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譲歩
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エレキベースを持って、会社が指定したスタジオへ向かう。気が進まないが、多くのバンドが集まるフェスに出演するのだ。今更自分が乗り気ではないから辞退したいなどと言う無責任なことは言えない。
それに指定された曲はオリジナルではなくカバーだ。弾き慣れた曲でもあるし、あとはどんなメンツでも合わせられることが出来るのかという不安だけだった。
スタジオの場所は、一馬が「flower children」の時に、たまに使うこともあった場所で音楽スタジオだけではなく、絵画の発表なんかをしたり個人で自分の作品を売ったりするためのスペースが立ち並んでいるところだった。そのほかには古着や雑貨屋などが建ち並び、どちらかというと若い人が多く集まるところで一馬は懐かしそうにその町並みを見ながらエレキベースを背負いながら歩いていた。
こういうところに憧れた時期もある。古着がお洒落だと安い値段でジャンパーを買ったり、重いコートを買ったり、向こうの国の払い下げのアロハシャツを買ったこともあったが、すぐに色落ちをしたりゴワゴワしたりしたのですぐに捨ててしまったが。安いモノはやはり安いなりの価値しかないと、その時やっと気がついたのだ。
自分よりも若い人たちが通り過ぎ、手には古着屋の紙袋が持たれている。彼らもまだそれに気がつくときが来るだろう。
スタジオがある建物に入る前に、自動販売機の前に立つ。そして水を買おうと財布を取り出したときだった。
「あれ?」
声をかけられて振り返ると、そこにはひょろっと背の高い男が立っている。それは見覚えのある男だった。そうだ。この男は、あのプロデューサーが絶賛していた元アイドルのボーカリストだ。手の甲にある入れ墨と綺麗な顔立ちが印象に残っている。
「何か買いますか?」
「買うのは買うけど……あんた、アレだ。「flower children」の……。」
そう言われるのは慣れた。一馬はそう思いながら自動販売機にコインを入れて、水を取り出す。自分よりもずいぶん大きな男だと男は思っていた。
「今はしがないスタジオミュージシャンです。「flower children」はもう過去ですから。」
「俺も昔アイドルだったのは過去ですよ。もう三十のおっさんです。」
見た目が若いのでそんなに歳を取っていると思ってなかった。だが一馬はそのまま水を手にして、スタジオの方へ行こうとした。
「ねぇ。ちょっとあんた。」
そう言って男が行こうとする一馬を引き留めた。
「あんたという名前ではない。花岡です。」
「花岡さんね。俺は栗山って言うんだけど。」
「……栗山さんね。」
関心がなさそうに一馬はそう言うと、栗山は一馬を見上げて言う。
「元々ジャズだろう?ロックは弾けるのか?」
「そう思うなら、あまり期待はしないでください。」
わざと突き放すようなことを言った。そして一馬はまたスタジオの方へ向かっていく。その様子に栗山はため息をついた。やはり噂通りの男だと思ったから。
あまり人と交ざらない。口数も少なく、人とのコミュニケーション能力に欠けているという噂だった。それでも一馬が引く手あまたなのは、一馬のベースの腕によるモノだ。
そしてもう一つの噂。それはバンドのメンバーの女を寝取るというモノだ。それも相当絶倫らしい。大抵の女は気絶するまで責められる。プロデューサーもそこには注意しろという話だったが、それ以上に全く人に興味がなさそうだ。女となれば違うのだろうか。栗山はそう思いながら、自動販売機にコインを入れる。
初めて音を合わせると思えないほど、息が合っていた。普段、バンドのメンバーにあぁだこうだと言って嫌がられていた栗山だが、ここではあまり口を出すこともない。ギターもドラムも、そしてキーボードも息が合っているように感じた。
そして何よりそのサウンドをまとめるように、ベースが良い働きをしていたと思う。ベースをしまっていた一馬は、それでも表情が変わらない。この高揚感は、この場にいたみんなが共有していたと思っていたのに。
「花岡さん。」
女性プロデューサーが声をかける。そこでやっと一馬は顔を上げた。
「はい。」
「どうでしたか?このメンツ。」
すると一馬は何か言いかけた。だが口をぐっと引き締めたあと少し頷いた。
「良いと思います。十五分でしたかね。持ち時間。」
「そうです。」
「その間に練習が何度出来るかわからないけれど、精度は上げていけば客は満足すると思いますよ。」
あくまで上から目線だ。その態度に栗山が思わず一馬のところへ歩みを進める。
「あんたさぁ。」
「何ですか?」
使ったベースの片付けを終えて、そのチャックを閉めた一馬は立ち上がると栗山を見下ろした。
「俺ら真剣にしているんだよ。バンドって言うのはまず気が合うとか、合わないとか、そういうところから始まるんじゃないのか。あんた、本当にビジネスの感覚で来ているのか?」
