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第一部・第三章 窮途末路
孤城落日……消えゆく威光③
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………
……
長尾政景の屋敷の一室に通された辰丸。
「固くなるな」と宇佐美定勝には何度も聞かされてはいたが、こうして間近に対面の時が迫ると、胸が張り裂けそうなほどに緊張していた。
そんな中のことだった。
襖が勢い良く開けられたかと思うと、部屋に入ってきた男に快活な口調で話しかけられたのである。
「やあやあ! よう来たのう! あはは! 」
辰丸は思いがけない言葉に、顔を上げてその男の事をじっと見つめた。
体が大きく、筋骨隆々な猛将が多い長尾家の重臣たちの中にあって、目の前の中年の男は、まさに中肉中背。
むしろ線が細いのは、辰丸と共通しているところだ。
背もあまり高くないが、それでいて低すぎるということもない。
そして顔立ちについても、どこにでもいそうな、くせのないものだ。
野生の猫のように鋭い一重の瞳が、あえて言うなら特徴と言えよう。
この人こそが、上田長尾家当主であり、長尾景虎の右腕とも言える存在である長尾政景。
初対面の辰丸は、もっと重々しい人物であることを想像していただけに、出だしから軽い調子の政景に対し、どこか拍子抜けしてしまったのである。
「うん? いかがした? わしの顔に何かついているかのう? 」
穴が開くほど政景の顔を見つめていた辰丸に対して、政景は眉をひそめて問いかけてきた。
辰丸はハッとして、すぐに姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「いえ、大変失礼いたしました。初めてのご対面にも関わらず、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。
私は辰丸と申します。以後どうぞお見知りおきを、お願い申し上げます」
政景は辰丸の言葉を聞きながら、どかりと彼のすぐ目の前に腰を下ろすと、彼の言葉が終わるや否や、すぐに両手で彼の肩をがっちり掴んだ。
「固い挨拶などよいよい! それよりも、お主には礼を言わねばならんからのう! 」
「私に……? 政景様がお礼……? 」
「ああ、礼じゃ! ほれ、下野の一件のことじゃよ」
政景の口から「下野の一件」という言葉が出てきた瞬間、それまでどこか緩んでいた辰丸の心と体が、びしっと引き締まった。
なぜならここで言う「下野の一件」とは、言わずもがな政景の嫡男である長尾時宗を長尾家から追放した事を指すからである。
辰丸の強張った顔に、刹那的に目を鋭く細めた政景であったが、すぐに再び目を大きくして、軽い調子で続けたのだった。
「あはは! かの一件に、わしの息子が関わっていたことを気にしているなら、もう止めてくれ!
むしろわしの方が穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい思いをしておるのだからのう! 」
「し、しかし……政景様のお許しもなく、大切なご嫡男に対して無礼に振舞ったことをどう詫びればよろしいものかと……」
「あはは! お主はどこまでも律儀な男よのう!
うむ! 気に入ったぞ! これからも長尾家の為、何かわしに誤りがあればすぐにでも糺してくれよ!
わしもお主のように律儀な忠義者の言葉であれば、どんなに厳しいものでも、素直に聞くことが出来よう! 」
ついには肩を抱きながら、顔を寄せてくる政景。
辰丸はどこか気持ち悪いものを感じながらも、政景のされるがままにしていた。
そしてしばらくした後、政景は笑顔のまま辰丸と少し距離を取ると、少しだけ表情を引き締めて言った。
「新参者だからといって何の遠慮をする必要などないぞ。
お家の為に何か意見があるなら、いつでもこの長尾政景に相談いたせ。
必ずやわしの方からお屋形様へ進言してしんぜよう」
辰丸は先ほどとは異なる調子の政景に対して、ぴんと背筋を伸ばすと姿勢を正した。
「ありがたきお言葉にございます。こちらの方こそ、よろしくお願い申し上げます」
辰丸のかしこまった様子を見て、満足したように口元を緩めた政景。
そして彼は上機嫌のまま声を大きくして辰丸に一つ提案をしてきたのであった。
