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第二部 起死回生
坂東決戦……血洗島の戦い⑤
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◇◇
上杉、北条の両軍が武蔵国で一大決戦を繰り広げている中、甲斐の武田信玄のもとに嫡男の武田義信が訪れていた。
彼は平時にも関わらず、甲冑姿で父の前に現れると、ぐいっと身を乗り出して唾を飛ばした。
「父上!! どうして氏康公をお助けし、謙信めにひと泡吹かせないのか! このままでは父上は『盟約破り』と噂されてしまいますぞ!!」
信玄は苦い顔をして、隣に座る勘助に目配せした。
なお武田家は、北条家、今川家と同盟を結んでいる。
互いに姫を送り合って婚姻関係を結ぶことで得た同盟だ。
信玄は娘を氏康の嫡男、氏政のもとへ嫁がせ、今川義元の娘を義信の嫁として迎えている。
「義信殿。その盟約は互いの国境をおかさないというもの。他国から攻められたからといって援軍を送らねばならぬという約束ではございませぬぞ」
勘助が義信をなだめるように説いたが、義信の義憤はおさまりそうもなかった。
「今までも上杉に当家が攻められた際に、いくたびか氏康公から援軍を送られた恩をお忘れか!」
「それとこれとは話が別じゃ。しかも殿はただ指をくわえて両者の争いを見ているわけではございませぬ。西の織田、斎藤、松平が不穏な動きをせぬか目を光らせているのじゃ。いわば北条の西は殿がお守りしていると言ってもよい」
「ならば……。ならばせめてわれと源四郎だけでも出陣をお命じくだされ!」
なおも食い下がる義信。先の上野原の戦いで父親代わりだった飯富虎昌を亡くした恨みを抱いているのは、誰の目からも明らかだ。
今度は勘助が信玄の顔を見た。
信玄は大きくため息をつくと、渋い顔をして息子に話しかけた。
「義信。それはお主の『私情』によるものであろう。違うか?」
「父上! 逆におうかがいいたしましょう! 多くの仲間を殺した仇敵に何の感情も抱かないのか!」
「あほうめ。私情で家臣とその家族を路頭に迷わせるつもりか?」
「既に夫や父を討たれ、路頭に迷う城下の女子どもの涙に報いることこそ、われらの務めでございましょう! 父上が動けぬのなら、われが立ちます! それの何が悪いというのです!!」
「話にならん!! 東光寺におもむき、頭を冷やしておれ!!」
ついに温厚な信玄であっても声を荒げた。
義信は悔しそうにぎりっと歯ぎしりする。
だが、「これ以上は何も聞かん」とばかりに腕を組み、口をへの字に曲げた信玄の姿を見て、ゆっくりとその場を立ちあがった。
そして部屋を去り際に、恨めしい顔つきでつぶやいたのだった。
「義元公が討たれ、氏康公も窮地に追い込まれれば、誰が一番得をするか……。いかに人をあざむこうとも、天はあざむけませぬ。ゆめゆめお忘れなきよう……」
信玄の眉間にぴくりとしわが寄る。
義信は小さく頭を下げると、静かに部屋を去ったのだった。
勘助は信玄と二人きりになったところで、低い声で言った。
「殿。いかがしましょうかのう?」
信玄は再びぴくりと眉を動かした。
「問いかけの意味が分からん。もう少し噛み砕いて話せ」
だが勘助はその命令に従わず、ただ険しい表情で、信玄をじっと見つめ続けた。
信玄は小さなため息をつくと、のっそりと重い腰を上げた。
「山に籠るとしようかね。誰も近付けるでないぞ」
そう言いつけた信玄の横顔には、確かに色濃い影が潜んでいるのを、勘助が見過ごすはずもなかったのだった。
………
……
上杉謙信は北条軍に囲まれ、さらに北条幻庵の援軍が駆けつけたことで窮地に立たされた。
だが、直後には不思議な光景を目の当たりにしたのである。
「なに? 引いていくだと……!?」
なんと北条氏康の軍勢が小山川を北岸へ渡り始めたのである。
ただその理由はすぐに明らかとなった。
「南より『扇に月丸』の旗あり!!」
との一報が戦場に駆け巡ったのである。
その旗印は『佐竹氏』を意味する。
言うまでもなく上杉の援軍だ。
