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二年目
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やがてバンドが出てきて、柊さんの音に合わせていく。それもまたミックスの腕なのだろう。まるでその中のバンドの一員なのではないかと思うような融合。
でも多分バンドの人たちはプロだ。うまく柊さんに合わせているのかもしれない。一曲分、たっぷりと音楽を作り、そしてステージ脇からリリーが登場すると、客席のボルテージは最高潮に達した。
リリーもそうだけど、バンドも、そして柊さんも本当に別世界の人のように見えた。
そして一曲終わると、リリーは柊さんの方へ近づいて、彼を促した。柊さんはサングラスのせいか表情が見えない。と言うか、まぁ元からあまり表情が変わらない人だったけど。
リリーは柊さんがDJブースから降りるとき、彼をまたハグをした。そのせいで周りの女性たちが「きゃあ!」と声を上げる。男性もだけど、女性ファンも多いんだな。多分。
リリーはステージを駆けめぐりながら、歌を歌っている。本当に歌が好きな人なんだな。そう思えて、うらやましい。
私は一言だけ柊さんに声をかけようとして、またバックヤードをのぞき込んだ。すると柊さんはそこにいたけれど、ほかのDJの人たちと何か話している。多分、話題は彼が持っていたレコードのことだろう。
「すげぇ。これ絶対、この国じゃ手に入らないと思ってた。」
「俺もつてを使った。」
あのレコード。たぶん茅さんがお土産とか何とかいって持ってきたものじゃなかったっけか。そんなに貴重品だったなんて。
「どこの国ですか。」
「南米だって言ってたか。ワゴンセールにあったらしい。」
「まじで?知らないって恐ろしいよなぁ。」
笑いあう話題に、私はその中に付け入る隙を見つけられなかった。挨拶は諦めた方がいいかもしれない。そう思って私はテントを離れようとした。
すると声をかける人がいる。
「桜さん。」
声をかけてくれたのは菊音さんだった。いつもいつも、この人はよく私を見つけてくれる人だな。
「呼ぼうか?」
「いいです。楽しそうだし。邪魔してはいけませんから。」
「邪魔なんて思わないよ。」
にっこりと笑ったけれど、私は首を横に振った。
「いいんです。菊音さん。連絡を取ろうと思えばとれますからね。」
そう言って私は、テントを後にした。
リリーが歌い出したのを見計らって、人がステージにさらに押し寄せてくる。私はそれを逆行するように歩いていった。
振り返れば、リリーを目当てに人が集まっているステージがある。そしてもう屋台は閑散としていて、もう片づけに入っているところもあった。その中には「虹」もあり、「blue rose」もあるのだろう。
去年は私もこの中にいた。ノンアルコールのカクテルを作り、客に渡していた。
「ありがとう。」
そう言って客は笑っていた。
今の私にそれができるのだろうか。ありがとうって言ってもらえるんだろうか。わからない。
今の私は裏切り者だ。
葵さんを裏切って、他の店で働くかもしれない卑怯な自分がいる。技術を盗み、他の店に売る。そんなことをするかもしれないのだ。
その話を受けていないにしても、そうなることは目に見えている。もう他の企業を受けるという時間もないし、選択肢もない。夏休みはもうすぐ終わるのだ。二学期になったら、早々に就職活動をする。
屋台の通りからでて、もう行こうとした私は目に留まった人がいた。それは連さんと支店長だった。連さんは大きな段ボールを持っている。何かの帰りなのだろうか。
「今晩は。」
声をかけると支店長は私を見て笑った。
「あぁ、彼女に声をかければ良かったかもしれないわね。」
「今更なんですか。」
ん?なんか喧嘩してる?わからないけれど、何か言い合いをしていたようだった。
「何かしていたんですか。」
「えぇ。コーヒーの試飲をしていたの。でもあまり人が集まらなくてね。」
「それはそうですよ。アルコールがでるような店ばかりなのに、コーヒーなんかわざわざ飲まないですよ。」
「……コーヒーの試飲?」
ただで振る舞うってことか。でもどうやらあまり人は集まらなかったみたいだな。