すると一馬は表情を変えずに言う。
「そうですけど。」
「は?」
「言われたからする。それだけです。」
その言葉に女性プロデューサーは頭を抱えた。何でも正直に言えば良いというモノではないのだが、一馬はその辺が全くわかっていない。
「あんたさぁ……。」
「客に満足してもらいたいと思っているなら、もう少し口を出したいところですね。俺もまだ精度を上げないといけないけれど、他もそうです。」
他と言われてキーボードの男もカチンとしたように、一馬の方を見る。
「あんただって、急に音程を変えるなよ。こっちだってそんなことをされたら焦るんだから。」
すると一馬は冷静に言う。
「どうしてもこういう室内は空気がこもる。空調はあって無いようなモノだ。そうなれば室温も上がる。そうすればキーボードはともかく、弦楽器やドラムも微妙に音程が上がる。だからそっちに合わせていたつもりだ。ライブは野外でしたかね?」
プロデューサーにそう聞くと、プロデューサーは頷いた。
「時間によって違うな。春先は昼と夜の気温差もあるし。どうしても弦楽器はそうなってくるのはわかる。でも三曲だから。」
「えぇ。その短い中で音程は変わるとは思えませんが、長時間の練習だったから。」
言っていることは正しい。だが何でも正直に言えば良いというモノではない。一馬は音楽になるとその辺の理性が効かないのだ。
「flower children」の人たちは良く耐えていたなと、プロデューサーは逆に関心をしていた。
スタジオを出た一馬は、他のメンバーが食事へ行くというのを尻目に駅の方へ足を進めようとしていた。その時栗山が声をかける。
「花岡さん。あんたも食事に行かないのか?」
「これから用事があるんです。」
「売れっ子だもんな。」
二,三時間の練習だったが、練習後の一言ですっかり一馬は嫌われたようだ。特にこの栗山という男からはあまり好感触に思われていない。
「そういう意味ではないです。仕事とは別の予定があるからいけないというだけですから。」
「だったら次の練習の時は、来てくれるんだな?」
栗山がそう聞くと一馬は少し頷いた。
「そうします。それでは失礼します。」
このバンドの中では一馬が一番年下だ。だが栗山の次くらいに名が売れている。それだけに嫌な思いも沢山してきたのだろう。
「栗山さん。行きましょうか?」
女性プロデューサーからそう言われた。だが栗山は携帯電話を取りだして、わざとらしく口走る。
「あぁ、そうだった。俺、これから用事があって。俺もすいません。次、絶対飯に行きますから。」
そう言って栗山も駅の方向へ向かう。その後ろ姿に女性プロデューサーはため息をついた。余計なことをして一馬から嫌われなければ良いがと思っていたのだ。
それに指定された曲はオリジナルではなくカバーだ。弾き慣れた曲でもあるし、あとはどんなメンツでも合わせられることが出来るのかという不安だけだった。
スタジオの場所は、一馬が「flower children」の時に、たまに使うこともあった場所で音楽スタジオだけではなく、絵画の発表なんかをしたり個人で自分の作品を売ったりするためのスペースが立ち並んでいるところだった。そのほかには古着や雑貨屋などが建ち並び、どちらかというと若い人が多く集まるところで一馬は懐かしそうにその町並みを見ながらエレキベースを背負いながら歩いていた。
こういうところに憧れた時期もある。古着がお洒落だと安い値段でジャンパーを買ったり、重いコートを買ったり、向こうの国の払い下げのアロハシャツを買ったこともあったが、すぐに色落ちをしたりゴワゴワしたりしたのですぐに捨ててしまったが。安いモノはやはり安いなりの価値しかないと、その時やっと気がついたのだ。
自分よりも若い人たちが通り過ぎ、手には古着屋の紙袋が持たれている。彼らもまだそれに気がつくときが来るだろう。
スタジオがある建物に入る前に、自動販売機の前に立つ。そして水を買おうと財布を取り出したときだった。
「あれ?」
声をかけられて振り返ると、そこにはひょろっと背の高い男が立っている。それは見覚えのある男だった。そうだ。この男は、あのプロデューサーが絶賛していた元アイドルのボーカリストだ。手の甲にある入れ墨と綺麗な顔立ちが印象に残っている。
「何か買いますか?」
「買うのは買うけど……あんた、アレだ。「flower children」の……。」
そう言われるのは慣れた。一馬はそう思いながら自動販売機にコインを入れて、水を取り出す。自分よりもずいぶん大きな男だと男は思っていた。
「今はしがないスタジオミュージシャンです。「flower children」はもう過去ですから。」
「俺も昔アイドルだったのは過去ですよ。もう三十のおっさんです。」
見た目が若いのでそんなに歳を取っていると思ってなかった。だが一馬はそのまま水を手にして、スタジオの方へ行こうとした。
「ねぇ。ちょっとあんた。」
そう言って男が行こうとする一馬を引き留めた。
「あんたという名前ではない。花岡です。」
「花岡さんね。俺は栗山って言うんだけど。」
「……栗山さんね。」
