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第四幕 よみがえりのノクターン

38.突然の別れ

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 花音との出会いは、春のうららかな陽射しが差し込む昼過ぎだった。僕の家は、田舎にある一軒家なんだけど、彼女はその庭……といっても芝で覆われたこんじまりしたところにね、一人でたたずんでいたんだよ。
 僕は母に言いつけを守って、一人ピアノの稽古に励んでいた。
 母から与えられた課題の曲はショパンの幻想即興曲。弾き終えた後、パチパチと手を叩く音が聞こえた。

「だれ?」

 その方へ目を向けると、開きっぱなしになった窓の向こうで、地元の中学校の制服を着た女の子が、こっちを見てニコニコしていたんだ。

「君、ピアノうまいね!」

 肩まで伸ばした髪、猫のような大きな目、あどけなさの残る可愛らしい顔立ち――。
 桜の花びら舞う風景に見事に溶け込んでいてね。不審に思うよりも先に、吸い込まれるような錯覚に陥って、彼女のことから目が離れなくなってしまったのを今でもよく覚えているよ。

「私は吉沢花音《よしざわかのん》。花音でいいからね!」

 真夏に咲く向日葵のような明るい声が鼓膜を震わせる。僕はどもりながら答えるのが精一杯だった。

「僕は……八島凛之助」

「凛之助くんね。もう覚えたよ! ところでどれくらいやってるの? ピアノ」

 少し離れたところから大きな声でたずねてくる彼女に、僕は小さな声で答えた。

「……5年くらい」

「そっかぁ。たった5年でこんなにうまいんじゃ、世の中から『不公平』って3文字は消えないわけだ。私も君と同じく5年もやってるのに、さっぱりだもんなぁ」

 あごに手を当てて「ふむふむ」とうなずいている彼女に、僕はうつむき加減で告げた。

「あの……。そこ僕のうちだけど……」

「あはは! ふほーしんにゅーってやつだね! ごめん、ごめん! 道を歩いていたら、聞いたこともないくらい綺麗な音が聞こえてきたからさ。ついね」

「綺麗な音……」

 驚く僕に花音はニカッとしながら、さらりと答えた。

「君の奏でるピアノの音は、まるで今日の青空のようにとても綺麗ってこと!」

 彼女が空を見上げ、僕もつられて上を向いた。
 雲一つない澄んだ青。
 僕の奏でる音はこの空に似ている――ドクンと心臓が高鳴り、すっかり枯れた心に喜びが怒涛のように押し寄せてくるのが分かった。
 でも僕はそれが恥ずかしくて、「もう練習に戻らなきゃ」と、彼女に背を向けた。すると彼女は僕の背中に声をかけてきた。

「あはは! ごめんね! そうだ! また窓を開けっぱなしにしておいてくれないかな? 私は君のピアノに一目惚れしちゃったみたいなんだ。
 ……むっ、待てよ。ピアノは音だから一目惚れという表現はおかしいかな。一聞き惚れって言葉なんてあったけ? まあ、どっちでもいいや!
 ねっ! お願い! また君のピアノを聞かせてほしいの!
 あ、君の家のお庭にも入らせてくれると嬉しい。だって君のピアノを間近でずっと聞いていたいから」

 それからほぼ毎日、彼女はやってきた。雨が降ろうが風が吹こうが関係なかった。ただ僕のピアノを聞いて、最後に拍手をしてニコリと微笑みかけてくれた。
 それが無性に嬉しくてね。
 母は相変わらず厳しくて、折檻もよくされたけど、耐えることができたのは、花音に会えること、そして彼女が拍手してくれることが生きがいになっていたからだと思う。
 これまでの僕は自分のためにピアノを弾いていた。
 怒られたくない、叩かれたくない――その一心だった。
 でも花音と出会ったことで知ったんだ。
 目の前の人を喜ばせるためにピアノを弾くことの尊さを――。

 中学に入る頃には、母に連れられて日本各地のコンクールに参加することになったんだけど、遠征の最中は花音に会えないのが寂しかったな。

「おかえり! どうだった? コンクール」

 そうたずねる彼女に優勝トロフィーを見せる時は、自分が誇らしかった。

「すごーい!! やっぱり私が見込んだだけある!! さすがだよ!!」

 もっと彼女と一緒にいたい。
 もっと彼女のそばにいたい。
 窓一枚隔てている距離が憎い。

 そんな思いが募っていった中学3年の終わりのこと。
 それは年に1度あるかないかの豪雨だった。
 花音はさすがにこないだろうと思って、窓とカーテンを閉めていた。
 でも夕方になってふとカーテンの間を覗くと、彼女が立っていたんだ。
 窓越しからでも彼女が泣いているのが分かった。
 僕は慌てて庭に出て、彼女を初めて家の中に招き入れ、落ち着いたところで涙の理由をたずねた。

「今日でお別れなの……」

 ガツンと後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に目が回った。
 
 

 

 
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