触れられない距離

神崎

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 毎日のランニングは日課になっている。どんなに夜が遅くても朝は走らないと調子が出ない。一馬はそう思いながら海辺を走っていた。砂浜のここは、普通に走るよりも足が取られてとても良いトレーニングになる。
 行き交う人もスポーツ選手とかが多いようだ。一馬もその中に入りそうな体をしているが、スポーツは中学に上がる前までしていた剣道以外は体育の授業でするくらいだった。体を鍛えるのはただの趣味だし、それ以外はあまり興味が無い。たまに知り合いに誘われてプロレスなんかを妻と見ることもあるが、自分がそれに参加する気は無い。剣道をしていたせいか、殴られるのも殴るのもそれ相当の理由が無ければいけないと思っていたから。
 一汗かいて、もうホテルに戻ろうと思った。シャワーを浴びて、食事をすればちょうど良い時間になりそうだ。そう思っていたときだった。朝日を見ている髪の長い女性がいるのに気がついた。髪を下ろして、眼鏡を取っているので一瞬誰かわからなかったが、それは沙夜だった。こうしてみると本当に妻に似ている。
「おはよう。花岡さん。」
「あぁ……おはよう。」
「早いわね。」
「あんたは何をしているんだ。」
「ご飯を食べて腹ごなし。花岡さんは?」
 この時間にもう食事を済ませているのだ。あまり寝ていないのはわかる。
「いつものランニングだ。」
「本当にいつも走っているのね。感心するわ。」
「……あのさ……俺、あんたに謝らないといけないことがあって。」
 その言葉に沙夜は不思議そうに一馬を見上げる。
「いつも偉そうなことを言ってしまってた。大した歳も重ねていないのにって……。」
「橋倉さんが?」
 すると一馬は頷いた。だが首を横に振る。
「いいや。あんたのその……プライベートなところは話していないつもりなんだが。その……いつも俺が偉そうだと。」
「いつも通りじゃ無い。もう慣れた。」
 すると一馬も髪を結んでいるゴミを取って一度髪を解いてまた結び直した。結ばなければ一馬のくせ毛は大きく膨らんでしまうのだ。
「翔にも言った。」
「翔に?」
 翔の名前を出すと辛い。夕べは部屋を追い出してしまったのだから。しかも舌を血が出るほど噛んでしまったのだから、アーティストのことを全く考えていないのは、担当者として失格だと思っていたのだ。
「指を咥えて見ているだけで良いのか。芹さんに取られても良いのかって。偉そうなことを……。」
「……それだけを言うのは何か理由があるのでしょう。」
 すると一馬はぽつりと言った。
「妻には幼なじみがいてな。」
「恋人とはまた違う人?」
「あぁ。一緒に住んでいた。だが体の関係は一切無かったらしい。あっちは相当遊び人でな。男でも女でもいけるような男だった。見た目も綺麗で、どこかの国のハーフだと言っていたか。クォーターだとか言っていたか。」
「その人って……。」
 洋菓子店に行ったことがある。そこのパティシエのことだろう。普段はキッチンに引きこもっているのに、たまに出てくると女性客が「きゃあ」というので、良く覚えている。
「あぁ。多分その人だ。」
「一緒に住んでいて、遊び人だったのに手を出さなかったの?全く恋愛感情が無くて、もう家族みたいなモノだったから?」
「それどころか一時期は同じベッドで寝ていたこともあるらしい。いい歳になってもそれが続いていた。妻にとってはその男だけが、心の支えだったからな。」
 夜が来る度に怖くて、広いベッドの上でも縮こまるようにでは無いと眠れなかった妻を、優しく癒やすしか出来なかったのだ。
 男は妻が好きだった。ずっとそれはずっと想っていたことだった。だから妻が事件の被害者になって、それが嘘だと言われ続けても最後まで信じていた。味方であろうと思い続けていたのだ。
「それなのに奥様はあなたを選んだのよね。」
「あぁ。あいつは思い続けているだけだった。そして妻の傷が癒やす相手は、もう自分では無いと身を引いたんだ。そして今でもただ寄り添っているだけだ。それが……少し翔とかぶった。」