関心がなさそうに一馬はそう言うと、栗山は一馬を見上げて言う。
「元々ジャズだろう?ロックは弾けるのか?」
「そう思うなら、あまり期待はしないでください。」
わざと突き放すようなことを言った。そして一馬はまたスタジオの方へ向かっていく。その様子に栗山はため息をついた。やはり噂通りの男だと思ったから。
あまり人と交ざらない。口数も少なく、人とのコミュニケーション能力に欠けているという噂だった。それでも一馬が引く手あまたなのは、一馬のベースの腕によるモノだ。
そしてもう一つの噂。それはバンドのメンバーの女を寝取るというモノだ。それも相当絶倫らしい。大抵の女は気絶するまで責められる。プロデューサーもそこには注意しろという話だったが、それ以上に全く人に興味がなさそうだ。女となれば違うのだろうか。栗山はそう思いながら、自動販売機にコインを入れる。
初めて音を合わせると思えないほど、息が合っていた。普段、バンドのメンバーにあぁだこうだと言って嫌がられていた栗山だが、ここではあまり口を出すこともない。ギターもドラムも、そしてキーボードも息が合っているように感じた。
そして何よりそのサウンドをまとめるように、ベースが良い働きをしていたと思う。ベースをしまっていた一馬は、それでも表情が変わらない。この高揚感は、この場にいたみんなが共有していたと思っていたのに。
「花岡さん。」
女性プロデューサーが声をかける。そこでやっと一馬は顔を上げた。
「はい。」
「どうでしたか?このメンツ。」
すると一馬は何か言いかけた。だが口をぐっと引き締めたあと少し頷いた。
「良いと思います。十五分でしたかね。持ち時間。」
「そうです。」
「その間に練習が何度出来るかわからないけれど、精度は上げていけば客は満足すると思いますよ。」
あくまで上から目線だ。その態度に栗山が思わず一馬のところへ歩みを進める。
「あんたさぁ。」
「何ですか?」
使ったベースの片付けを終えて、そのチャックを閉めた一馬は立ち上がると栗山を見下ろした。
「俺ら真剣にしているんだよ。バンドって言うのはまず気が合うとか、合わないとか、そういうところから始まるんじゃないのか。あんた、本当にビジネスの感覚で来ているのか?」
すると一馬は表情を変えずに言う。
「そうですけど。」
「は?」
「言われたからする。それだけです。」
その言葉に女性プロデューサーは頭を抱えた。何でも正直に言えば良いというモノではないのだが、一馬はその辺が全くわかっていない。
「あんたさぁ……。」
「客に満足してもらいたいと思っているなら、もう少し口を出したいところですね。俺もまだ精度を上げないといけないけれど、他もそうです。」
他と言われてキーボードの男もカチンとしたように、一馬の方を見る。
「あんただって、急に音程を変えるなよ。こっちだってそんなことをされたら焦るんだから。」
すると一馬は冷静に言う。
「どうしてもこういう室内は空気がこもる。空調はあって無いようなモノだ。そうなれば室温も上がる。そうすればキーボードはともかく、弦楽器やドラムも微妙に音程が上がる。だからそっちに合わせていたつもりだ。ライブは野外でしたかね?」
プロデューサーにそう聞くと、プロデューサーは頷いた。
「時間によって違うな。春先は昼と夜の気温差もあるし。どうしても弦楽器はそうなってくるのはわかる。でも三曲だから。」
「えぇ。その短い中で音程は変わるとは思えませんが、長時間の練習だったから。」
言っていることは正しい。だが何でも正直に言えば良いというモノではない。一馬は音楽になるとその辺の理性が効かないのだ。
「flower children」の人たちは良く耐えていたなと、プロデューサーは逆に関心をしていた。
スタジオを出た一馬は、他のメンバーが食事へ行くというのを尻目に駅の方へ足を進めようとしていた。その時栗山が声をかける。
「花岡さん。あんたも食事に行かないのか?」
「これから用事があるんです。」
「売れっ子だもんな。」
二,三時間の練習だったが、練習後の一言ですっかり一馬は嫌われたようだ。特にこの栗山という男からはあまり好感触に思われていない。
「そういう意味ではないです。仕事とは別の予定があるからいけないというだけですから。」
「だったら次の練習の時は、来てくれるんだな?」
栗山がそう聞くと一馬は少し頷いた。
「そうします。それでは失礼します。」
このバンドの中では一馬が一番年下だ。だが栗山の次くらいに名が売れている。それだけに嫌な思いも沢山してきたのだろう。
「栗山さん。行きましょうか?」
女性プロデューサーからそう言われた。だが栗山は携帯電話を取りだして、わざとらしく口走る。
「あぁ、そうだった。俺、これから用事があって。俺もすいません。次、絶対飯に行きますから。」
そう言って栗山も駅の方向へ向かう。その後ろ姿に女性プロデューサーはため息をついた。余計なことをして一馬から嫌われなければ良いがと思っていたのだ。
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