「これから少し経った後、皆で一緒に御館(おかた)の評定の間へとうかがうことにしておるのだ。
どうだ? お主も加わると良い! 」
それは明白な『誘い』であった。
思わず辰丸は政景の目を見る。
すると上機嫌を映したその瞳の奥には……
不気味な大蛇の姿――
隙があれば一飲みせんとする狡猾さと獰猛さを感じさせるその瞳の奥の何かに、辰丸の全身の毛が逆立った。
そして彼はは考える間もなく、頭を下げながら目を逸らしたのである。
「申し訳ございませぬ。折角のお誘いなれど、これより私は他の家老の方々にもご挨拶せねばなりませんので、こたびはお断り申し上げます」
辰丸の言葉の後に、一瞬の静寂が部屋を包む……
ひんやりとした部屋の空気にも関わらず、辰丸の着物の下は汗が一気に噴き出してきた。
頭を下げたままであり、政景の表情をうかがい知ることは出来ないが、それでも彼が怪しい笑みを口元に浮かべながら、じっと辰丸を見下ろしていることは、その刺すような視線から明らかだったのである。
こうしてどれほど経っただろうか……
それは傍目から見れば、わずか一呼吸の間の瞬間とも言える間だったかもしれぬ。
しかし、辰丸にしてみれば永遠にも感じる、長い間であった……
そして政景は、辰丸の頭の上からゆっくりと声をかけたのだった。
「それは残念じゃのう……
じゃが、挨拶回りをするという殊勝な心がけは、律儀者のお主らしくて良い! 」
間髪入れず、辰丸は声を上げる。
「そうおっしゃっていただくと、心が軽くなります。
では、私はこれにて失礼させていただきます」
「うむ、ではまた後ほど、評定の場にて会おうぞ」
「はい! ありがとうございます! 」
殊(こと)の外(ほか)にすんなりとこの場から去る事を許してくれた事が、逆に気味が悪い。
――政景様は一体何をお考えなのだろうか……
辰丸は不気味さを胸に抱えたまま、そそくさと部屋を後にしたのだった。
………
……
「よいのですか? あっさりと行かせてしまって」
一人部屋に残された政景に、低い声がかけられると、彼はその声の方へと視線を向けた。
政景の視界に映ったのは、複数の長尾家の重臣たち……
彼らは一礼しながら続々と政景の部屋へと入ってくると、政景の顔を見つめながら次の言葉を待った。
政景は相変わらず口元に笑みを浮かべている。
そして響くような大きな声で言った。
「あはは! 神算鬼謀の輩(やから)と聞いておったゆえに、どんな化け物がやってくるかと、びくびくしておったが杞憂であったわ!
実際に会ってみれば、わしの事を恐れるほどの小心者。歯牙にも掛けぬ相手に執心するほどに、わしは落ちぶれてはおらん」
「しかし、あやつはただでさえお屋形様の寵愛を受ける身。
もしかような者が、新左衛門(しんざえもん)の方へに付いた時には、厄介なことになりかねませんぞ」
政景は、「新左衛門(しんざえもん)」という名前を耳にした瞬間に、苦虫をつぶしたように口をへの字に曲げた。
この「新左衛門」とは本庄実乃(ほんじょうさねより)の事を指す。
長尾景虎の軍略における師匠とも言える彼は、景虎から絶大な信頼を寄せられており、言わば『景虎派』の筆頭である。
一方の政景の方は、彼を支持する『上田派』を形成していた。
もちろん表向きは、「長尾景虎の右腕」として、忠実に政務と軍務をこなしていた彼であったが、その裏では着実に、自分の『味方』を増やしていたのだ。
長尾家中の二つの大きな派閥である、『景虎派』と『上田派』……
目に見える対立こそないものの、この派閥が後に激しくぶつかり合うことは、誰もが心の隅で懸念していたのであった。
そんな事情もあり、新しく重臣となった辰丸についても、政景は自分の手の内に入れようと考えて、息子の仇敵にも関わらず、好意的に接した訳だ。
しかし勘の良い辰丸は、さながら虫網をすり抜ける蝶のように、するりと政景の前から姿を消した。
『上田派』の人々にしてみれば、この事が面白くなかったのだが、政景はあくまで余裕の表情を崩さなかった。
「ふん、蠅が一匹どこぞへ行こうとも、所詮、蠅は蠅。わしの歩みの障害にはなり得ぬ。
だが……」
そこで言葉を止めた政景は、一点を睨みつける。
その表情は、まさに冷酷無残(れいこくむざん)――
人々は自分に向けられている訳ではないことを知りながらも、ぞっと肝を冷やした。
そして、政景は凍えるような低い声で続けたのだった。
