184 / 339
表面化
183
しおりを挟む
いつもの街に帰ってきて、一馬はそのまま事務所へ向かう。一馬が「flower children」だった頃とは別のレコード会社だった。一馬が何をしたか、どうしてバンドを解散してしまったかなども全部知っている上で契約をした貴重な存在だった。
その上で担当している担当が、一馬にジャズバンドに加入して欲しいと資料とCDを手渡してきた。だが一馬は未だに「うん」とは言わない。少し意固地になっているところもあるのだろう。
「資料を見るだけ見て。CDも聴くだけ聴いて、その上で無理って言うんだったらこっちも考えるから。」
ほぼ無理矢理のように資料を手渡してきた。一馬はため息を付いてその資料をバッグに入れる。そして携帯電話をみた。まだ「clover」が開いている時間だが、今から行けばぎりぎりになるかもしれない。
コーヒーが飲みたい。響子が丁寧に淹れたそのコーヒーも、そして響子自身にも会いたい。そう思えばもうすでに足は駅の方へ向かっている。
そして電車に乗ると、「clover」のある最寄り駅に着いた。駅は住宅街で、サラリーマンやOL風の女性が家路を急いでいるようだ。少し行けばドラッグストアや深夜まで開いているスーパーがある。そこでみんな食材を買って、家族の食事を作るのだろう。
「……。」
もし、響子と一緒になるなら、響子はどういう立場になるのだろう。こういう仕事は時間が不定期だ。呼ばれればどこへでも行くし、時間の制約もない。アーティストによっては夜中にレコーディングをして、朝まですることもある。
響子は、帰ってくるかわからない一馬のために食事を用意したり掃除をしたりするのだろうか。そんな奥さんには到底なれない気がする。自分の大概我が儘だが、響子だってそれなりに我が儘な人間なのだ。
だが想像はする。家に帰ると、エプロンを付けた響子が「お帰り」と言ってくれること。それを想像するだけで顔がにやけてきそうだ。
「clover」に到着すると、ドアを開けた。するとドアベルが鳴り、迎えてくれたのは圭太だった。
「いらっしゃいませ。花岡さん。」
現実はそんなものだ。一馬は心の中でため息を付くと、圭太に聞く。
「まだオーダーは大丈夫だろうか。」
「ぎりぎりでしたね。でも大丈夫ですよ。コーヒーですよね?」
「あぁ。お願いします。」
「響子。テイクアウトの単品ブレンド。」
「はい。」
キッチンへ行っていたのだろう。響子は銀色のボウルを手にして、カウンターに戻ってきた。そして一馬の姿を見ると、少し笑う。
圭太の言い方が夫婦のように聞こえて、少し気分が悪かった。だがそれも響子の姿を見れば吹き飛んでしまう。我ながら単純だ。
「あぁ。オーナー。」
一馬は引いていたキャリーケースの中から、ビニールの包みを取り出した。そしてそれを圭太に手渡す。
「これをみんなで。」
すると圭太は少し笑ってその中身をみた。ちゃんと保冷剤の入っているベーコンの固まりだったのだ。
「わぁ。良いんですか?」
「つまみになるだろう?ここは忘年会とか……。」
「去年はしなかったですけどね。それどころじゃなかったし。」
「そうでしたね。ここはケーキ屋だった。」
クリスマスイブがケーキ屋の年で一番忙しい日だ。そんな日にのんきに忘年会などしないだろう。
「あーでもほら、クリスマスが過ぎれば割とゆっくりしてるんですよ。だからその時期にみんなで飯でも良いかなって。」
「じゃあその一品にでも加えてください。」
「そのときは花岡さんも是非。」
「俺も?」
「俺のとっておきを出しておくんで。」
「ふふっ。」
少し笑った。本当に圭太は何も気が付いていないのかもしれないと思ったから。悪意があるわけではない。嬉しいのだ。気が付かなければ、響子をまた抱くことが出来るかもしれないと言う考えもあった。
一度きりだと思った。だが一度抱けばまた抱きたくなる。そんな女にあったことはなかった。
「ウィンナーコーヒーとココア。ブッシュ・ド・ノエルが二つ。四番、お願い。」
「はい。」
功太郎がトレーにそれを乗せて、客席へ行く。その客は功太郎がお気に入りのようで、功太郎の言葉遣いが悪くても「孫のようだ」とおおらかな目で見ていた貴重な客だ。
そのとき一馬の後ろでドアベルが鳴った。
「すいません。まだ大丈夫ですか?」