さらに『二つ引両』の旗……すなわち里見軍も追って接近中との報せも飛び込んできた。
つまり佐竹、里見の援軍、およそ一万が土煙を上げながらやってきたのだった。
「逃がすな!! 追え! 追え!」
謙信の号令が響きわたる。戦場は川の中に移り、川面は両軍の亡骸で埋め尽くされていった。
そんな中、単騎で勇躍したのはまだ少年の騎馬武者だった。
「われこそは佐竹義昭が子、佐竹義重なり!! かかってこい!!」
少年らしい甲高い声で叫んだかと思うと、手にした巨大な槍をぶんと振り回す。
三人もの北条兵を一撃で仕留めた次の瞬間には、もう敵軍の中に飛び込んでいる。
後に『鬼義重』と畏れられた無双の士の片鱗がすでに見られた。
そんな中、幻庵は落ち着いた声で氏康に言った。
「殿。西に活路が生まれました」
「そうか。ならば西に陣を張る。幻庵殿、頼んだぞ」
「お任せあれ!」
既に西の上杉軍は壊滅しており、その先は盟友、武田信玄の領地。
西を背にして陣形を整えれば、少なくとも四方を囲まれる心配はなくなる。
幻庵はすぐさま血洗島に布陣している諸将に「西へ集まれ」と指示を飛ばした。氏康は乱戦の中を的確に指揮し、なおも食い下がる上杉軍を振り払って、三軍とも小山川を渡り切った。
そして血洗島の西に『魚鱗(ぎょりん)』という堅牢な陣形を敷いたのだった。
一方の謙信もまた冷静さを失っていなかった。
――御屋形様も小山川を渡り切ったなら、一度陣形を立て直して夜を待つのです。
定龍の書状を思い浮かべた彼は「深追いはやめよ!」と周囲に一喝し、川から少し北に出たところで陣形を整えることにした。
そこに東からの援軍である太田、成田の両軍を加え、『鋒矢(ほうし)』と呼ばれる攻撃の陣形を敷いた。
こうして『血洗島の戦い』の初戦は、宇佐美定龍の鬼謀と上杉謙信の無双の働きによって、上杉軍の圧勝に終わった。
しかし、相模の獅子、北条氏康の目はまだ死んでいなかった。
夜が更け、坂東の平原が暗闇に染まるにつれ、彼の瞳には反逆の炎がこうこうと灯りだした。
それはかつて『河越夜戦』で大勝利をおさめた、あの頃と同じ輝きを放っていたのを、隣にいる幻庵だけは分かっていたのだった――
上杉、北条の両軍が武蔵国で一大決戦を繰り広げている中、甲斐の武田信玄のもとに嫡男の武田義信が訪れていた。
彼は平時にも関わらず、甲冑姿で父の前に現れると、ぐいっと身を乗り出して唾を飛ばした。
「父上!! どうして氏康公をお助けし、謙信めにひと泡吹かせないのか! このままでは父上は『盟約破り』と噂されてしまいますぞ!!」
信玄は苦い顔をして、隣に座る勘助に目配せした。
なお武田家は、北条家、今川家と同盟を結んでいる。
互いに姫を送り合って婚姻関係を結ぶことで得た同盟だ。
信玄は娘を氏康の嫡男、氏政のもとへ嫁がせ、今川義元の娘を義信の嫁として迎えている。
「義信殿。その盟約は互いの国境をおかさないというもの。他国から攻められたからといって援軍を送らねばならぬという約束ではございませぬぞ」
勘助が義信をなだめるように説いたが、義信の義憤はおさまりそうもなかった。
「今までも上杉に当家が攻められた際に、いくたびか氏康公から援軍を送られた恩をお忘れか!」
「それとこれとは話が別じゃ。しかも殿はただ指をくわえて両者の争いを見ているわけではございませぬ。西の織田、斎藤、松平が不穏な動きをせぬか目を光らせているのじゃ。いわば北条の西は殿がお守りしていると言ってもよい」
「ならば……。ならばせめてわれと源四郎だけでも出陣をお命じくだされ!」
なおも食い下がる義信。先の上野原の戦いで父親代わりだった飯富虎昌を亡くした恨みを抱いているのは、誰の目からも明らかだ。
今度は勘助が信玄の顔を見た。
信玄は大きくため息をつくと、渋い顔をして息子に話しかけた。
「義信。それはお主の『私情』によるものであろう。違うか?」
「父上! 逆におうかがいいたしましょう! 多くの仲間を殺した仇敵に何の感情も抱かないのか!」
「あほうめ。私情で家臣とその家族を路頭に迷わせるつもりか?」
