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第三幕 伝言ふたつ
28.君を膝に乗せて
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「おいっ、美乃里! 邪魔をするな!」
雷を落としてきたソラ。私はなるべく冷静に答えた。
「そりゃあ、私だって、めでたしめでたし……だったら引きとめなんかしない。でも本当にそうかしら?」
「どういうことですか?」
眉を八の字にした美憂さんが問いかけてきた。
足を止めたフクと、コーヒーカップから手を離したおじいさんも、視線を私に向けている。
みんなが不思議がるのはよく分かってるつもり。
でもおじいさんとフクの間には、まだ大きな溝があるのは、さっきの会話からも明らかだもの。
ここ楓庵は飼い主とペットが笑顔でお別れする場所でしょ。
だったら今のままでフクくんとおじいさんをお別れさせるわけにはいかない。
私は一度大きく深呼吸をした後、ぐっと腹に力を込めて言った。
「確かに奥様の想いはお客様に通じたかもしれません。
でもお客様の想いはフクくんに通じたでしょうか?」
おじいさんが口を少しだけ開ける。その視線は徐々に突き刺すように鋭くなっていった。それでも私は彼から目をそらさずに続けた。
「お客様。フクくんに隠していることがあるなら、今お話しください。でないと、きっと後悔してしまいます」
「いったい私が何を隠しているというのか?」
おじいさんの口調が冷たい。眉間にしわを寄せ、顔はほのかに紅潮している。
でも感情をあらわにするのは、さっきと同じだった。
つまり触れられたくない想いに触れられた時だ。
だから私は確信した。
「フクくんを我が子に迎えようと決めたのは――奥様ではなく、お客様だったのですよね?」
と――。
「えっ……? おばあちゃんが決めたんじゃないの?」と美憂さんが言えば、
「美憂の通りだ。俺は確かにこの耳で聞いたんだからな。ばあちゃんが俺の名前を決めてくれたのを」とフクが続く。
でも誰がなにを言おうとも、私はおじいさんから注意をそらさなかった。
私の視線を嫌うようにおじいさんは天井を見上げた後、顎のあたりを右手でなでた。
そしてもう一度私に視線を戻してから、落ち着いた声で問いかけてきたのだった。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって奥様は『毛並みが真っ白な猫』が大好きだったのですよね。でも、フクくんの毛色はキジトラですから……」
「たまたま白い猫がいなかっただけ、とは思わんのか?」
「そうかもしれません。でも本当にそうなんですか?」
おじいさんが私をじっと見つめた。
鋭く光るその瞳は、まるで鋭利な刃のように私の顔に突き刺さる。
正直言って、すごく怖い。せっかく良くなりかけた雰囲気が壊れてしまうかもしれない、という不安もある。当然、無礼なことを言った私のことをおじいさんは嫌うだろう。
心が今にもポキっと音を立てて折れてしまいそうになる。
でもその時……。
――私、桜が見たい……。
綾香のかすれた声が脳裏に響いてきた。
そうだ……。
このまま引き下がったら、私はやっぱり何も変わっていないことになる。
勇気をもって、あらゆる後悔を捨てて笑顔でお別れするペットと飼い主の姿を何度も見てきたのに。
ここで、一歩前に出ないければ、全部パアだ。
そんなの絶対に嫌!
だから私は……。私は絶対にあきらめない!
ほんの少しだけ頬に力を入れて口角を上げた。
どんな時でも笑顔を忘れない――だよね? 綾香!
恐怖と不安が自然とやわらぎ、おじいさんを見つめる目に力が入る。
するとおじいさんの目に柔らかな光がおびてきたではないか。
そうして完全に角が取れたところで、彼はあきらめたように乾いた笑みを浮かべ、肩をストンと落とした。
「……おっしゃる通り。私がこの子を選んだんだ」
うそ……。ほんとに?
思惑通りだったのに、かえって驚いてしまった私をしり目に、おじいさんは慈しむような、それでいてちょっとだけ恥じらうような細い声で続けた。
「まだ子猫なのに、ぶすっとした顔しおってな。みゃあと甘える声も出さない。可愛げのかけらもないヤツでね」
フクが何か言いたげに口を半開きにしたが、おじいさんは口を挟ませずに続けた。
「ああ、こいつは俺にそっくりだ。そう思ったとたんに、妙に愛くるしくなってしまってな。
こいつとならみず江と三人で幸せに暮らせる――そう思えたんだ」
「んで、どうだったんだよ?」
フクがぶっきらぼうにたずねると、おじいさんははっきりとした口調で答えたのだった。
「幸せだったよ。ありがとな――」
店内に春風のような優しい余韻が漂う。
「そうかい」
そうつぶやいたフク。
――フワッ。
しなやかな動きで体を宙に浮かせると、おじいさんの膝の上におさまった。
はじめは驚いたように目を丸くしていたおじいさんだったが、すぐに目を細めて口角を上げた。
「どうだ? 私の膝の上は」
「思ったより居心地がいいじゃねえか」
「気づくのが遅い」
「んでじいさんはどうなんだよ? 俺を膝の上に乗せて」
「気持ち悪かったら追い払っとる」
「ちっ……。素直じゃねえな」
「おまえに言われたくない」
二人の会話はそこで途切れた。
おじいさんは八尋さんに向けて軽く手を挙げると「悪いが、コーヒーのおかわりをお願いできるかな?」と言った。
八尋さんがちらりとソラに目配せをしたのは、言うまでもなく「少しだけ黄泉送りの時間を延ばしてくれるかい?」とお願いしたいのだろう。
だから私も同じようにソラへ視線を向けて、懸命にウィンクを飛ばした。
「二人してなんだよ!? 特に美乃里! 気味悪いからやめろ! ……ったく。今から15分後に次の予約客が来るんだろ? そこまでだからな」
そうぶっきらぼうに言ったソラは、黄泉送りをする格好のままカウンターの隅にどかりと腰をかけ、マンガ本を開いた。
あとは美憂さんね。でも私が気を使うまでもなかったみたい。
彼女は黙ったまま立ち上がり、カウンターの席に腰をかけ、ハーブティーを注文した。
こうしておじいさんとフクによる、ふたりっきりの時間が訪れた。
コーヒーを口にしながら、右手でゆっくりとフクの背中をなでるおじいさん。フクはその手にすべてをゆだねて、気持ちよさそうに舌をちょろっと出して寝ている。
最後まで二人の間に言葉はなかった。
でもきっと互いの温もりから、無数の「ありがとう」を交わしたんだと思うの。
だってソラに連れられていったフクのことを、おじいさんはとても清々しい笑顔で見送っていたのだから――。
雷を落としてきたソラ。私はなるべく冷静に答えた。
「そりゃあ、私だって、めでたしめでたし……だったら引きとめなんかしない。でも本当にそうかしら?」
「どういうことですか?」
眉を八の字にした美憂さんが問いかけてきた。
足を止めたフクと、コーヒーカップから手を離したおじいさんも、視線を私に向けている。
みんなが不思議がるのはよく分かってるつもり。
でもおじいさんとフクの間には、まだ大きな溝があるのは、さっきの会話からも明らかだもの。
ここ楓庵は飼い主とペットが笑顔でお別れする場所でしょ。
だったら今のままでフクくんとおじいさんをお別れさせるわけにはいかない。
私は一度大きく深呼吸をした後、ぐっと腹に力を込めて言った。
「確かに奥様の想いはお客様に通じたかもしれません。
でもお客様の想いはフクくんに通じたでしょうか?」
おじいさんが口を少しだけ開ける。その視線は徐々に突き刺すように鋭くなっていった。それでも私は彼から目をそらさずに続けた。
「お客様。フクくんに隠していることがあるなら、今お話しください。でないと、きっと後悔してしまいます」
「いったい私が何を隠しているというのか?」
おじいさんの口調が冷たい。眉間にしわを寄せ、顔はほのかに紅潮している。
でも感情をあらわにするのは、さっきと同じだった。
つまり触れられたくない想いに触れられた時だ。
だから私は確信した。
「フクくんを我が子に迎えようと決めたのは――奥様ではなく、お客様だったのですよね?」
と――。
「えっ……? おばあちゃんが決めたんじゃないの?」と美憂さんが言えば、
「美憂の通りだ。俺は確かにこの耳で聞いたんだからな。ばあちゃんが俺の名前を決めてくれたのを」とフクが続く。
でも誰がなにを言おうとも、私はおじいさんから注意をそらさなかった。
私の視線を嫌うようにおじいさんは天井を見上げた後、顎のあたりを右手でなでた。
そしてもう一度私に視線を戻してから、落ち着いた声で問いかけてきたのだった。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって奥様は『毛並みが真っ白な猫』が大好きだったのですよね。でも、フクくんの毛色はキジトラですから……」
「たまたま白い猫がいなかっただけ、とは思わんのか?」
「そうかもしれません。でも本当にそうなんですか?」
おじいさんが私をじっと見つめた。
鋭く光るその瞳は、まるで鋭利な刃のように私の顔に突き刺さる。
正直言って、すごく怖い。せっかく良くなりかけた雰囲気が壊れてしまうかもしれない、という不安もある。当然、無礼なことを言った私のことをおじいさんは嫌うだろう。
心が今にもポキっと音を立てて折れてしまいそうになる。
でもその時……。
――私、桜が見たい……。
綾香のかすれた声が脳裏に響いてきた。
そうだ……。
このまま引き下がったら、私はやっぱり何も変わっていないことになる。
勇気をもって、あらゆる後悔を捨てて笑顔でお別れするペットと飼い主の姿を何度も見てきたのに。
ここで、一歩前に出ないければ、全部パアだ。
そんなの絶対に嫌!
だから私は……。私は絶対にあきらめない!
ほんの少しだけ頬に力を入れて口角を上げた。
どんな時でも笑顔を忘れない――だよね? 綾香!
恐怖と不安が自然とやわらぎ、おじいさんを見つめる目に力が入る。
するとおじいさんの目に柔らかな光がおびてきたではないか。
そうして完全に角が取れたところで、彼はあきらめたように乾いた笑みを浮かべ、肩をストンと落とした。
「……おっしゃる通り。私がこの子を選んだんだ」
うそ……。ほんとに?
思惑通りだったのに、かえって驚いてしまった私をしり目に、おじいさんは慈しむような、それでいてちょっとだけ恥じらうような細い声で続けた。
「まだ子猫なのに、ぶすっとした顔しおってな。みゃあと甘える声も出さない。可愛げのかけらもないヤツでね」
フクが何か言いたげに口を半開きにしたが、おじいさんは口を挟ませずに続けた。
「ああ、こいつは俺にそっくりだ。そう思ったとたんに、妙に愛くるしくなってしまってな。
こいつとならみず江と三人で幸せに暮らせる――そう思えたんだ」
「んで、どうだったんだよ?」
フクがぶっきらぼうにたずねると、おじいさんははっきりとした口調で答えたのだった。
「幸せだったよ。ありがとな――」
店内に春風のような優しい余韻が漂う。
「そうかい」
そうつぶやいたフク。
――フワッ。
しなやかな動きで体を宙に浮かせると、おじいさんの膝の上におさまった。
はじめは驚いたように目を丸くしていたおじいさんだったが、すぐに目を細めて口角を上げた。
「どうだ? 私の膝の上は」
「思ったより居心地がいいじゃねえか」
「気づくのが遅い」
「んでじいさんはどうなんだよ? 俺を膝の上に乗せて」
「気持ち悪かったら追い払っとる」
「ちっ……。素直じゃねえな」
「おまえに言われたくない」
二人の会話はそこで途切れた。
おじいさんは八尋さんに向けて軽く手を挙げると「悪いが、コーヒーのおかわりをお願いできるかな?」と言った。
八尋さんがちらりとソラに目配せをしたのは、言うまでもなく「少しだけ黄泉送りの時間を延ばしてくれるかい?」とお願いしたいのだろう。
だから私も同じようにソラへ視線を向けて、懸命にウィンクを飛ばした。
「二人してなんだよ!? 特に美乃里! 気味悪いからやめろ! ……ったく。今から15分後に次の予約客が来るんだろ? そこまでだからな」
そうぶっきらぼうに言ったソラは、黄泉送りをする格好のままカウンターの隅にどかりと腰をかけ、マンガ本を開いた。
あとは美憂さんね。でも私が気を使うまでもなかったみたい。
彼女は黙ったまま立ち上がり、カウンターの席に腰をかけ、ハーブティーを注文した。
こうしておじいさんとフクによる、ふたりっきりの時間が訪れた。
コーヒーを口にしながら、右手でゆっくりとフクの背中をなでるおじいさん。フクはその手にすべてをゆだねて、気持ちよさそうに舌をちょろっと出して寝ている。
最後まで二人の間に言葉はなかった。
でもきっと互いの温もりから、無数の「ありがとう」を交わしたんだと思うの。
だってソラに連れられていったフクのことを、おじいさんはとても清々しい笑顔で見送っていたのだから――。
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