夜の声

神崎

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一年目

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 閉店ぎりぎりまで誠さんと柊さんは店にいて、二十一時前二人は出て行った。誠さんはこれから朝まで仕事だ。きっと眠くなったりするんだろうな。
「桜さん。もうあがって大丈夫ですよ。」
「あ、はい。」
 すると葵さんはいすに腰掛け、豆をチェックし始めた。それが始まると彼は何も話さなくなる。集中しているからだろう。
 私はその奥の扉を開けて、スタッフルームで着替えを済ませた。そして制服に着替えた私は、また表に出てくる。
「お先に失礼します。」
 すると葵さんは手を止めてこちらをみた。
「今日は楽しかったです。コーヒーもそんなに気にするほどヒドいものではありませんでした。紅葉はいい豆を用意してくれたんですね。」
「えぇ。値段の割にはいい豆だと思いました。」
 一つ一つパックになっていて、いつでも美味しいコーヒーが飲めるようになっていた。そんな手間のものをよく用意してくれたな。
「つい、昔を思い出してしまいましたよ。」
「昔?」
 そういえば葵さんの昔はよく知らない。母さんから聞いたのは「詐欺師」と言われていたことくらいだ。あとお客さんから聞く話だと葵さんは昔「仏」だと言われていたらしい。
 それは二つの意味がある。いつも笑顔で仏のようだが、暴力を振るうと仏、つまり殺しまではしないけど、半殺しにするくらいの怪我人を山のように作るからと言う話もある。
 それくらいだ。
 彼は豆を手にして言う。
「ここを開店したとき、私はまだ若かった。昔の喫茶店のように、一杯一杯を大切に気持ちを込めて煎れようと決意して開店したんですよ。」
 彼がここを開店したのは、彼がまだ二十七の頃だった。若い彼がなんの後ろ盾もなく喫茶店を開店したのは、ある程度の覚悟が必要だった。
「だいぶ怒鳴られましたよ。早く持ってこいとか、まぁ、フードもしていたせいもあって食堂のようにこの店を見ている人もいました。」
「……。」
「コーヒーくらいコーヒーマシンに煎れさせろとかね。実際そうしようかと思った時期もありましたが、どうしても納得しなかったんです。」
 だからコーヒーマシンのコーヒーが懐かしかったのか。
「今はこのスタイルでいいと思いますよ。あなたのおかげで柊もこの店に足を踏み入れるようになりました。」
「え?」
「えぇ。彼は私を嫌っていますから。あなたのことでごたごたがある前から。」
「……そうでしたか。」
「さ、おしゃべりが過ぎてしまいましたね。早く帰った方がいいでしょう。柊が待っているんじゃないんですか。」
 そうだった。もう帰ろう。
「すいません。お先に失礼します。」
「お疲れさまでした。」
 店を出て携帯を見ると、メッセージが一件入っている。柊さんからだった。

”今日は行けなくなった。”

 がっかりだ。でもわがままは言えない。私はそのメッセージに返信をして、携帯をバックにしまった。
 周りは暗い。表通りに出ても街灯と、途中にある自販機、コンビニくらいしか明かりはない。
「最近は変な人がいるのだから、気をつけてね。」
 母さんの言葉が頭を駆けめぐった。ううん。大丈夫。何もあるわけがない。そう自分に言い聞かせて、家路を急いだ。
 コンビニの前。この時間にいるのはヤンキーとかヤクザくらいだ。それはそれで怖いんだけど。そう思いながら私は早足でコンビニの前を歩いていった。そのときだった。
「桜さん。」
 振り向くと、そこにはコンビニの袋を持った竹彦がいた。
「あぁ。竹彦君。」
「今帰り?」
「そう。」
「今日くらい休んだからいいのに。」
「仕事は仕事だから。」
 ふと柊さんの言葉を思い出した。無理をするなといつも言われている。
「柊さんは?」
「用事が出来たみたいだから。」
「そう。だったら僕が送ろうか?」
「いいえ。大丈夫。いつも一人で帰っているのよ。」
 いつもこの時間に一人で帰っているのだ。そんなに気を使われることもない。
「でもこの辺変な人最近出るらしいよ。」
「もう寒くなってきたのに?」
 変な人というのは暖かくなったら出るものじゃないのか?
「男がいるだけで変な人は近寄ってこないよ。」
 そういえば髪を切っただけなのに、ずいぶん男らしくなったものだ。
「守ってくれるって言うの?真っ先に逃げそうだけど。」
「そんなことはしないよ。」
 家まではそんなに距離はない。ここからでも昼間だったら見えるところにある。だけどその間はあまり明かりはない。
 私たちは並んで歩いていた。その間、私は今日の文化祭のことを話している。ではないと彼が何を話かわからないからだ。
「写真を撮らせてくださいって言うの、向日葵は皆の分をカウントしてたんですって。」
「へぇ。そうなんだ。誰が多かったのかな。」
「匠。」
「そうだったんだ。」
 そのとき目の前に、光る二つのものが横切った。
「きゃっ!」
 驚いて足を止めてしまった。変態は出なかったけど、幽霊が出たなんて洒落にならない。
 それに気がついて、竹彦は私の両手を握ってくれた。
「落ち着いて。猫だよ。」
「え?猫?」
 よく見ると、黒猫だった。ブロック塀に上り、「にゃあ」と一言鳴いて、行ってしまった。
「本当。猫だったわね。」
「この辺をよくうろうろしている野良猫だよ。」
「詳しいわね。」
「人よりはね。」
 両手を握られているその手を彼は離さない。そしてじっと私を見ている。それはわかった。でも私は彼をみない。わざと視線を逸らした。その様子がわかってか、彼は少しため息をついた。
「ありがとう。もう平気よ。」
 私はそういうと手を離そうとした。しかし彼はその手を離そうとはしない。ぐっと引き寄せられると、私は彼の胸元に倒された。
「やめて。」
 抵抗するように彼を押し退けた。
「好きだよ。」
「私は好きじゃない。私が好きなのは……一人だけよ。」
 私の前で大人であろうと頑張っている彼。小さいことばかりを気にしている彼。亭主関白であろうとする彼。
 でもそんな彼が大好きだ。
「僕は……男に見てもらえないだろうか。」
「そんな問題じゃないの。私は……。」
「明日……僕を見て欲しい。柊さんじゃなくて僕を見て欲しい。」
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