「だが、あまりに鬱陶しい場合は……叩きつぶすだけじゃ」
と――
……
長尾政景の屋敷の一室に通された辰丸。
「固くなるな」と宇佐美定勝には何度も聞かされてはいたが、こうして間近に対面の時が迫ると、胸が張り裂けそうなほどに緊張していた。
そんな中のことだった。
襖が勢い良く開けられたかと思うと、部屋に入ってきた男に快活な口調で話しかけられたのである。
「やあやあ! よう来たのう! あはは! 」
辰丸は思いがけない言葉に、顔を上げてその男の事をじっと見つめた。
体が大きく、筋骨隆々な猛将が多い長尾家の重臣たちの中にあって、目の前の中年の男は、まさに中肉中背。
むしろ線が細いのは、辰丸と共通しているところだ。
背もあまり高くないが、それでいて低すぎるということもない。
そして顔立ちについても、どこにでもいそうな、くせのないものだ。
野生の猫のように鋭い一重の瞳が、あえて言うなら特徴と言えよう。
この人こそが、上田長尾家当主であり、長尾景虎の右腕とも言える存在である長尾政景。
初対面の辰丸は、もっと重々しい人物であることを想像していただけに、出だしから軽い調子の政景に対し、どこか拍子抜けしてしまったのである。
「うん? いかがした? わしの顔に何かついているかのう? 」
穴が開くほど政景の顔を見つめていた辰丸に対して、政景は眉をひそめて問いかけてきた。
辰丸はハッとして、すぐに姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「いえ、大変失礼いたしました。初めてのご対面にも関わらず、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。
私は辰丸と申します。以後どうぞお見知りおきを、お願い申し上げます」
政景は辰丸の言葉を聞きながら、どかりと彼のすぐ目の前に腰を下ろすと、彼の言葉が終わるや否や、すぐに両手で彼の肩をがっちり掴んだ。
「固い挨拶などよいよい! それよりも、お主には礼を言わねばならんからのう! 」
「私に……? 政景様がお礼……? 」
「ああ、礼じゃ! ほれ、下野の一件のことじゃよ」
政景の口から「下野の一件」という言葉が出てきた瞬間、それまでどこか緩んでいた辰丸の心と体が、びしっと引き締まった。
なぜならここで言う「下野の一件」とは、言わずもがな政景の嫡男である長尾時宗を長尾家から追放した事を指すからである。
辰丸の強張った顔に、刹那的に目を鋭く細めた政景であったが、すぐに再び目を大きくして、軽い調子で続けたのだった。
「あはは! かの一件に、わしの息子が関わっていたことを気にしているなら、もう止めてくれ!
むしろわしの方が穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい思いをしておるのだからのう! 」
「し、しかし……政景様のお許しもなく、大切なご嫡男に対して無礼に振舞ったことをどう詫びればよろしいものかと……」
「あはは! お主はどこまでも律儀な男よのう!
うむ! 気に入ったぞ! これからも長尾家の為、何かわしに誤りがあればすぐにでも糺してくれよ!
わしもお主のように律儀な忠義者の言葉であれば、どんなに厳しいものでも、素直に聞くことが出来よう! 」
ついには肩を抱きながら、顔を寄せてくる政景。
辰丸はどこか気持ち悪いものを感じながらも、政景のされるがままにしていた。
そしてしばらくした後、政景は笑顔のまま辰丸と少し距離を取ると、少しだけ表情を引き締めて言った。
「新参者だからといって何の遠慮をする必要などないぞ。
お家の為に何か意見があるなら、いつでもこの長尾政景に相談いたせ。
必ずやわしの方からお屋形様へ進言してしんぜよう」
辰丸は先ほどとは異なる調子の政景に対して、ぴんと背筋を伸ばすと姿勢を正した。
「ありがたきお言葉にございます。こちらの方こそ、よろしくお願い申し上げます」
辰丸のかしこまった様子を見て、満足したように口元を緩めた政景。
そして彼は上機嫌のまま声を大きくして辰丸に一つ提案をしてきたのであった。
「これから少し経った後、皆で一緒に御館(おかた)の評定の間へとうかがうことにしておるのだ。
どうだ? お主も加わると良い! 」
それは明白な『誘い』であった。
思わず辰丸は政景の目を見る。
