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エピローグ
59.
しおりを挟む◇◇
楓庵が閉店してから2か月がたった。
桜の季節はとうに過ぎ、街路樹の若葉が力強い緑に染まった、とある日曜日の朝。取材と称して東京に出てきた茜に「カフェにでもいこうよ」と誘われた。
先月、久しぶりに実家へ帰ったものの、忙しくて会えなかったことへの埋め合わせなんだそうだ。
でも実際は違くて、妹の紗代から私の様子を聞いたからに違いない。
――店長がいないんじゃ、店なんてやってられねえだろ。
あの日以来、心に穴が空いたかのようだった。
何をするにしてもやる気が起きない。
実家に帰ったのも、どこか遠くへ行きたかったからであり、もし茜に「会いたい」と言われても断っていた。
現に実家での私はずっと自分の部屋にこもったまま3日間を過ごしたのである。
今は誰とも会いたくない。
どう断ろうかと悩んでいると、スマホに通知がきた。
『待ち合わせは川越のOIMOってカフェの2階ね!』
OIMOと言えばソラと出会った場所だ。
まだ1年もたっていないのに、なんだかすごく懐かしい。
物欲しげに上目遣いでパフェを見つめていたソラの姿が脳裏に浮かび、口元が緩んだ。
そして……。
『いいよ』
ほとんど無意識のうちに、そう茜に返信していたのだった。
◇◇
「美乃里、元気出しなよ! カフェのことは残念だけど、本業の方は週休2日に戻ったって、紗代ちゃんから聞いたよ。お給料も元に戻るんでしょ? だったらこれから新しいことを始めるチャンスじゃない!」
茜はお芋のパフェを頬張りながらそう言った。
でも私は取り繕うつもりも、強がるつもりもない。
「そうね」
短く返事をしただけで、窓の方を見る。
春のうららかな陽気に誘われたのか、灰色の猫が人混みの中を悠然と歩いているのが目に映った。首輪をしていないから野良猫だろうか。
「あ、もしかして八尋さんのことで悩んでるの? 彼、急に忙しくなっちゃったもんねぇ。
ねえ、知ってる?
彼のリサイタルは『ペットと一緒に参加できる』みたいよ。
飼い主にとってペットは家族だから、って理由なんだって!
やっぱり真のイケメンは顔だけじゃなくて、心もイケてるわよねぇ」
私の口元に自然と小さな笑みが漏れる。
ペットたちの前で楽しそうにピアノを弾く八尋さんを想像しただけで、胸が躍ったからだ。
でも心は晴れそうになく、分厚くて灰色の雲がかかったまま。
そんな私の心境などつゆにも知らず、野良猫は通りをずんずんと進んでいく。茜の口もまた止まることはなかった。
「それにさ、彼だって別に美乃里のことを忘れたわけじゃないわ。
いつかまた会える日がくるって!
その時がチャンスよ。久しぶりの再会ほど恋が燃え上がる時はないからね。一度つかんだ手は絶対に離さない、って言うの。でも結婚はダメ!
あ、ごめん。そろそろ行かなくちゃ。じゃあ、何かあったら連絡するのよ! 特に結婚したい相手が見つかったらすぐLINEよ! 約束だからね!」
茜は慌ただしく去っていった。
自分から誘った割には正味1時間も一緒にいなかったと思う。
そう言えば彼女は、八尋さんの復帰の舞台裏を独占取材してから、大手の新聞社に引き抜かれたらしい。
忙しいにも関わらず、私を心配して会いにきてくれたのだ。
とてもありがたいし、これからも彼女との友情を大切にしたいと心から思えた。
窓の外で、彼女が手を振っている。
私は「ありがとう」と大きく口を開けて言いながら手を振り返した。
嬉しそうにニコリと笑って、足早に駅の方へ向かう茜の姿が見えなくなったところで、私は彼女の言葉を反復した。
「約束……か……」
何気なく灰色の猫の方へ視線を戻す。
しかし次の瞬間、はっと息を飲んだ。
「えっ……?」
なんと猫が視線を合わせてきたのである。
まるで私に何かを訴えかけているようだ。
いったい何が言いたいのか。
せめて言葉が分かればいいのに……。
そう感じた時だった。
――言葉は使わなきゃもったいないし、素直な気持ちを口に出せばすっきりするからよ。
かつてソラに言われたことが頭の中をよぎったのだ。
ひとりでに目が見開かれる。
――じゃあ、約束だぞ! これからは自分にして欲しいことを素直に言うってな!!
して欲しいことを素直に言う……。
心を覆っていた分厚い雲が少しずつ散っていく。
雲間から漏れ出した光が徐々に体の体温を上げ、居ても立っても居られずに立ち上がった。
伝票を持ってレジへ行き、会計をすませる。
「ありがとうございました!」
店員さんの明るい声に背中を押されながら外へ出る。
春の日差しが眩しい。思わず目を細める。
でも視界には猫の姿をしっかりととらえていた。
猫はついてこいと言わんばかりに、私から逃げていく。
人混みをかきわけながら足を前へ前へ動かしているうちに、今度は八尋さんの声が脳裏に響いた。
――美乃里さんはどうしたいんだい?
『私がして欲しいこと』と『私がしたいこと』。
猫を追いかけながら、その二つがどんどん大きくなっていった。
そうして三芳野神社の森に入ったところで、二つは一つになった。
「そうか。やっぱりそうよね」
ひとつの確信が、私の背に翼を与えた。とたんに足が軽くなる。
足場は悪い。でも私は疾風となり、木々の合間をすり抜けていく。
心から完全に雲が消えた。真夏の晴天のように光で満たされている。
いつの間にか猫の姿は跡形もなくなくなり、その代わり、今、目に映っているのは、ポツンとたたずむ古い建物。
木の看板には『楓庵』の文字。
ためらうことはない。
その扉を押した。
――チリリン。
涼やかな鈴の音が鳴り響く。
でもカウンターの隅でこちらに背を向ける少年は振り向かない。
だから私は大声で言った。
「ねえ、お願いがあるんだけど――」
決意したのだ。
自分の信じた道を進んでいこう、と。
もう二度と後悔しないために。
「私、ここの店長になりたいの! だから手伝ってちょうだい! ソラ!」
ゆっくりと振り返ったソラがニヤリと笑みを浮かべる。
「これを受け取れ」
彼は何かを私に向かって放った。
綺麗な放物線を描いて、私の両手におさまる。
見覚えがある……。
そうだ。これは楓庵のカギ。
胸が高鳴り、体温があがる。ひとりでに口が開かれた。
「よろしくね!! ソラ!!」
ソラは小首をかしげた後、小さくうなずいた。
この瞬間にはじまったのだ。
私の新しい前進が――。
(了)
※最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!
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