夜の声

神崎

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一年目

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 捕まれた腕の力がふっと抜ける。そしてその腕が私を包んだ。煙草の臭いがする。私の唇に柊さんの肩の感触が伝わってきた。だがそれは一瞬だった。
 彼はすぐに体を外す。
「悪い。つい……。」
「柊さん。やめないでください。」
「え?」
「嫌じゃないんで。」
「……そんなことを男に言うものじゃない。桜。男は勘違いをする。お前が思っている以上に、男はバカで単純だ。」
「でも……私……。」
「桜。人を好きになったことがないと言っていたな。だったらどうして「やめないで」と言える?お前の欲望か?だとしたらそれは性欲だ。」
「性欲?」
「そう。男にもあるし、女にもあるだろう。高校生にもなればそういう奴らばかりだ。」
「……。」
 どうしてだろう。こう言うときに母の顔が浮かぶなんて。十五の時に私を産んだ母。私を育てている母に男の影がつきないのは、愛を振りかざして性欲が押さえられないのだろうと下げずんで見ていた。
 なのに今は自分がそんな立場になるなんて。やはり母の娘というわけだ。
「私の性欲ではありません。」
 私は彼を見上げると、その端正な頬に手を当てた。ざらっとした髭の感触がある。
「私はお礼がしたい。」
 そう言わないと、母と同じになりそうだと自分に言い訳をした。
 すると彼は納得したのか、その私の手をつかみあげる。
「礼か。」
「はい。」
 すると彼は私を見下ろす。つかみ上げた手を手首、そして手のひらに移った。大きくて温かな手が私の手を包み込む。それだけで心臓が破裂しそうなくらい、大きく鼓動しているのがわかった。
 どうしてこんな事を言ったのだろう。「お礼」だなんて。お礼のために何でもしてあげるかのようじゃない。だけど後悔していない。「お礼」を言い訳に彼が欲しいと思った。
「桜。目を瞑れ。」
 目を瞑り、それを待った。
 やがて右の頬に温かな感触が伝わってきた。それは彼の唇だと思った。そしてその頬に指の感触が伝わり、そして顔をつかみ上げるように上を向いた。
 来る。
 覚悟した。葵さんの時は覚悟が出来ないまま、あれよあれよという間にキスをされた。でも今は違う。
 吐息が唇にかかる。そしてその厚い唇が、私の唇に重なった。一瞬の出来事だった。
 薄く目を開けると、柊さんは優しい眼差しで私を見ていた。ダメだ。そんな目で見られたら、勘違いをしてしまう。
「柊さん……。」

 ガン!

 後ろ頭を打ってしまったかもしれない。しかし痛いなんて思えなかった。彼の腕が私を壁に押しつけたから。そしてぐっと顎をもたれると、今度は唇をついばむようにキスをしてきた。
 顎の下をぐっと押さえられ、口が嫌でも開く。その口の中に舌を入れてきた。
 煙草の臭いと、コーヒーの匂いが混ざった香りがする。
「んっ……。」
 長いキスをして、たくましい腕で私を抱きしめてくれる。温かくてたくましい体だった。
 してしまったんだ。このとき私は初めて男の人とキスをした実感を得ることが出来た。どきどきして、嬉しい感情で胸が一杯になる。
「……こんなに激しくするつもりはなかったんだが。」
「……。」
「こんなおっさんとキスしても嬉しくないだろう。」
「そんなことないです。あの……。」
「桜。ダメだ。それ以上言うな。」
「どうして?」
「歯止めが利かなくなる。」
「……利かなくてもいい。」
「桜。」
「お願い。柊さん。もっと名前を呼んでください。」
「桜。」
 私はその体にしがみつくように腕を伸ばして抱きしめた。そして唇をまた重ねる。

 愛の言葉など無かった。ただ一緒にいたかっただけ。まるで獣だ。私たちは恋人同士でもなければ、愛を確かめ合ったわけでもない。
 でもその日は誓って言うけれど、柊さんはキスを何度かして帰って行った。携帯電話に呼び出されたのだ。ずるい。
 いいや。ずるいのは私もそうだ。何も言わず、何も語らず、私たちはただキスだけを重ねたのだから。
 教室で他愛のない会話をしている友達も、確かにもうキスはおろか、セックスを済ませている人だって多い。私は遅い方だったのかもしれない。だけど三十代の人とキスをしたのは、おそらく私くらいだろう。それかエンコーとかしている女の子くらいだろうか。
 あぁ。世の中から見れば、私もあの子たちと同じなのか。なんかやだな。
 でも肝心の柊さんと、二人であうチャンスはほとんどない。学校にいるときは彼も忙しく動いているし、私の周りには友人がいる。私たちは目を合わせることも許されなかった。
「……さん。」
 遠くから声が聞こえる。隣で向日葵が私を呼んでいた。
「何?」
「桜。呼ばれてるよ。」
 はっ!授業中だった。ふと前を見ると、地理の先生が私を見下ろしていた。
「目を開けたまま寝てるなんて器用だな。」
 教室中が笑いに包まれた。
「すいません。」
「眠気覚ましに、ちょっと一階まで降りるか。」
「一階?」
「地図を持ってきて欲しいんだが。一人で持てると思う。」
「わかりました。倉庫ですか。」
「うん。化学室の隣だ。」
 私はそう言われて、教室を出ていった。ほかのクラスもまだ授業をしている。
 誰もいない廊下を通り、階段を下る。教室は三階。倉庫は一階。二階を通り過ぎて、一階に降りる。そして化学室の隣にある倉庫のドアに手を伸ばした。
 持ってきて欲しい地図はいくつかあるうちの一つ。誇りっぽく薄暗い倉庫の中の奥に立てかけられている。それを一つ手にとると、ずっしりと重かった。
「桜。」
 声がして驚いた。思わず手を離しそうになる。ぎゅっとその地図を胸に抱いて、振り返った。そこには柊さんがいる。
「柊さん。」
「授業中にどうしたんだ。」
「これを持ってきて欲しいと言われて……。」
「さぼりかと思った。」
 前も一度授業を抜けて柊さんに会いに来たから、そう思われても仕方がない。
「さぼりじゃないですよ。」
 地図を持ったまま、私は柊さんの方へ近寄っていった。すると彼は私の肩に手を置いた。
「桜。」
 顔が近づいてくる。彼が何をしたいのかわかるから、私はそのまま目を閉じた。
 前と違うのは汗の臭い。でもそれも嫌じゃない。唇が一瞬触れた。
「今日、葵の店に行く。」
「待ってます。」
 何もなくても、こんな事は出来る。今ならエンコーしている女子の気持ちもわかるのかもしれない。
 だけど私は彼に触れられる度に、胸が熱くなるような気がするのだ。甘いのかもしれないけど、これが恋心なのだろうか。
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