 すると沙夜は首を横に振る。
「翔は臆病なだけだった。それが昨日わかったの。」
「え?」
「あのあと部屋に来て……昨日のことを謝るつもりなんだろうと想っていたの。私はもう翔を見ない。好きなのは芹だけだと言おうとした。だけど翔はそれすら言わせてくれなかったの。現実を見たくないのか……。」
「レイ○されたのか。」
 すると沙夜は首を横に振った。
「その前に舌を噛んだわ。血が出るほどね。」
 その言葉に一馬は少し笑った。気が強い女だと想ったからだ。妻もそれくらいしそうだと思うが、実際には実行に移さないだろう。その分では沙夜の方が気が強いらしい。
「どんな顔をして会って良いのかわからないな。」
「……普通通りよ。そう出来ないなら、私から担当を降りると言うから。」
「それは困るな。翔の尻を叩いてやろうか。」
 すると沙夜は少し笑う。やっと沙夜らしい顔になったと想ったから。
「嫌でも今日言うわ。逃げられないと思うから。」
「だったら、教えてくれないか。」
「何を?」
「もし、翔が失恋で死にそうだったら呼んでくれないか。レコーディングでも何があっても駆けつけるから。」
「それは困るわ。」
 沙夜はそう言って笑う。やっといつもの笑顔が見えた気がした。
 このまま沙夜が海に飛び込むかと思った。それくらい沙夜は思い詰めていたような気がする。だからそれに手を差し伸べた。
 余計なことだとまた治からは言われるかもしれない。だがそれを放置すれば、自分が後悔する。恋愛感情とは別に、沙夜を失いたくなかったのだ。
「そろそろ行った方が良いわ。シャワーでも浴びて、食事もするんでしょう。」
「あぁ。そんな時間か。もうあいつらは起きているかな。」
「夏目さんは二日酔いになっていないかしらね。焼酎を飲んでたみたいだから。」
「あんたはいくら飲んでも素面みたいだったな。」
「お互い様でしょう?」
 本当は水なのでは無いかと疑う二人の飲みっぷりだった。ボトルを頼み、「飲みきれなければ、持ち帰りが出来る。」と言った店員だったが、結局持ち帰ること無く、ほとんど四人ほどで空けてしまったのだ。そしてそのほとんどは沙夜と一馬の手で空けた。店員は最後の方にはあきれ顔だったに違いない。
「あの居酒屋の厨房では俺らの話題で持ちきりだろうな。」
「なんか釈然としないわね。」
 ホテルに戻るとエントランスを行く沙夜に、一馬はその手を引いた。
「沙夜さん。」
「何?」
「少し気になったんだが。」
 そう言って一馬は沙夜に近づこうとした。すると沙夜は驚いたようにその体を避ける。するとエレベーターのドアが開いた。そこには翔の姿がある。
「翔……。」
 すると翔は一馬の方へ近づいて、沙夜をかばうように一馬の前に立つ。
「何をしているんだ。一馬。」
「嫌……別になにもしてないが。」
「……。」
「酒の匂いがするかどうかと思っただけだ。」
「酒?」
「運転をするのだろう。今日も。あれだけ飲んだんだ。残っていないと良いがと思ったんだが。」
 そう言われて沙夜は驚いたように一馬を見る。そう言えば飲んでからあまり時間が経っていない気がする。
「……そうね。今日は悪いけど、飲んでいない橋倉さんに運転を頼もうかな。飲酒で捕まったら洒落にならないわけだし。」
「そうしろ。俺はさっさとシャワーを浴びて飯を食べるから。」
 一馬はそう言ってエレベーターの方へ向かう。そして沙夜は気まずそうに翔を見ると、翔は頭をかいて言う。
「俺も早とちりして……。」
「いつものことじゃない。何か買いに来たの?」
「あぁ、純が辛そうだからスポーツドリンクでもって……。」
「二日酔いかしら。だったらスポーツドリンクよりも水の方が良いわ。スポーツドリンクでは体に吸収してしまって、ますます体調が悪くなるから。」
 そう言って沙夜は奥にある自動販売機の方へ向かっていった。もう昨日のことを忘れたように。
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