かうと、アルミホイルにくるまれているおにぎりを手にした。あまり重傷では無いが、食事は食べれるのだろうか。芹が高校生の時、体育の時間にした骨折をしたことがある。その時入院をしたが、あの時手術をした前後というのは何も食べれなかった気がする。お茶すら口に出来なかったのだ。それとは違うので、おそらく何でも口には出来るだろう。そう思っておにぎりを荷物の中に入れた。
 外に出ると、雨が降っている。今日、桜を見に行こうと思っていたが、この雨ではどちらにしても桜は見れなかっただろう。若干肌寒いのは雨のせいだろうか。
 そう思いながら傘をさして駅へ向かう。その時芹は少し違和感を持った。
 いつも自分は兄に見つからないだろうか。紫乃に見つからないだろうか。そう思いながらビクビクして、俯いていたと思う。だから足下しか見えていなかった。
 だが何も怯えることは無い。堂々と道を歩けると思ったとき、世界はこんなに広いと思えた。雨で濡れた道ばかりを見ながら歩いていたが、前を見れば濡れた木々や雲がかかった空。笑顔の人達の顔が見える。
「一つ詩が出来そうだな。」
 ぽつりと言うと芹はそのまま、商店街の方へ足を向けた。果物とかを買いたいと思ったのだ。
「お、いらっしゃい。芹君。」
 八百屋の主人が笑顔で向かえてくれる。
「へぇ。立派なイチゴだな。」
「高いけど甘いよ。それ。品種かねぇ。」
「こっちは一かごで一千円で、こっちは十六個で一千円ね。」
 かごに入っているイチゴは小さかったり不揃いなモノが多い。おそらく売り物にならないようなモノなのだろう。
「こっちはジャムを作ったりするんだよ。」
「加工用って事か。」
「沙夜さんだったらジャムくらいは作りそうだけどね。」
 奥さんがそう言うと、芹は少し笑って頷いた。沙夜が何でも作るようにきっと思っているのだろう。
「ジャムって難しいの?」
「いいや。そこまで難しくないよ。砂糖とかレモンとかがあれば芹君でも作れるんじゃ無いのかしら。」
 すると芹はそのかごを見て、手にする。
「これさ。俺、夕方に取りに来るから取っといてくれないか。あとレモンだっけ?」
「あぁ、作ってもらうのかい?」
「聞いて作ってみるよ。」
「おや、自分で?やる気になってるねぇ。」
 奥さんはそう言ってお金を受け取ると、イチゴが入っているかごとレモンを避けて置いた。
「それからこっちのイチゴもくれる?」
「お土産用だよ。」
「あぁ、見舞いに行くから。」
「見舞い?」
「知り合いが入院しててさ。その見舞いに今から行くから。」
「へぇ。」
 この夫婦はニュースなんかは見ないのだろうか。いや、見るとしてもエンターテイメントなんかは見ないのだろう。翔がここに来ても、騒がなかったのが良い証拠だ。
 だから沙夜が刺されたなんて言うニュースは知らないのだろう。
 そう思いながら芹はそのイチゴを受け取る。その時横から一人の女性が店主に声をかけた。
「奥様。これ出来ましたから、お裾分けを。」
「あぁ。ありがとうね。」
 それは少し離れたところにあるスパイスの専門店にいる女性だった。前に見たときと同じような、東南アジアの民族衣装のような格好をしている。今日は水色の衣装だ。額には点のような模様がある。
「あら。あなた。」
 何度か行っている店なので、芹も顔を覚えられたのだろう。
「どうも。」
「あなたも味を見てみるかしら。」
 すると八百屋の奥さんに渡した紙袋と同じモノを、芹に手渡した。それは薄っぺらく何が入っているのかわからない。
「何?これ。」
「オレンジを乾燥させたモノ。まぁ……ドライフルーツみたいなモノよ。生で食べるよりも甘さが濃縮されて、とても美味しいわ。」
 干し芋みたいなモノか。いつか西川辰雄のところに行ったときに食べたことがある。それはとても美味しかった。
「へぇ。もらっとくよ。これ、売ってるの?」
「製品化しようと思っていてね。だから味を見てもらおうと思って今は配っているの。食べてみたら感想を聞かせて欲しいわ。」
 それが狙いか。そう思ったが感想を言うくらいは別にどうということは無い。
「わかったよ。商売上手だな。」
 するとその女性は口元だけで笑って言う。
「生の果物も良いけれど、果物は干すと鉄分が増すの。貧血なんかにも最適よ。」