すると上機嫌を映したその瞳の奥には……
不気味な大蛇の姿――
隙があれば一飲みせんとする狡猾さと獰猛さを感じさせるその瞳の奥の何かに、辰丸の全身の毛が逆立った。
そして彼はは考える間もなく、頭を下げながら目を逸らしたのである。
「申し訳ございませぬ。折角のお誘いなれど、これより私は他の家老の方々にもご挨拶せねばなりませんので、こたびはお断り申し上げます」
辰丸の言葉の後に、一瞬の静寂が部屋を包む……
ひんやりとした部屋の空気にも関わらず、辰丸の着物の下は汗が一気に噴き出してきた。
頭を下げたままであり、政景の表情をうかがい知ることは出来ないが、それでも彼が怪しい笑みを口元に浮かべながら、じっと辰丸を見下ろしていることは、その刺すような視線から明らかだったのである。
こうしてどれほど経っただろうか……
それは傍目から見れば、わずか一呼吸の間の瞬間とも言える間だったかもしれぬ。
しかし、辰丸にしてみれば永遠にも感じる、長い間であった……
そして政景は、辰丸の頭の上からゆっくりと声をかけたのだった。
「それは残念じゃのう……
じゃが、挨拶回りをするという殊勝な心がけは、律儀者のお主らしくて良い! 」
間髪入れず、辰丸は声を上げる。
「そうおっしゃっていただくと、心が軽くなります。
では、私はこれにて失礼させていただきます」
「うむ、ではまた後ほど、評定の場にて会おうぞ」
「はい! ありがとうございます! 」
殊(こと)の外(ほか)にすんなりとこの場から去る事を許してくれた事が、逆に気味が悪い。
――政景様は一体何をお考えなのだろうか……
辰丸は不気味さを胸に抱えたまま、そそくさと部屋を後にしたのだった。
………
……
「よいのですか? あっさりと行かせてしまって」
一人部屋に残された政景に、低い声がかけられると、彼はその声の方へと視線を向けた。
政景の視界に映ったのは、複数の長尾家の重臣たち……
彼らは一礼しながら続々と政景の部屋へと入ってくると、政景の顔を見つめながら次の言葉を待った。
政景は相変わらず口元に笑みを浮かべている。
そして響くような大きな声で言った。
「あはは! 神算鬼謀の輩(やから)と聞いておったゆえに、どんな化け物がやってくるかと、びくびくしておったが杞憂であったわ!
実際に会ってみれば、わしの事を恐れるほどの小心者。歯牙にも掛けぬ相手に執心するほどに、わしは落ちぶれてはおらん」
「しかし、あやつはただでさえお屋形様の寵愛を受ける身。
もしかような者が、新左衛門(しんざえもん)の方へに付いた時には、厄介なことになりかねませんぞ」
政景は、「新左衛門(しんざえもん)」という名前を耳にした瞬間に、苦虫をつぶしたように口をへの字に曲げた。
この「新左衛門」とは本庄実乃(ほんじょうさねより)の事を指す。
長尾景虎の軍略における師匠とも言える彼は、景虎から絶大な信頼を寄せられており、言わば『景虎派』の筆頭である。
一方の政景の方は、彼を支持する『上田派』を形成していた。
もちろん表向きは、「長尾景虎の右腕」として、忠実に政務と軍務をこなしていた彼であったが、その裏では着実に、自分の『味方』を増やしていたのだ。
長尾家中の二つの大きな派閥である、『景虎派』と『上田派』……
目に見える対立こそないものの、この派閥が後に激しくぶつかり合うことは、誰もが心の隅で懸念していたのであった。
そんな事情もあり、新しく重臣となった辰丸についても、政景は自分の手の内に入れようと考えて、息子の仇敵にも関わらず、好意的に接した訳だ。
しかし勘の良い辰丸は、さながら虫網をすり抜ける蝶のように、するりと政景の前から姿を消した。
『上田派』の人々にしてみれば、この事が面白くなかったのだが、政景はあくまで余裕の表情を崩さなかった。
「ふん、蠅が一匹どこぞへ行こうとも、所詮、蠅は蠅。わしの歩みの障害にはなり得ぬ。
だが……」
そこで言葉を止めた政景は、一点を睨みつける。
その表情は、まさに冷酷無残(れいこくむざん)――
人々は自分に向けられている訳ではないことを知りながらも、ぞっと肝を冷やした。
そして、政景は凍えるような低い声で続けたのだった。
「だが、あまりに鬱陶しい場合は……叩きつぶすだけじゃ」
と――
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