夏から始まる

神崎

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恋人と愛人

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 部屋の窓を開けて、ふすまを開ける。布団が用意してあり、そこにシーツを敷き、枕に枕カバーをつける。それを二つ並べる。そして軽い掛け羽毛の布団にシーツに入れる。冬なら厚めの布団になるが、夏なので薄い布団になる。
 ティッシュとゴミ箱をチェックして、窓を閉めた。そのとき、ドアの開く音がして振り返る。
「いかにもって感じだな。」
 それは棗だった。珍しそうに部屋を見渡している。今はふすまを開けているが、お客様が来れば部屋は別々になる。ぱっと見た目なら普通の個室になるように。
「時代劇とかで出てきそうだ。」
 悪代官が出てくるような時代劇だろうか。借金に困った女性が、こういうところで悪代官に体を差し出すのだ。
「需要はあるのか。」
「それなりに。日によっては床を用意できる部屋が埋まってしまうこともあります。」
「それだけ人に言えない関係を続けたいんだな。そう言う意味では需要はあるかもしれない。」
 武生の家に居た日向子もその一人だろう。思わず「櫻井様」と声をかけそうになった。日向子と同じくらいの歳の男とやってくるから、夫婦なのかもしれないと思っていたが、やはり不倫の関係だった。
 日向子は地味そうな格好をしていたが、左手の薬指にはめられていた銀色の指輪はおそらく普通の仕事をしていたら手に入れられないくらい高いものだ。
 対して男はこんな場所でもぼろぼろのジーパンでやってくるような男。そして男の指には指輪はない。装飾品が嫌いだからはずしているだけかと思ったが、どうやらそうではない。愛人なのは男の方だ。
「どうしたんだ。ぼんやりして。」
「……お客様に外で会うことがあったんですけどね。夫婦と思っていたのですが、どうやら不倫の関係だったみたいです。」
「ダブル不倫か?」
「おそらく女性が既婚者でしょう。」
「ってことは男が愛人か。いい身分だな。」
「そう言う方は多いです。珍しくありません。外で会っても、挨拶をすることもありませんから。」
「だったら何でそんなに気にしてんだよ。」
 その言葉にふすまを閉めようとした菊子の手が止まった。だがそれは一瞬。あとはいつも通りだった。
「別に……。」
「嘘。お前、嘘をつくとき動きが止まるからな。」
「……。」
 入り口においておいたはたきを取りだして、窓を開けた。そして布団を敷いたときに立ったほこりをはたく。
「まぁ……立場上挨拶をしないといけない相手だったから。」
「蓮の相手か?」
「なぜ蓮の?」
 思わず棗をみる。だが棗は少し笑っただけだった。
「冗談。蓮がそんな器用じゃねぇのはわかるよ。猪みたいだもんな。お前以外見えてねぇみたいだ。惜しいよな。あれだけの容姿があれば、何も言わなくても女をとっかえひっかえ出来そうなのに。」
「いやないい方ですね。」
「そうか?正直な感想だろ。」
 埃を落としたら次は箒で掃く。あらかたの掃除は終わっているから、埃くらいしかないのだが。
「そんなこと蓮はしませんよ。」
「だったら誰だ。」
「……言えるわけ無いじゃないですか。お客様のことですから。」
 床を掃き終わったら、テーブルを拭く。それで床の準備が終わる。
「たとえば……夕べ来ていたヤクザの関係だとか。」
 その言葉に菊子はまた動きが止まる。図星だ。棗は心の中で笑った。
「お前、今日、どこに行ってたんだよ。」
「武生の家です。」
「武生って……あいつの家はヤクザの一家だっただろう。お前、そんなところに行くなんて、何考えているんだ。この間さんざん怖い思いをしたんじゃないのか。」
 珍しく棗が菊子を叱っている。それだけ菊子を思ってのことだった。
「……梅子に頼まれたんですよ。私も勉強したかったし。」
