触れられない距離

神崎

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ミックスナッツ

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 どんなつもりで沙菜がその誠二という男を紹介したのかはわからない。自分が男に不自由しなくて、セックスがしたいと思えばすぐにセックスをして、その中に快感があることを知って欲しかったと思ったのだろうか。
 だが沙夜にはその感覚はわからない。沙夜はそれを求めていなかったからだ。
「一度だけ?」
 芹はそう聞くと沙夜は頷いた。
「一度で十分よ。あんな痛いこと。体が裂けるかと思ったわ。それに自分の体が自分では無いように感じたし。」
「自分の体が自分では無い感じ?」
「……。」
 誠二という男が勘違いしたのも無理は無いのかも知れない。おそらく、相当からだが敏感で感じていたのだろう。それに処女では無いというのも、人によっては初めてでも出血が無いこともあるらしい。それを勘違いしていたのだ。
「それに……あとから知ったけど、あの男、弁護士の卵だったのよ。だから何があってももみ消すことが出来るって。」
「……だからって泣き寝入りするのか。」
 すると沙夜は首を横に振った。
「もう何年も前の話だから。それにこれからは無いことだもの。」
 それは芹とも翔ともしたくないことなのだろうか。こんなに近くにいて、すぐに手を伸ばして抱きしめたいと思っているのに、それを沙夜はずっと望んでいないのだろうか。
「それに別に処女を捨てたからといって音楽に色気が出たとは思わない。「夜」の時の感想でもあったわ。まるでパソコンが奏でているみたいに、味気の無い音だって。そういうモノを求めているのは良いかもしれないけれどね。だから、翔の音は少し羨ましいわ。」
「翔の?」
「翔の音は感情がむき出しだから。それにあなたの文章もね。」
「俺は正直に書いてるだけだよ。それに歌詞だってあの時のことを思い出して書いているだけだ。でも……今は、それも難しいかな。」
「え?スランプになっているの?」
 沙夜はそう聞くと、芹は少し俯いて言う。
「好きなヤツがいるから。」
「……好きな?」
「うん。誰よりも大事にしたい。」
 すると沙夜は少し笑って言う。芹の周りのことはあまり知らなかったが、そんな相手がいれば、渡摩季の歌詞ももっと前向きな形で依頼が来るかも知れないと思ったからだ。こんな時にでも仕事のことが思い浮かんで、自分が少し嫌になる。
「幸せね。そんなに思ってもらえるのは。」
「お前のことだよ。」
 そう言いたかったが、芹はその言葉を飲んだ。代わりに少し頷く。そして気になっていることを聞いた。
「お前さ、セックスはその一度だけって言ってたけど、キスくらいはあるんじゃ無いのか。」
「無いわね。大体。男と付き合ったりって事も無かったんだから。」
 よっぽどその体験が嫌だったのだろう。男嫌いなのでは無いかというのも真実味が見える。
「男嫌いだって沙菜から言われたことはあるけど、俺や翔は良いの?」
「仕事の相手だから。あなたもそうでしょう?その……なんだったか、担当編集者の女性の人。」
「あぁ。」
 石森愛のことだろう。愛に女を感じたことは無い。あんなに女をアピールするような女で尚且つ人妻なのだ。芹のストライクからは大きく外れている。
「その人との付き合いみたいなモノね。」
「石森さんとは何も無いよ。」
「そう。私も芹と翔とは何も無い。それでいいと思うけど。」
 CDは第一楽章を終えて、第二楽章が始まっている。それに気がついて、沙夜は立ち上がるとコンポに近づいた。
「聴く?このCD。」
「んー。まぁ、良い曲だって事はわかった。でも続けて聴くとなるとちょっと飽きてくるような曲だな。」
「あなたらしいわ。世界中で絶賛されているクラシックも、あなたの手にかかればその程度なのね。」
 すると沙夜はそのCDを止めて取り出す。その時だった。背中から温かいモノが伝わってくる。腰のあたりに手が伸びてきて、それは芹の温もりだと思った。
「芹……。」
「無理するなって。お前、無理するとすぐに出るから。」
 その言葉に沙夜は少し頷いた。腰に回されたその手に手を重ねると、沙夜の手も芹の手も震えているのに気がついた。
