彷徨いたどり着いた先

神崎

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 いつもの街に帰ってきて、一馬はそのまま事務所へ向かう。一馬が「flower children」だった頃とは別のレコード会社だった。一馬が何をしたか、どうしてバンドを解散してしまったかなども全部知っている上で契約をした貴重な存在だった。
 その上で担当している担当が、一馬にジャズバンドに加入して欲しいと資料とCDを手渡してきた。だが一馬は未だに「うん」とは言わない。少し意固地になっているところもあるのだろう。
「資料を見るだけ見て。CDも聴くだけ聴いて、その上で無理って言うんだったらこっちも考えるから。」
 ほぼ無理矢理のように資料を手渡してきた。一馬はため息を付いてその資料をバッグに入れる。そして携帯電話をみた。まだ「clover」が開いている時間だが、今から行けばぎりぎりになるかもしれない。
 コーヒーが飲みたい。響子が丁寧に淹れたそのコーヒーも、そして響子自身にも会いたい。そう思えばもうすでに足は駅の方へ向かっている。
 そして電車に乗ると、「clover」のある最寄り駅に着いた。駅は住宅街で、サラリーマンやOL風の女性が家路を急いでいるようだ。少し行けばドラッグストアや深夜まで開いているスーパーがある。そこでみんな食材を買って、家族の食事を作るのだろう。
「……。」
 もし、響子と一緒になるなら、響子はどういう立場になるのだろう。こういう仕事は時間が不定期だ。呼ばれればどこへでも行くし、時間の制約もない。アーティストによっては夜中にレコーディングをして、朝まですることもある。
 響子は、帰ってくるかわからない一馬のために食事を用意したり掃除をしたりするのだろうか。そんな奥さんには到底なれない気がする。自分の大概我が儘だが、響子だってそれなりに我が儘な人間なのだ。
 だが想像はする。家に帰ると、エプロンを付けた響子が「お帰り」と言ってくれること。それを想像するだけで顔がにやけてきそうだ。
 「clover」に到着すると、ドアを開けた。するとドアベルが鳴り、迎えてくれたのは圭太だった。
「いらっしゃいませ。花岡さん。」
 現実はそんなものだ。一馬は心の中でため息を付くと、圭太に聞く。
「まだオーダーは大丈夫だろうか。」
「ぎりぎりでしたね。でも大丈夫ですよ。コーヒーですよね?」
「あぁ。お願いします。」
「響子。テイクアウトの単品ブレンド。」
「はい。」
 キッチンへ行っていたのだろう。響子は銀色のボウルを手にして、カウンターに戻ってきた。そして一馬の姿を見ると、少し笑う。
 圭太の言い方が夫婦のように聞こえて、少し気分が悪かった。だがそれも響子の姿を見れば吹き飛んでしまう。我ながら単純だ。
「あぁ。オーナー。」
 一馬は引いていたキャリーケースの中から、ビニールの包みを取り出した。そしてそれを圭太に手渡す。
「これをみんなで。」
 すると圭太は少し笑ってその中身をみた。ちゃんと保冷剤の入っているベーコンの固まりだったのだ。
「わぁ。良いんですか?」
「つまみになるだろう?ここは忘年会とか……。」
「去年はしなかったですけどね。それどころじゃなかったし。」
「そうでしたね。ここはケーキ屋だった。」
 クリスマスイブがケーキ屋の年で一番忙しい日だ。そんな日にのんきに忘年会などしないだろう。
「あーでもほら、クリスマスが過ぎれば割とゆっくりしてるんですよ。だからその時期にみんなで飯でも良いかなって。」
「じゃあその一品にでも加えてください。」
「そのときは花岡さんも是非。」
「俺も?」
「俺のとっておきを出しておくんで。」
「ふふっ。」
 少し笑った。本当に圭太は何も気が付いていないのかもしれないと思ったから。悪意があるわけではない。嬉しいのだ。気が付かなければ、響子をまた抱くことが出来るかもしれないと言う考えもあった。
 一度きりだと思った。だが一度抱けばまた抱きたくなる。そんな女にあったことはなかった。
「ウィンナーコーヒーとココア。ブッシュ・ド・ノエルが二つ。四番、お願い。」
「はい。」
 功太郎がトレーにそれを乗せて、客席へ行く。その客は功太郎がお気に入りのようで、功太郎の言葉遣いが悪くても「孫のようだ」とおおらかな目で見ていた貴重な客だ。
 そのとき一馬の後ろでドアベルが鳴った。
「すいません。まだ大丈夫ですか?」
 聞き覚えのある女性の声だった。振り返るとそこには牧野加奈子が同じようなキャリーケースを引いて、店内に入ってきたのだ。
「はい。まだ大丈夫ですよ。ケーキはもう限られていますけど、宜しいですか?」
 圭太がそう聞くが、加奈子は立っていた一馬に驚いて見上げている。
「花岡さん。どうしてここに?」
「あなたこそ。」
「私、今から仕事で……焼き菓子を詰めて貰おうかと。花岡さんは?」
「ここのコーヒーが好きなんです。」
 駅からも距離がある。なのにここのコーヒーをわざわざ買いにくるのだ。そんなに美味しいコーヒーなのだろうか。
「焼き菓子の詰め合わせですか?」
 圭太はそう聞くと、加奈子は頷いた。
「あの……三千円くらいで詰めて欲しいんですけど。」
「かしこまりました。」
 キッチンにいる真二郎に声をかけようとしたそのとき、加奈子が呼び止めるように圭太に言う。
「あの……コーヒーもテイクアウトが出来るんですか?」
「出来ますよ。」
「じゃあ。それも一つ貰って良いですか?」
「はい。響子。」
 見るにコーヒー豆をセットしていた響子が顔だけでそちらを見る。
「テイクアウトのブレンド単品もう一つ出来るか?」
「ごめん。一杯分くらいしかなくて。」
「あー。そうか。今日、結構出たもんな。すいません。ちょっと豆が切れてしまって。」
 すると加奈子は手を振って言う。
「大丈夫です。こんな夜に来たんですから。こちらこそ無理を言って。」
「焼き菓子、すぐ用意しますね。」
 そう言って圭太はカウンターの方へ足を進める。そして真二郎に声をかけた。そしてカウンターに戻ると、響子がいつものようにネルドリップをセットしている。だがその手に少し違和感があった。
「響子。どうしたんだ。」
「え?」
「それ裏表逆だろ?」
「あぁ……そうだったわ。」
 そう言って響子はそのセットをやり直す。何か動揺しているのだろうか。ふと入り口の方を見ると、一馬が加奈子と話をしている。
「歌が入るとどんな感じになるんですかね。楽しみ。」
「サンプルをくれると思いますけどね。でもまぁ、聞けば聞くほどあぁしてればよかったって思うモノばかりで。」
「あたしも反省会ばかりしてますよ。」
 気にしているのだろうか。確かに響子と一馬は仲が良いようだが、それは友人としての感情しかない。いつか響子ははっきりそう言っていた。
 もしかしてそれ以上の感情があるのか。そう聞きたいが、聞けない。自分にも後ろめたいところがあるからだ。
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