「俺、別に貧血じゃ無いけど。」
「あなたじゃ無いわ。ね?」
 沙夜のことを言っているのだろう。沙夜もこの店へ行ったことがある。この女性はおそらくニュースを見ていたので、そう言ったのだろう。そして二人のことを知っているなら尚更力になりたいと思っていたのかもしれない。
「わかった。渡しておくよ。」
 芹はそう言ってその袋をイチゴの入っている袋の中に入れた。
 沙夜がこういうモノが好きかどうかはわからない。だが買ってきた弁当なんかはあまり好きでは無いと言っていたので、手作りであれば喜ぶかもしれない。沙夜の喜ぶ顔が、何よりも見たいと思う。

 電車に乗って、そこからバスで病院へ行く。普段は救急病院の指定にはなっているが、普通の外来の患者も多い。色んな科があるらしく、内科、外科だけでは無く、精神科というのがあったりするのは意外だと思った。
 待合室にはテレビがあり、今は相撲の放送が流れている。年寄り達はそれを見て、若い人達はスマートフォンに夢中だ。相撲なんかには興味が無いのだろう。
「相撲は相撲で面白かったけどなぁ。」
 芹はそう思いながらエレベーターホールへ向かう。夕べも来た三階の部屋だ。その間にも救急の患者が入っているらしく、バタバタと看護師や医師が動き回っている。
 そしてエレベーターがやってきてそれに乗り込むと三階まで上がると、すぐにナースステーションがそこにある。食事が終わったあとらしく、トレーがカートの上にあり、それをまとめている看護師がいた。
 病院食というのは、カロリーなんかを計算されていて食べても太らないと思われがちだが、案外太るというのは芹でもわかる。特に整形外科であれば、普通の食事だ。素直にそれを食べ、あまりベッドから動けないとなるとすぐに太ってしまう。
 それでも看護師は食べていないと心配するのだ。一人一人のキャパがあることはあまり理解出来ないのだろうか。そう思いながら沙夜の部屋の前に着いた。ノックをしようとしたとき、ドアが開いた。そこからは一人の女性が出てくる。
 どことなく沙夜に似たような女性だった。沙夜ほど背は高くないが、伸ばしっぱなしの髪や、シンプルなファッションが沙夜らしいと思う。
 その女性は芹に一礼をすると、そのままエレベーターホールの方へ向かっていった。誰だ。あの女は。そう思いながら芹は部屋の中に入る。
「沙夜。」
 ベッドの上には沙夜の姿がある。夕べとあまり変わらないような格好だった。髪はほどかれて、少し別人のようにも見える。
「ありがとう。来てくれて。」
「着替え。沙菜に選んでもらったよ。これ来て帰ってくれば良いって。いつ帰れるの?」
「明後日には。」
「それくらいが良いかもな。見た?凄いニュースで言われてたし。」
「えぇ。見たくなくても見えるわ。いい加減飽きてくれないかしらね。」
「昨日の今日じゃ無理だろ。」
「それもそうね。」
 芹は広げられているパイプ椅子に座る。これは夕べ沙夜の意識が戻るまで芹が座っていたモノだ。必死だったとはいえ、良くこんな堅い椅子にずっと座っていられたなと思っていた。
「さっき出てきた女って何?」
 すると沙夜は目の前に置かれている菓子箱を手にしていった。
「花岡さんの奥様よ。」
「え?そうだっけ?」
 何度か店へ行って顔を合わせたことはある。だが店と普段ではあんなに雰囲気が違うのだろうか。店の中では厳しい目でコーヒーを淹れているようなのに、普段はあんなに柔らかい雰囲気を持っているのだ。
「焼き菓子を持ってきてくれてね。日持ちをするから、帰っても食べられるわ。」
 一馬の妻は気を遣ってくれた。一馬をかばったような形になった沙夜に何度も頭を下げていたのだから。
「私がいらないことをしたみたい。あんなに頭を下げられると……。担当として当然のことをしただけだと思っていたから。」
 すると芹は首を振って言う。
「そんなこと無いだろ。俺だって沙夜をかばって一馬さんが傷を負ったりしたら、やっぱりそうすると思う。奥さんにすいませんって言うよ。」
 その言葉に沙夜は少し笑う。
「そうね……。」
 芹らしいと思った。そう言って沙夜の気持ちを少しでも軽くしようと思っているのだから。
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