「腹立つな。」
「え?」
「沙夜の初めてをその男が簡単に奪ったの。」
 すると沙夜も少し笑って言う。
「私も前に聞かされて、腹が立ったのはわかっているの?」
「俺が話したこと?」
「紫乃さんって人のこと。私はもうその誠二って男とは会わないかも知れない。だけど紫乃さんって人とはまた会うかも知れないじゃ無い?」
 その言葉に芹は少し頷いた。
「うん……。」
「そうなると腹が立つわ。もしかしたら芹はその紫乃さんって人に再会したら、またそっちに転んでしまうかも知れないって。」
「それって俺の都合の良いように考えて良いの?」
 芹はそう耳元で囁くと、沙夜は戸惑っていたようだが僅かに頷いた。その反応に、芹は沙夜を自分の方へ向ける。すると思ったよりも近くにお互いがいたことに気がついて、沙夜は思わず俯いた。
「眼鏡取って良い?」
 芹はそう聞くと、その沙夜の顔にかかっている眼鏡を取った。
「何で?」
「眼鏡越しじゃ無い目で、見て欲しいから。」
 すると沙夜もその芹の長く覆っている髪に手を伸ばした。
「あなたも薄暗い世界から出てきて欲しいと思うけど。」
 その言葉に芹は少し笑う。
「お互い……隠しながらお互いを見てたんだな。」
「うん……。」
「昔の自分に囚われすぎてるよ。何もして無くても、後悔しても、一日は過ぎるのに。囚われすぎたら、新しいことも見えなくなるんだな。」
 すると沙夜は少し笑って言う。
「本当、作詞家ね。あなた。詩的だわ。」
「今は仕事のことを考えさせるなよ。」
 お互いに笑い合い、そして目が合った。普段眼鏡越しでしか見たことが無い沙夜の目と、髪で覆われている芹の目が合い、徐々にそれが近づいていく。
 何も言葉は必要なかった。吐息が唇にかかり、お互いの温もりが感じる距離まで近づく。軽くその唇が触れた。
「……。」
 それだけだったのに、沙夜は少し俯く。その反応が初々しいと思った。思わず沙夜の顔を指で支える。俯かせないようにするために。
「芹……あの……。」
「ん?」
「恥ずかしいから。凄く顔が赤くなっているでしょう。赤面症でも無いのに。」
 すると芹は少し笑う。普段隠れている目が笑うと少し垂れる。それも初めて沙夜は知ったのだ。
「俺だって凄い赤くなってるだろ。お前のせいだよ。」
「……私の?」
「責任取れよ。」
 腑に落ちない。沙夜はそう思っていたが、その「責任」が自分にとって何よりも嬉しいと思った。沙夜も手を芹の首に回す。そしてまたお互いが近づいていく。
 唇が触れて、芹はその唇を舌で割った。すると沙夜もそれに答えてくる。その舌の感触がとても心地良かった。お互い慣れていないのはわかる。なのにそんなことを考えられないほど、夢中でお互いを味わった。痺れるような感覚は、膝から崩れ落ちそうになる。それを止めるように芹の首に沙夜の腕が芹の首にもたれ、芹も沙夜の体を支えながら行為を重ねる。
 唇を離すと、芹の方から沙夜を引き寄せようとした。だがその時玄関のドアが開く音が聞こえる。その音に沙夜は首を横に振った。そして眼鏡を手にする。
 芹もまた髪を下ろした。普段どおりの二人に戻るように。
 そして沙夜はCDを手にすると、クローゼットの中にそのCDを入れた箱を戻した。すると芹は今度棚の方を見る。
「沙夜。あのさ。」
「ん?」
「このCD貸して。」
 そう言って芹は沙夜に一枚のCDを見せる。それは沙夜が気に入っている外国のバンドのモノだった。
「良いけど。持っていないの?」
「これ、今発売されているヤツと違うんだよ。ボーカルが違うヤツでさ。こっちの方ってどうなのか聴いてみたくて。」
「かまわないわ。」
 その時部屋のドアがノックされた。沙夜は立ち上がるとドアを開ける。
「はい。あぁ。お帰り。」
 そこには翔の姿があった。やはり大澤帯人と飲んでいたのだろう。顔が赤かった。
「ただいま。あのさ……。」
 話をしようとした。だがその部屋の奥に芹の姿があるのに、翔は少しいぶかしげな顔をする。
「何で芹がいるの?」
「CDを貸して欲しいって言ったんだよ。ほら。このバンドのさ。」
 このためのカモフラージュか。沙夜はそう思いながら、芹の持っているCDを見ていた。
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