「そ。今度、新しい豆を大々的に売り出そうとしていたんだけど、その味を見てもらうための試飲。だけど人があまり集まらなくて。」
「アルコールを出すような店ばかりですよ。ただでも飲まないと思ってたんですけど。」
「だってこんなに人が集まるイベントなんて、そんなにないじゃない。今日がいいチャンスだったのよ。」
なるほど。これが喧嘩の原因か。
「……どんな豆なんですか。」
「国産の豆。なんかスゴくこだわって作ってる人がいてね。その人の豆を入れようかって思ってたんだけど。」
「焙煎はうまくいっているんですか。」
「えぇ。してもらったやつを淹れたの。」
「見せてもらっていいですか。」
ベンチに座り、段ボールを開けた。そこにはコーヒーを淹れたポットと、紙コップ。砂糖とミルク。
コーヒーを出して、香りをかいでみる。悪くはないようだ。多分淹れて時間がたっているけど、こんなに香りがまだ残ってる。
「あの……サーバーはありますか。」
「え?」
「淹れる道具とかですね。」
「あるわ。営業車に一式揃ってる。」
「取ってきます。」
連さんは走ってその道具を取りに行った。
ベンチに腰掛けて、キャンプとかで使うガスバーナーでお湯を沸かす。ミルで豆を挽くだけで、香りがフワンとたって道行く人たちが足を止めた。
「何が始まるの?」
「何の香り?コーヒー?」
「いい香り。」
お湯が沸いて、ペーパーフィルターにお湯を注いだ。それだけでさらに香りが立ちこめる。
「何ですか。それ。」
「コーヒーですよ。無料で試飲をしてます。良かったらいかがですか。」
「インスタントとか缶コーヒーしか普段飲まないんですよ。」
「ちょっと香りが変わってますけど、美味しいコーヒーです。どうぞ。無料ですから。」
淹れ終わったコーヒーを、「窓」で出しているカップより小さめのカップに注いで、手渡しした。
「美味しい。何だろう。普段砂糖とか入れてんのに。」
「ブラックでもいけるわ。いい香りね。豆ってどこの?」
「国産です。なので、不要な薬剤も入っていなくて……。」
説明は支店長や連さんがしてくれる。私はひたすらコーヒーを淹れて、周りの人に手渡しをした。笑顔になる。美味しいと言ってくれる。それが嬉しかった。
そうか。私……そう言うことがしたかったんだ。美味しいと言ってくれること。
でも多分バンドの人たちはプロだ。うまく柊さんに合わせているのかもしれない。一曲分、たっぷりと音楽を作り、そしてステージ脇からリリーが登場すると、客席のボルテージは最高潮に達した。
リリーもそうだけど、バンドも、そして柊さんも本当に別世界の人のように見えた。
そして一曲終わると、リリーは柊さんの方へ近づいて、彼を促した。柊さんはサングラスのせいか表情が見えない。と言うか、まぁ元からあまり表情が変わらない人だったけど。
リリーは柊さんがDJブースから降りるとき、彼をまたハグをした。そのせいで周りの女性たちが「きゃあ!」と声を上げる。男性もだけど、女性ファンも多いんだな。多分。
リリーはステージを駆けめぐりながら、歌を歌っている。本当に歌が好きな人なんだな。そう思えて、うらやましい。
私は一言だけ柊さんに声をかけようとして、またバックヤードをのぞき込んだ。すると柊さんはそこにいたけれど、ほかのDJの人たちと何か話している。多分、話題は彼が持っていたレコードのことだろう。
「すげぇ。これ絶対、この国じゃ手に入らないと思ってた。」
「俺もつてを使った。」
あのレコード。たぶん茅さんがお土産とか何とかいって持ってきたものじゃなかったっけか。そんなに貴重品だったなんて。
「どこの国ですか。」
「南米だって言ってたか。ワゴンセールにあったらしい。」
「まじで?知らないって恐ろしいよなぁ。」
笑いあう話題に、私はその中に付け入る隙を見つけられなかった。挨拶は諦めた方がいいかもしれない。そう思って私はテントを離れようとした。
すると声をかける人がいる。
「桜さん。」
声をかけてくれたのは菊音さんだった。いつもいつも、この人はよく私を見つけてくれる人だな。
「呼ぼうか?」
「いいです。楽しそうだし。邪魔してはいけませんから。」
「邪魔なんて思わないよ。」
にっこりと笑ったけれど、私は首を横に振った。
「いいんです。菊音さん。連絡を取ろうと思えばとれますからね。」