聞き覚えのある女性の声だった。振り返るとそこには牧野加奈子が同じようなキャリーケースを引いて、店内に入ってきたのだ。
「はい。まだ大丈夫ですよ。ケーキはもう限られていますけど、宜しいですか?」
圭太がそう聞くが、加奈子は立っていた一馬に驚いて見上げている。
「花岡さん。どうしてここに?」
「あなたこそ。」
「私、今から仕事で……焼き菓子を詰めて貰おうかと。花岡さんは?」
「ここのコーヒーが好きなんです。」
駅からも距離がある。なのにここのコーヒーをわざわざ買いにくるのだ。そんなに美味しいコーヒーなのだろうか。
「焼き菓子の詰め合わせですか?」
圭太はそう聞くと、加奈子は頷いた。
「あの……三千円くらいで詰めて欲しいんですけど。」
「かしこまりました。」
キッチンにいる真二郎に声をかけようとしたそのとき、加奈子が呼び止めるように圭太に言う。
「あの……コーヒーもテイクアウトが出来るんですか?」
「出来ますよ。」
「じゃあ。それも一つ貰って良いですか?」
「はい。響子。」
見るにコーヒー豆をセットしていた響子が顔だけでそちらを見る。
「テイクアウトのブレンド単品もう一つ出来るか?」
「ごめん。一杯分くらいしかなくて。」
「あー。そうか。今日、結構出たもんな。すいません。ちょっと豆が切れてしまって。」
すると加奈子は手を振って言う。
「大丈夫です。こんな夜に来たんですから。こちらこそ無理を言って。」
「焼き菓子、すぐ用意しますね。」
そう言って圭太はカウンターの方へ足を進める。そして真二郎に声をかけた。そしてカウンターに戻ると、響子がいつものようにネルドリップをセットしている。だがその手に少し違和感があった。
「響子。どうしたんだ。」
「え?」
「それ裏表逆だろ?」
「あぁ……そうだったわ。」
そう言って響子はそのセットをやり直す。何か動揺しているのだろうか。ふと入り口の方を見ると、一馬が加奈子と話をしている。
「歌が入るとどんな感じになるんですかね。楽しみ。」
「サンプルをくれると思いますけどね。でもまぁ、聞けば聞くほどあぁしてればよかったって思うモノばかりで。」
「あたしも反省会ばかりしてますよ。」
気にしているのだろうか。確かに響子と一馬は仲が良いようだが、それは友人としての感情しかない。いつか響子ははっきりそう言っていた。
もしかしてそれ以上の感情があるのか。そう聞きたいが、聞けない。自分にも後ろめたいところがあるからだ。
その上で担当している担当が、一馬にジャズバンドに加入して欲しいと資料とCDを手渡してきた。だが一馬は未だに「うん」とは言わない。少し意固地になっているところもあるのだろう。
「資料を見るだけ見て。CDも聴くだけ聴いて、その上で無理って言うんだったらこっちも考えるから。」
ほぼ無理矢理のように資料を手渡してきた。一馬はため息を付いてその資料をバッグに入れる。そして携帯電話をみた。まだ「clover」が開いている時間だが、今から行けばぎりぎりになるかもしれない。
コーヒーが飲みたい。響子が丁寧に淹れたそのコーヒーも、そして響子自身にも会いたい。そう思えばもうすでに足は駅の方へ向かっている。
そして電車に乗ると、「clover」のある最寄り駅に着いた。駅は住宅街で、サラリーマンやOL風の女性が家路を急いでいるようだ。少し行けばドラッグストアや深夜まで開いているスーパーがある。そこでみんな食材を買って、家族の食事を作るのだろう。
「……。」
もし、響子と一緒になるなら、響子はどういう立場になるのだろう。こういう仕事は時間が不定期だ。呼ばれればどこへでも行くし、時間の制約もない。アーティストによっては夜中にレコーディングをして、朝まですることもある。
響子は、帰ってくるかわからない一馬のために食事を用意したり掃除をしたりするのだろうか。そんな奥さんには到底なれない気がする。自分の大概我が儘だが、響子だってそれなりに我が儘な人間なのだ。
だが想像はする。家に帰ると、エプロンを付けた響子が「お帰り」と言ってくれること。それを想像するだけで顔がにやけてきそうだ。
「clover」に到着すると、ドアを開けた。するとドアベルが鳴り、迎えてくれたのは圭太だった。
「いらっしゃいませ。花岡さん。」
現実はそんなものだ。一馬は心の中でため息を付くと、圭太に聞く。