「既に夫や父を討たれ、路頭に迷う城下の女子どもの涙に報いることこそ、われらの務めでございましょう! 父上が動けぬのなら、われが立ちます! それの何が悪いというのです!!」
「話にならん!! 東光寺におもむき、頭を冷やしておれ!!」
ついに温厚な信玄であっても声を荒げた。
義信は悔しそうにぎりっと歯ぎしりする。
だが、「これ以上は何も聞かん」とばかりに腕を組み、口をへの字に曲げた信玄の姿を見て、ゆっくりとその場を立ちあがった。
そして部屋を去り際に、恨めしい顔つきでつぶやいたのだった。
「義元公が討たれ、氏康公も窮地に追い込まれれば、誰が一番得をするか……。いかに人をあざむこうとも、天はあざむけませぬ。ゆめゆめお忘れなきよう……」
信玄の眉間にぴくりとしわが寄る。
義信は小さく頭を下げると、静かに部屋を去ったのだった。
勘助は信玄と二人きりになったところで、低い声で言った。
「殿。いかがしましょうかのう?」
信玄は再びぴくりと眉を動かした。
「問いかけの意味が分からん。もう少し噛み砕いて話せ」
だが勘助はその命令に従わず、ただ険しい表情で、信玄をじっと見つめ続けた。
信玄は小さなため息をつくと、のっそりと重い腰を上げた。
「山に籠るとしようかね。誰も近付けるでないぞ」
そう言いつけた信玄の横顔には、確かに色濃い影が潜んでいるのを、勘助が見過ごすはずもなかったのだった。
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上杉謙信は北条軍に囲まれ、さらに北条幻庵の援軍が駆けつけたことで窮地に立たされた。
だが、直後には不思議な光景を目の当たりにしたのである。
「なに? 引いていくだと……!?」
なんと北条氏康の軍勢が小山川を北岸へ渡り始めたのである。
ただその理由はすぐに明らかとなった。
「南より『扇に月丸』の旗あり!!」
との一報が戦場に駆け巡ったのである。
その旗印は『佐竹氏』を意味する。
言うまでもなく上杉の援軍だ。
さらに『二つ引両』の旗……すなわち里見軍も追って接近中との報せも飛び込んできた。
つまり佐竹、里見の援軍、およそ一万が土煙を上げながらやってきたのだった。
「逃がすな!! 追え! 追え!」
謙信の号令が響きわたる。戦場は川の中に移り、川面は両軍の亡骸で埋め尽くされていった。
そんな中、単騎で勇躍したのはまだ少年の騎馬武者だった。
「われこそは佐竹義昭が子、佐竹義重なり!! かかってこい!!」
少年らしい甲高い声で叫んだかと思うと、手にした巨大な槍をぶんと振り回す。
三人もの北条兵を一撃で仕留めた次の瞬間には、もう敵軍の中に飛び込んでいる。
後に『鬼義重』と畏れられた無双の士の片鱗がすでに見られた。
そんな中、幻庵は落ち着いた声で氏康に言った。
「殿。西に活路が生まれました」
「そうか。ならば西に陣を張る。幻庵殿、頼んだぞ」
「お任せあれ!」
既に西の上杉軍は壊滅しており、その先は盟友、武田信玄の領地。
西を背にして陣形を整えれば、少なくとも四方を囲まれる心配はなくなる。
幻庵はすぐさま血洗島に布陣している諸将に「西へ集まれ」と指示を飛ばした。氏康は乱戦の中を的確に指揮し、なおも食い下がる上杉軍を振り払って、三軍とも小山川を渡り切った。
そして血洗島の西に『魚鱗(ぎょりん)』という堅牢な陣形を敷いたのだった。
一方の謙信もまた冷静さを失っていなかった。
――御屋形様も小山川を渡り切ったなら、一度陣形を立て直して夜を待つのです。
定龍の書状を思い浮かべた彼は「深追いはやめよ!」と周囲に一喝し、川から少し北に出たところで陣形を整えることにした。
そこに東からの援軍である太田、成田の両軍を加え、『鋒矢(ほうし)』と呼ばれる攻撃の陣形を敷いた。
こうして『血洗島の戦い』の初戦は、宇佐美定龍の鬼謀と上杉謙信の無双の働きによって、上杉軍の圧勝に終わった。
しかし、相模の獅子、北条氏康の目はまだ死んでいなかった。
夜が更け、坂東の平原が暗闇に染まるにつれ、彼の瞳には反逆の炎がこうこうと灯りだした。
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