触れられない距離

神崎

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 卵焼き専用のフライパンを温めて、出汁で割った卵液を流すとじゅわっという音がした。そして熱で膨らんだ卵をまだ柔らかいうちに潰していく。これを繰り返していくとだし巻き卵ができる。
 そのフライパンの隣では味噌汁がもう出来上がっている。夕べから出汁を取り、味噌汁の具材は油揚げと小松菜とわかめ。合わせ味噌で溶かして、味噌の匂いやグリルで焼いているめざしの匂いがキッチンを抜けて廊下にまで漂ってくるようだ。その匂いに反応したように、一人の男がドアを開けてリビングダイニングに入ってきた。背が高い男で、この朝の光が一番似合うような爽やかな雰囲気をまとっている。
「おはよう。沙夜。」
 キッチンに立っているのは、黒いパンツスーツと白いブラウズの上からベージュのエプロンを着けている女性。髪を一つに結び、飾り気のない感じがする女性だった。
「おはよう。翔。夕べは遅かったのに、よく起きれたわね。」
「それは沙夜も同じだろう?俺よりも遅かったくせに。」
「後片付けがね。」
「飲み会の?」
「えぇ。何も考えずに飲むスタッフばかりで嫌だわ。」
 そう言って沙夜と呼ばれた女性はだし巻き卵を巻いていく。
「手伝おうか?」
「だったらテーブルを拭いてくれる?それからお弁当が必要だったら、自分で詰めて。」
「はい。はい。」
 翔と言われた男はそう言って濡れ布巾を手にしてテーブルを拭く。するとまたリビングに一人の男が現れた。
「あー……。沙夜。コーヒーかお茶沸いてる?」
 目が隠れるほどボサボサに伸ばした男は、テーブルを拭いている男には目もくれずにキッチンへ向かう。その態度に沙夜は男に言った。
「起きたらおはようでしょう?同居人の最低限のマナーくらい守りなさい。」
「るせぇ……寝てねぇから別におはようじゃないじゃん。」
 その二人の様子二勝と言われた男は苦笑いをする。
「お湯は沸いているだろう?沙夜。芹。インスタントでよかったらコーヒーを飲めばいい。」
「そうするわ。」
 芹と言われた男はそう言ってキッチンに立っている沙夜を押しのけるようにキッチンへ向かう。そして戸棚から自分のカップを取り出した。
「寝てないって言ったわよね。」
「寝てないよ。」
「急ぐような仕事はないはずだけど。」
 その言葉に芹は方をピクッと動かした。そしてその様子に沙夜はまた口調を荒げる。
「芹。あなたねぇ……。」
「いいじゃん。そっちのレコード会社の独占で俺、仕事を受けてるわけじゃないし。」
「だったらうちの仕事の納期も守った上でやってくれる?植村さんから頼まれているバンドの歌詞は書き終わったの?」
「難しいんだよ。あのテーマだと。だから気分を変えるのに……。」
 すると翔は濡れ布巾を手にして、芹と言われた男に近づく。
「失恋の女王って言われてるもんね。」
「女じゃねぇっつーの。」
 そのときバタンとリビングのドアが開いた。そこには背の高い女性がリビングに入って来て、キッチンへ向かってくる。
「遅刻する。沙夜。何で起こしてくれなかったの?六時に起こしてって。」
「起こしたわよ。何度も。」
「あーもう。時間無い。」
 そう言って女は戸棚からコップを出して、冷蔵庫を開けると牛乳を注ぎ一気に飲み干した。
「沙菜。お弁当だけでも持って行きなさい。」
「わかった。ありがとう。行ってくるわ。」
「行ってらっしゃい。」
 脱兎のように弁当を抱えていってしまった女性を見て、二人の男は苦笑いをする。
「すっぴんだったぞ。沙菜。」
「わかるけどさ。すっぴんで現場とか行っていいものなのか?」
 すると出来上がった卵焼きを切りながら沙夜は言う。
「すっぴんの方が良いんだって言ってたわ。現場でゴテゴテ化粧を塗られるからかしら。」
「ふーん。わかんねぇな。そっちの世界は。」
 4LDK。平屋の中古住宅。そこに四人が住み始めて、もう何年になるだろう。沙夜はそう思いながら、焼けためざしを皿に盛り付けていた。
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