「まだオーダーは大丈夫だろうか。」
「ぎりぎりでしたね。でも大丈夫ですよ。コーヒーですよね?」
「あぁ。お願いします。」
「響子。テイクアウトの単品ブレンド。」
「はい。」
キッチンへ行っていたのだろう。響子は銀色のボウルを手にして、カウンターに戻ってきた。そして一馬の姿を見ると、少し笑う。
圭太の言い方が夫婦のように聞こえて、少し気分が悪かった。だがそれも響子の姿を見れば吹き飛んでしまう。我ながら単純だ。
「あぁ。オーナー。」
一馬は引いていたキャリーケースの中から、ビニールの包みを取り出した。そしてそれを圭太に手渡す。
「これをみんなで。」
すると圭太は少し笑ってその中身をみた。ちゃんと保冷剤の入っているベーコンの固まりだったのだ。
「わぁ。良いんですか?」
「つまみになるだろう?ここは忘年会とか……。」
「去年はしなかったですけどね。それどころじゃなかったし。」
「そうでしたね。ここはケーキ屋だった。」
クリスマスイブがケーキ屋の年で一番忙しい日だ。そんな日にのんきに忘年会などしないだろう。
「あーでもほら、クリスマスが過ぎれば割とゆっくりしてるんですよ。だからその時期にみんなで飯でも良いかなって。」
「じゃあその一品にでも加えてください。」
「そのときは花岡さんも是非。」
「俺も?」
「俺のとっておきを出しておくんで。」
「ふふっ。」
少し笑った。本当に圭太は何も気が付いていないのかもしれないと思ったから。悪意があるわけではない。嬉しいのだ。気が付かなければ、響子をまた抱くことが出来るかもしれないと言う考えもあった。
一度きりだと思った。だが一度抱けばまた抱きたくなる。そんな女にあったことはなかった。
「ウィンナーコーヒーとココア。ブッシュ・ド・ノエルが二つ。四番、お願い。」
「はい。」
功太郎がトレーにそれを乗せて、客席へ行く。その客は功太郎がお気に入りのようで、功太郎の言葉遣いが悪くても「孫のようだ」とおおらかな目で見ていた貴重な客だ。
そのとき一馬の後ろでドアベルが鳴った。
「すいません。まだ大丈夫ですか?」
聞き覚えのある女性の声だった。振り返るとそこには牧野加奈子が同じようなキャリーケースを引いて、店内に入ってきたのだ。
「はい。まだ大丈夫ですよ。ケーキはもう限られていますけど、宜しいですか?」
圭太がそう聞くが、加奈子は立っていた一馬に驚いて見上げている。
「花岡さん。どうしてここに?」
「あなたこそ。」
「私、今から仕事で……焼き菓子を詰めて貰おうかと。花岡さんは?」
「ここのコーヒーが好きなんです。」
駅からも距離がある。なのにここのコーヒーをわざわざ買いにくるのだ。そんなに美味しいコーヒーなのだろうか。
「焼き菓子の詰め合わせですか?」
圭太はそう聞くと、加奈子は頷いた。
「あの……三千円くらいで詰めて欲しいんですけど。」
「かしこまりました。」
キッチンにいる真二郎に声をかけようとしたそのとき、加奈子が呼び止めるように圭太に言う。
「あの……コーヒーもテイクアウトが出来るんですか?」
「出来ますよ。」
「じゃあ。それも一つ貰って良いですか?」
「はい。響子。」
見るにコーヒー豆をセットしていた響子が顔だけでそちらを見る。
「テイクアウトのブレンド単品もう一つ出来るか?」
「ごめん。一杯分くらいしかなくて。」
「あー。そうか。今日、結構出たもんな。すいません。ちょっと豆が切れてしまって。」
すると加奈子は手を振って言う。
「大丈夫です。こんな夜に来たんですから。こちらこそ無理を言って。」
「焼き菓子、すぐ用意しますね。」
そう言って圭太はカウンターの方へ足を進める。そして真二郎に声をかけた。そしてカウンターに戻ると、響子がいつものようにネルドリップをセットしている。だがその手に少し違和感があった。
「響子。どうしたんだ。」
「え?」
「それ裏表逆だろ?」
「あぁ……そうだったわ。」
そう言って響子はそのセットをやり直す。何か動揺しているのだろうか。ふと入り口の方を見ると、一馬が加奈子と話をしている。
「歌が入るとどんな感じになるんですかね。楽しみ。」
「サンプルをくれると思いますけどね。でもまぁ、聞けば聞くほどあぁしてればよかったって思うモノばかりで。」
「あたしも反省会ばかりしてますよ。」
