夜の声

神崎

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一年目

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 朝早くから花火の音がした。祭りの始まりなのだ。カーテンを開けるといい天気だった。雲はあるが、雨が降るような雲じゃない。空気もカラッとしていて過ごしやすいだろう。
 家の掃除をしながら、私は自然に鼻歌を歌っていたらしい。起きてきた母から妙な顔をされた。
「どうしたの。歌なんか歌って。」
「歌ってた?」
「それも懐かしい歌ね。あたしが十代の頃に流行ってた歌よ。あんた古い歌を知ってるわね。」
 古いといっても私が生まれる前の歌だ。
 夕べの椿さんのラジオ番組の最後。この曲が流れたのだ。彼は珍しく「愛され、愛すあなた方への曲」と言って流した。
 爽やかな女性の曲はふと、柊さんを思い出す。

 昼から、会社に顔を出した。一人で蓮さんが会社の留守番をしているはずだから。そして配送の人が朝、昼だけ交代で出てきている。
 様子を見に行って欲しいと、支社長からさっき連絡があったのだ。ついでに何か冷たいものでも差し入れてくれといわれている。私は途中のコンビニで、アイスを買った。熱いときはこういうモノが欲しくなるはずだ。
 会社のドアを開けると、誰もいなかった。おかしいな。そしてふと倉庫の方を見ると、普段は開いていないドアが開いていて違和感を覚えてそこへ行ってみると、いつものコンテナに商品を詰めている蓮さんの姿が見えた。
「蓮さん。」
「……桜さん。丁度良かった。どうしても見つからない商品があるんです。」
「どれですか。」
 思った以上に「休みですが、発注はお願いできますか。」という問い合わせは多かったらしい。あまりないだろうとタカをくくっていた支社長の予想は大幅に外れたのだ。
 アイスを冷凍庫に入れて、私も倉庫に入り商品を用意することにした。溜まっていた注文書はそれでやっと減っていく。
 最後の一枚になり、それを用意した蓮さんも私もふっとため息を付いた。
「終わりましたね。」
「きりがないので、これで切りましょう。ありがとうございました。」
 時計を見ると、十五時を指している。「虹」に一度来て欲しいという梅子さんとの待ち合わせは、十七時。少し時間はあるだろう。
 それにしてもこんなに暑いのに、どうしてスーツの上着を脱がないんだろう。暑くないことはないと思うのに。首もとや額からは玉の汗が流れているというのに。
「上着脱がないんですか。」
 汗を拭きながら、蓮さんは表情を変えずにいう。
「暑くないので。」
 汗かいてるけど。
「脱げばいいのに。」
「上着ですか。脱ぎたくないんですよ。」
「……何か事情でもあるんですか。」
 配送さんが最後のコンテナを持って行ったそのとき、私は思いきってそう聞いてみた。すると彼は私から視線を逸らしていう。
「事情があります。それをあなたにいう必要はありません。」
 ま、確かにそうだわね。別にそこまで気になるってわけでもないけど、熱中症になってしまったら困るなぁって思っただけだし。大人だし。自分の体調くらいは管理するでしょ。
「そうですね。」
「桜さん、今日の勤務時間はタイムカードに手書きをして置いてください。」
「あ、はい。」
 自分のタイムカードに手書きでおおよその時間を書くとバックを持ち、もう出ようと思った。
「冷蔵庫にアイスがあります。よかったらどうぞ。」
「ありがとうござます。」
「では、私は失礼します。」
 そう言って私は事務所をあとにした。ドアを閉めて、少し考える。
 なんか急に距離を取られた気がする。わからないけど、蓮さんは何を考えているのだろう。そう思いながら階段を下りて、携帯電話を取り出そうとしたときだった。
「あれ?」
 携帯がない。あ……事務所かもしれない。
 私は階段をまたあがり、事務所のドアを開けた。
「……桜さん。」
 そこには上着を脱いだ蓮さんがいた。その彼の肩のあたりには黒いものがワイシャツ越しに透けて見える。
「……すいません。携帯電話を忘れたみたいで。」
 来客用のソファに携帯電話が転がっていた。そして私は急ぎ足でそこを出ようとドアへ向かう。
「桜さん。」
 声をかけられて足を止めた。振り返ればきっと蓮さんがいる。
「見えていますよね。」
「……汗かいてるじゃないですか。さっさと拭いた方がいいですよ。風邪ひくと……。」
「やはり怖いですか。」
「何が?」
 とぼけたふりをした。しかし彼は言葉を続ける。
「若気の至りで、私はこんなモノを。」
 ワイシャツのボタンを取る音。私は振り返り、それを恐る恐る見た。そこにあったのは、月と太陽をモチーフにした不思議な入れ墨。これで入れ墨を入れている人を見たのは、三人目。柊さん。葵さん。そして蓮さん。
「驚かないんですね。」
「入れている人結構いますから。少し意外でしたけどね。」
「私が入れていることですか。」
「えぇ。」
「……そう言えば、兄も入れていましたよ。それで二人ですね。あと誰か入れているのを見たんですか。」
「言う必要がありますか。」
 その言葉に、彼は少し驚いようだった。しかしふっと笑う。
「そうですね。愚問でした。」
「見れば驚きますが、今はそんなに珍しくはないですよ。」
 笑顔が消え、彼は私を見下ろした。
「年上の恋人でしょう。」
「……それが?」
「やめた方がいい。こんなモノを入れている人などろくな人間ではない。」
「あなたも含めてですか。」
「えぇ。私も出て行った妻の気持ちがわからない、愚かな人間ですよ。」
「……自分のことをそんなに卑下するんですね。それが一番愚かです。きっと……私の好きな人はそう言うでしょうね。」
 椿さんならそう言うだろう。それは私の言葉じゃない。椿さんの言葉だ。
「そう言う言葉がさらりと言える人が恋人ですか。だとしたら言葉だけのずいぶん薄い人間のようだ。やめた方がいい。そんな人は。きっとろくな人間ではないでしょう。」
「会ったこともないくせに!」
 思わず私は彼の体を押しのけるように突き放す。
「正直な感想ですよ。まるで、誰かから借りてきたような言葉だと思ったんです。」
「……。」
「傷つく前に別れを考えた方がいいのでは。」
 彼はそう言ってまたワイシャツを身につけた。そして私を見る。バカにしたような目だった。
「別れてもあなたを選ぶことはありませんので。それに……今の言葉は、恋人の言葉ではないのです。」
「では誰の?」
「恋人に会う前まで一番好きだった方です。」
 椿さんの声がまだ私には必要だった。
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