42 / 60
第四幕 よみがえりのノクターン
42.サヨナラを言えないまま
しおりを挟む「花音……」
5年前とほとんど変わっていなかった。
ちょっとだけ髪の色が明るくなったのと、薄い化粧をしていたけど、あの頃とまったく同じ笑顔が眩しいくらいに輝いていた。
「やっぱり君の音はいつ聞いても綺麗だよ」
「ありがとう。でもどうして花音がここに?」
当然浮かぶ疑問。
花音はわずかに戸惑いを見せたが、大きな目を細くして答えた。
「君のお母さんにね。頼まれたんだよ」
『母』という言葉を耳にしたとたんに、ドクンと心臓が脈打つ。
僕は震える声でたずねた。
「どういうこと?」
「凛之助が一人で前に進めるようになるまででいいから、あなたに支えてほしいって」
「そうか……。そういうことだったのか……」
――もうあなたの人生にかかわることはないでしょう。
あれもウソだったというわけだ。
つまり母ははじめから僕が真剣にピアノの稽古に励むように、あえて彼女を僕から遠ざけたということだ。
僕はまんまと母の作戦にはまり、ピアノに没頭した。
そして自分の命の火が消えかかっていると知るや、再び花音を僕のそばに送り込んだ――。
どんな反応をしてよいか、分からなかった。
自然と顔が伏せていく。
「凛之助くん。大丈夫?」
「大丈夫なわけないだろ……。二人して僕をだまして……」
口をついて出てくる毒々しい声。
でも花音は顔色を変えず、ゆっくりと窓の方へ近づいてきた。
「私ね。断ったんだよ。君のお母さんの頼み」
意外な言葉にはっとなって花音を見た。
彼女は少しだけ頬を赤らめながら続けた。
「君のお母さんは素直に私の言葉を受け入れてくれた。そしてこう言ったの。『あなたがどうしたいか、その答えに従ってくれればいいわ』とね」
花音はついに窓のすぐそばまでやってくると、サッシに手をかけた。
僕は椅子から立ち上がる。
「花音はどんな答えを出したんだ?」
「今ここに立っている――それが答え、じゃダメかな?」
一歩また一歩と窓の方へ寄っていき、ついに花音の目の前に立った。
しかし死んだはずの母にずっと見張られているようで、まだ迷っていた。
そんな僕に彼女はさらりと問いかけたのだった。
「凛之助くん。君はどうしたい?」
その一言は、あらゆる悩みを吹き飛ばし、僕の荒れた心を救い出してくれた。だから僕はとても純粋な気持ちを吐露したのだ。
「僕は花音にピアノを聞いてほしい。これから先もずっと」
そう言い終えた直後。
僕は自分の唇と花音の唇を重ねた。
彼女の頬に一筋の涙が伝っているのが目に入り、僕はゆっくりと彼女から離れてその涙を親指で拭った。
それから1年後。
母の喪があけたのを見計らって、僕らは家族になった。
母の敷いたレールに乗ったままでいたくなかった僕は、パリの学校を辞め、花音とともに東京の賃貸マンションに越した。さらにお世話になっていた音楽事務所とのマネジメント契約も破棄した。
これからは自分で敷いたレールの上を走っていこう。花音とともに。
そう決意したんだよ。
そうしてオーストリアの公演という、初めて大きな仕事が舞い込んできた。
花音もすごく喜んでくれてね。
僕自身浮かれていた。
取り立ての免許を財布に入れて、空港まで車で行くことにした。
とても霧が濃い朝だったのを覚えている。
国道の交差点。信号は青だった。
何の疑いもなく直進したところで、左手から大きなトラックが突っ込んできた――。
それ以降のことは、あまり覚えていないよ。
ただね。
僕は大切な家族に、またサヨナラを言えないままお別れしたことだけは、心に深い傷となって刻まれたんだ――。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
前略、旦那様……幼馴染と幸せにお過ごし下さい【完結】
迷い人
恋愛
私、シア・エムリスは英知の塔で知識を蓄えた、賢者。
ある日、賢者の天敵に襲われたところを、人獣族のランディに救われ一目惚れ。
自らの有能さを盾に婚姻をしたのだけど……夫であるはずのランディは、私よりも幼馴染が大切らしい。
「だから、王様!! この婚姻無効にしてください!!」
「My天使の願いなら仕方ないなぁ~(*´ω`*)」
※表現には実際と違う場合があります。
そうして、私は婚姻が完全に成立する前に、離婚を成立させたのだったのだけど……。
私を可愛がる国王夫婦は、私を妻に迎えた者に国を譲ると言い出すのだった。
※AIイラスト、キャラ紹介、裏設定を『作品のオマケ』で掲載しています。
※私の我儘で、イチャイチャどまりのR18→R15への変更になりました。 ごめんなさい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる