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第一幕 女装のナイト

6.ソラの変化

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◇◇

 ネットで検索しても情報が出てこない、隠れ家的なカフェ『楓庵』。
 神社の森の奥にあるこのカフェはペット同伴がOKなドッグカフェだった。
 ……と、ここまでは、まだよかった。
 だが、なんと連れてきたペットが人間の言葉を話しはじめたのだ。
 楽しそうにおしゃべりに興じるチワワのレオとおばさまを目の当たりにしながら、私はどうにかしてこの光景を理解しようと必死に努めた。
 カウンターのそばに立って難しい顔をしている私。その横に並んできたソラが落ち着いた口調で言った。

「だからニンゲンの物差しで測るなって言ってんだろ。おまえの目と耳を信じればいいんだ」
「でも……」
 
 いまだに納得できない私に対し、ソラはとても穏やかな笑みを口元に浮かべながら諭したのだった。

「それによ。まやかしだっていいじゃねえか。今にも死にそうだった人が、あんなに幸せそうな顔になったんだぜ。それだけで楓庵の意味があるってもんだ」

 ソラがくいっと顎を上げて、おばさまとチワワの様子に目を向ける。
 私も視線を彼らに戻した。

「ママ! ハンバーグとっても美味しかったよ!」
「うふふ。それはよかったわ」

 まるで我が子を慈しむように、おばさまはとても優しい表情で笑っている。
 レオもまたおばさまに大きな瞳を向けて、嬉しそうに耳を後ろにしていた。
 確かにソラの言う通りかもしれない。
 だっていくら頭で考えても答えなんて出るわけがないだもの。
 今は彼らが幸せなひとときを送っているという事実だけでじゅうぶんだ。

「人は誰でも幸せになれる権利があるんだよ。たとえ辛くて悲しいことがあってもな」

 ぼそりとつぶやいたソラは、カウンターをくぐって店の奥へ消えていった。
 彼の言う「辛くて悲しいこと」という部分が気になった私は、急いで彼の背中を目で追う。でもあっという間にその姿は見えなくなってしまった。
 彼は何をしに行ったのだろうか。
 そもそもソラは楓庵の店員なのかしら?
 首を傾げたところで、八尋さんと目が合う。
 細い目をさらに細くした彼は「空いてるお皿を下げてもらってもいいかな?」と柔らかな口調で私に申しつけた。

「え、あ、はい!」

 弾けるように私は店内に目を戻す。
 既に窓から差し込む夕日はなく、外は真っ暗だ。
 壁掛けのランプは温もりのある橙色《だいだいいろ》で、こげ茶色の床や壁を照らしている。明るすぎず、かと言って暗すぎないその灯りは、ゆったり流れる時と見事に調和していた。
 私はゆっくりとおばさまの席へ近づいていく。
 レオが私に目を向けて口を結んだが、おばさまが「大丈夫よ」と頭をなでると、すぐに人懐っこい表情に戻り、ピンク色の舌を出した。

「空いているお皿を下げてもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願い」

 来店したての時には信じられないような張りのある声だ。
 私は「失礼します」と頭を下げながら、空になっているワンちゃん用のフードボウルを手に取った。
 その様子をじっと見ていたチワワが可愛らしい声をあげた。

「ママは食べないの?」

 言われてみればおばさまは、ティーポットで出された紅茶を一杯飲んだだけで、食事をとっていない。
 
「ママはいいのよ」
「どうして?」
「ママはレオちゃんが良ければ、それで満足だから」

 そう言って笑みを作ったおばさまの目に、強い悲しみがたたえられているのは気のせいじゃないはずだ。
 はっと息を飲んだとたんに、入り口と反対側の壁にかけられた時計が、ボーンと時を告げた。その針は8時を指している。それを待っていたかのように、八尋さんの低い声が耳をくすぐった。

「そろそろお時間です」

 いったい何の時間だろう、と不思議に思った時――。

「いやっ! この子のことは、今度こそ私が守るの!」

 血相を変えたおばさまが甲高い声で叫んだのだ。
 フードボウルを持ったままその場で立ち尽くしてしまった私をよそに、おばさまはレオを抱きかかえて背を向けた。
 その細い背中は小刻みに震えている。
 いったい何が起こったの?
 それから「今度こそ」ってどういう意味なの?
 私はカウンターの方に振り返り、八尋さんを見た。
 八尋さんは取り乱しているおばさまに、変わらぬ優しい視線を向けている。
 さも彼女の反応が当たり前であるかのようだけど、明らかに普通とは言い難い。
 これもソラに言わせれば「ニンゲンの物差しで測るな」ってことなのかしら?
 でもこのまま放っておくわけにはいかない。

「あの――」

 そう私が言いかけた瞬間に、ちりりんとドアが開けられた。
 こんな時にお客さん?
 顔だけドアの方へ向けると、目に飛び込んできたのはソラだった。
 だが一見すると彼とは見分けがつかないほど、その風貌は変化していたのだ。
 烏帽子《えぼし》と呼ばれる平安貴族を想像させる黒の帽子、薄紫の和服の上から白の袴――まるで神職のような格好だ。
 そして彼の手には細い縄と鉄の輪が握られている。
 彼は私のことなど見向きもせずに、おばさまのすぐそばに立つと、少年とは思えないくらいに、おごそかな口調で告げた。

「黄泉《よみ》送りの時だ」

 その一言で店の雰囲気が一気に重くなったのだった。
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