そう言って私は、テントを後にした。
リリーが歌い出したのを見計らって、人がステージにさらに押し寄せてくる。私はそれを逆行するように歩いていった。
振り返れば、リリーを目当てに人が集まっているステージがある。そしてもう屋台は閑散としていて、もう片づけに入っているところもあった。その中には「虹」もあり、「blue rose」もあるのだろう。
去年は私もこの中にいた。ノンアルコールのカクテルを作り、客に渡していた。
「ありがとう。」
そう言って客は笑っていた。
今の私にそれができるのだろうか。ありがとうって言ってもらえるんだろうか。わからない。
今の私は裏切り者だ。
葵さんを裏切って、他の店で働くかもしれない卑怯な自分がいる。技術を盗み、他の店に売る。そんなことをするかもしれないのだ。
その話を受けていないにしても、そうなることは目に見えている。もう他の企業を受けるという時間もないし、選択肢もない。夏休みはもうすぐ終わるのだ。二学期になったら、早々に就職活動をする。
屋台の通りからでて、もう行こうとした私は目に留まった人がいた。それは連さんと支店長だった。連さんは大きな段ボールを持っている。何かの帰りなのだろうか。
「今晩は。」
声をかけると支店長は私を見て笑った。
「あぁ、彼女に声をかければ良かったかもしれないわね。」
「今更なんですか。」
ん?なんか喧嘩してる?わからないけれど、何か言い合いをしていたようだった。
「何かしていたんですか。」
「えぇ。コーヒーの試飲をしていたの。でもあまり人が集まらなくてね。」
「それはそうですよ。アルコールがでるような店ばかりなのに、コーヒーなんかわざわざ飲まないですよ。」
「……コーヒーの試飲?」
ただで振る舞うってことか。でもどうやらあまり人は集まらなかったみたいだな。
「そ。今度、新しい豆を大々的に売り出そうとしていたんだけど、その味を見てもらうための試飲。だけど人があまり集まらなくて。」
「アルコールを出すような店ばかりですよ。ただでも飲まないと思ってたんですけど。」
「だってこんなに人が集まるイベントなんて、そんなにないじゃない。今日がいいチャンスだったのよ。」
なるほど。これが喧嘩の原因か。
「……どんな豆なんですか。」
「国産の豆。なんかスゴくこだわって作ってる人がいてね。その人の豆を入れようかって思ってたんだけど。」
「焙煎はうまくいっているんですか。」
「えぇ。してもらったやつを淹れたの。」
「見せてもらっていいですか。」
ベンチに座り、段ボールを開けた。そこにはコーヒーを淹れたポットと、紙コップ。砂糖とミルク。
コーヒーを出して、香りをかいでみる。悪くはないようだ。多分淹れて時間がたっているけど、こんなに香りがまだ残ってる。
「あの……サーバーはありますか。」
「え?」
「淹れる道具とかですね。」
「あるわ。営業車に一式揃ってる。」
「取ってきます。」
連さんは走ってその道具を取りに行った。
ベンチに腰掛けて、キャンプとかで使うガスバーナーでお湯を沸かす。ミルで豆を挽くだけで、香りがフワンとたって道行く人たちが足を止めた。
「何が始まるの?」
「何の香り?コーヒー?」
「いい香り。」
お湯が沸いて、ペーパーフィルターにお湯を注いだ。それだけでさらに香りが立ちこめる。
「何ですか。それ。」
「コーヒーですよ。無料で試飲をしてます。良かったらいかがですか。」
「インスタントとか缶コーヒーしか普段飲まないんですよ。」
「ちょっと香りが変わってますけど、美味しいコーヒーです。どうぞ。無料ですから。」
淹れ終わったコーヒーを、「窓」で出しているカップより小さめのカップに注いで、手渡しした。
「美味しい。何だろう。普段砂糖とか入れてんのに。」
「ブラックでもいけるわ。いい香りね。豆ってどこの?」
「国産です。なので、不要な薬剤も入っていなくて……。」
説明は支店長や連さんがしてくれる。私はひたすらコーヒーを淹れて、周りの人に手渡しをした。笑顔になる。美味しいと言ってくれる。それが嬉しかった。
そうか。私……そう言うことがしたかったんだ。美味しいと言ってくれること。
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