「だったら図書館とか、学校とかあるだろう?ここでもいいし、その梅子の家でもいいだろう。色んな所があるだろうに、何でヤクザの家なんかに……。」
 不機嫌そうにため息をつく。しかし仕方なかったのだ。三人で話して、そうやって決めたことだ。それを菊子のわがままで変更が出来ないだろうし、昔から行っていたところなのであまり抵抗もなかったのだ。
 だがイヤでも女になる。そうなったから圭吾は手を出してきた。いつまでも子供ではいられないのだ。
「……そうですね。危機感はなかったのかもしれません。」
 イヤに素直に納得したようだ。いつもだったら何だかんだと口答えしてくるのに。
「何だよ。素直だな。」
「蓮でも嫌がるだろうなと思ったからです。」
 蓮はヤクザに良い思いはしていない。それは結果的に美咲を薬に手を染めさせたのは、ヤクザだったからだ。指示をしたのが戸崎の家だったとしても、実行したのはヤクザの家であり圭吾だったのだ。
 それに気がついて、菊子はぞっとした。
 もしかしたら、圭吾はそれを狙っていたのかもしれない。無理矢理抱きしめたりキスをしたのも、自分を陥れようとしているのではないのかと。
「……軽率でしたね。」
「お前……それ以外になんかあったのか?あの香水の匂いとなんか関係あるんじゃないのか。」
「……。」
「武生は何度かあったことがあるが、香水をつけるような男に見えなかった。どっちかというと知加子に影響されてお香なんかを焚いているかもしれないが。」
 確かにそれは当たりだ。武生の部屋は昔と違って、甘い匂いがした。それはお香の香りで、知加子が好きな香りだったという。
「お香の匂いじゃないだろう。アレ、香水だろ?」
「……たぶん、そうですね。」
「あの男か?お前に無理矢理迫っていた背の高い男。」
「……。」
 ほぼ当たりだ。菊子はため息をつくと、ドアを開けようとした。まだ床を用意しないところがあるからだ。
「あぁいうヤツ。好きなのか?蓮も背が高いしな。お前が背が高いから、気にしてるのか?」
 棗とはあまり身長の差がない。棗はそれを気にしているのだろうか。
「私は望んでません。」
 その言葉に棗は少し笑う。
「あいつからまた何かされたな?やったのか?」
「……。」
 しまった。何かあったことがばればれだ。
「してません。」
「でも抱きしめるくらいはしただろう。近くに寄らねぇと匂いなんて簡単に付くもんじゃないし。」
「……。」
 すると棗は手を伸ばして菊子の唇に指を触れた。
「その唇にキスをしたのか。」
「……関係ない。」
 そう言って指を払いのける。
「村上組は、女を食い物にしている。その母体の坂本組もそんな感じだしな。お前みたいなヤツはすぐに落とせるだろ?」
「落ちませんよ。」
「そうか?お前ぶれぶれだからな。簡単にキスするし。」
 そう言って棗は素早く菊子の顔に近づいて、その唇にキスをする。
「やめてくださいよ。」
 軽く触れただけだった。だが菊子はそれを払いのける。だが棗は面白そうに菊子の腕を引く。
「上書きしてやろうか。」
「コレ以上混乱させないで。」
 しかし棗はその腕を皿に引いて、菊子の頬に触れる。
「お前はそれくらいの女なんだよ。いい加減俺の所に来い。」
「やです。」
「自分がどれだけ高いと思ってんだよ。」
 そう言って棗は無理矢理菊子の唇にキスをする。そして舌を無理矢理入れた。壁に押しつけられて、身動きがとれない。
 唇を離されて、体を抱きしめられた。そして棗は耳元で囁く。
「俺の……。」
 すると菊子はその体を押しのける。
「あなたのものじゃない。」
 そう言って菊子は布巾やはたきを持って部屋を出ていった。その後ろ姿を見て、棗は少し笑う。
「気が強い女。立場的には俺の方が愛人みたいなもんか。」
 それでも良い。好きにしたかった。
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