上 下
39 / 60
第四幕 よみがえりのノクターン

39.約束

しおりを挟む

 聞けば高校を卒業した彼女は就職のために東京の方へ引っ越すという。
 先月には決まっていたことだったが、どうしても僕に言い出すことができなかったそうだ。

「どうして?」

 ちょっとでも油断すればあふれ出しそうな涙を必死にこらえて、声を絞り出した僕に、うつむき加減の花音は濡れた服をタオルで拭きながら答えた。

「……約束だから……」

「約束?」

「でも破っちゃった……」

「どういうこと?」

 花音は僕の疑問には答えようとせず、タオルを天井に向かってぱっと放り投げると、いつも母が使っている椅子を持ち出してピアノの前に置いた。

「弾こう! ピアノ!」

 つい先ほどまでの湿っぽい空気を吹っ切った花音は、鍵盤に指を置く。
 細くて白い指。すっと伸びた背筋。そしていつになく真剣な表情。
 これまで見たこともない鋭く研ぎ澄まされた雰囲気に、思わず見とれていると、聞き覚えのあるメロディーが耳に入ってくる。

「ハンガリー舞曲《ぶきょく》……」

 ブラームスが書いた連弾のための曲だ。連弾とは二人の演奏者が一つのピアノで曲を奏でること。
「一緒に弾こうよ」と言わんばかりに、彼女は僕の顔を見つめる。
 僕は恐る恐る彼女の隣に腰をかけた。
 母から言いつけられた曲以外は、「ハッピーバースデートゥーユー」以来弾いたことがない。言いつけを破ればこっぴどい目にあうのは分かっている。戸惑いと恐怖で手が震えた。それほど僕には母の折檻はトラウマだった。
 でも花音は顔を青くした僕に、こうささやいたんだ。


「君は誰のものでもない。君自身のものだよ。さあ、勇気を出して」


 その言葉は一服の清涼剤のようで、僕の心はすっと落ち着いていった。
 そして彼女と小さくうなずき合った後、僕らはピアノを弾き始めた。

 初めての連弾――。

 でも昔から練習してきたかのように息はぴったりだった。
 ずっとこうしていたいと心から思えるくらいに幸せな時間だったよ。
 曲を弾き終わってからも、しばらく余韻に浸っていた。

 それから彼女は、僕の頬に優しく口づけをして去っていったんだ。

◇◇

 そこで一度話を切った八尋さんは、目を細めながら穏やかな表情を浮かべている。それは恥ずかしさを隠すためとも、過ぎ去った日を懐かしく振り返っているようにも思える。
 私は少し引っかかっていたことをたずねた。

「ところで花音さんの言う『約束』とは何だったんですか?」

 八尋さんの顔に一瞬だけ深い影が落ちる。
 でも彼はすぐに元の表情に戻して口を開いた。

「母との約束だよ」

「お母さまとの……? どういうことですか?」

「実は、花音は母が教えるピアノ教室の生徒だったのだよ」

 あまりに意表を突かれる言葉に、頬を思いっきり張られたかのような鋭い痛みが走り、言葉を失う。
 自然と口が半開きになり、首が小刻みに横に振られた。
 そんな私の様子を見て、八尋さんはくすりと乾いた笑みを漏らした。

「僕もね。はじめ聞かされた時は、美乃里さんとまったく同じ反応だったよ。だってすぐに信じろ、という方に無理があるよね。僕と花音が出会う前から、母と彼女の間に『約束』が存在していたなんて――」
 
しおりを挟む

処理中です...