気にしているのだろうか。確かに響子と一馬は仲が良いようだが、それは友人としての感情しかない。いつか響子ははっきりそう言っていた。
もしかしてそれ以上の感情があるのか。そう聞きたいが、聞けない。自分にも後ろめたいところがあるからだ。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
囲いの中で
未知 道
恋愛
美憂が何かを努力しても、人が離れて行ってしまう。
過去の美憂は、それでも諦めずに頑張っていれば、いつかは自分を見てくれる人が現れると思い。日々、努力していた。
そして漸く、そんな人が現れたと喜んでいたが……――結局、理由も分からず、同じことの繰り返しに終わる。
※ひたすらに女主人公が可哀想な目にあっています。
疲れる目覚まし時計
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
朝、僕が布団の中でまどろんでいると、姉さんが起こしに来た。
まだ時間が早いから寝ようとする僕を、姉さんが起こそうとする。
その起こし方がとても特殊で……。
クリスマス・イブ
wawabubu
恋愛
仲が良かった姉弟。弟が就職を機に独り暮らしを始め、姉はどこか空虚感を感じていた。実は姉にも恋愛の破局があった。傷心の姉は気分を変えようと弟の新居に年末の掃除の手伝いに訪れる。
姉らぶるっ!!
藍染惣右介兵衛
青春
俺には二人の容姿端麗な姉がいる。
自慢そうに聞こえただろうか?
それは少しばかり誤解だ。
この二人の姉、どちらも重大な欠陥があるのだ……
次女の青山花穂は高校二年で生徒会長。
外見上はすべて完璧に見える花穂姉ちゃん……
「花穂姉ちゃん! 下着でウロウロするのやめろよなっ!」
「んじゃ、裸ならいいってことねっ!」
▼物語概要
【恋愛感情欠落、解離性健忘というトラウマを抱えながら、姉やヒロインに囲まれて成長していく話です】
47万字以上の大長編になります。(2020年11月現在)
【※不健全ラブコメの注意事項】
この作品は通常のラブコメより下品下劣この上なく、ドン引き、ドシモ、変態、マニアック、陰謀と陰毛渦巻くご都合主義のオンパレードです。
それをウリにして、ギャグなどをミックスした作品です。一話(1部分)1800~3000字と短く、四コマ漫画感覚で手軽に読めます。
全編47万字前後となります。読みごたえも初期より増し、ガッツリ読みたい方にもお勧めです。
また、執筆・原作・草案者が男性と女性両方なので、主人公が男にもかかわらず、男性目線からややずれている部分があります。
【元々、小説家になろうで連載していたものを大幅改訂して連載します】
【なろう版から一部、ストーリー展開と主要キャラの名前が変更になりました】
【2017年4月、本幕が完結しました】
序幕・本幕であらかたの謎が解け、メインヒロインが確定します。
【2018年1月、真幕を開始しました】
ここから読み始めると盛大なネタバレになります(汗)
氷獄の中の狂愛─弟の執愛に囚われた姉─
イセヤ レキ
恋愛
※この作品は、R18作品です、ご注意下さい※
箸休め作品です。
がっつり救いのない近親相姦ものとなります。
(双子弟✕姉)
※メリバ、近親相姦、汚喘ぎ、♡喘ぎ、監禁、凌辱、眠姦、ヤンデレ(マジで病んでる)、といったキーワードが苦手な方はUターン下さい。
※何でもこい&エロはファンタジーを合言葉に読める方向けの作品となります。
※淫語バリバリの頭のおかしいヒーローに嫌悪感がある方も先に進まないで下さい。
注意事項を全てクリアした強者な読者様のみ、お進み下さい。
溺愛/執着/狂愛/凌辱/眠姦/調教/敬語責め
短編集〜現代〜
狭山雪菜
恋愛
現代が舞台のマッチングアプリ"ストロベリーラブ"の短編集です。
ほぼエロです。
*映画館
*車
*父、娘 全2話 近親相姦です。苦手な方はご注意
*アニメ
*先生、生徒 エロなし
*親友の男 浮気の話
*姉、弟はドロドロに愛したい 近親相姦です。苦手な方はご注意
*シチュエーション
*公衆トイレ
1作品出来るごとににあらすじに記載します。
この作品は、「小説家になろう」にも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる