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第一部・第二章 抜本塞源
引縄批根! 消えた使番①
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◇◇
永禄元年(1558年)6月21日 申刻(約午後四時)――
危機を脱した佐野昌綱と辰丸らは、多功ヶ原を抜けてところで、しばらく体と心を休めていた。
特に昌綱をはじめとする佐野家家中の者たちにとっては、今回の戦で当主を失ったのだ……
その心の傷は、疲労困憊の体のことよりも深刻であることは明白であった。
昌綱を中心として、神妙な面持ちで、ぐったりと座りこんでいる佐野軍の兵たち。
そんな彼らにかける言葉も見当たらず、宇佐美定勝は、同じく地面に座り込んでいた辰丸の方へと近づいていった。
「よう、辰丸。みんな心配しているぞ。そろそろ戻らねばなるまい」
定勝はそれとなく「佐野軍の兵たちにも、そうお主の口から促してくれ」と辰丸に含ませる。
すると辰丸は、定勝に微笑みかけて、立ち上がると、穏やかな口調で答えた。
「ええ、そうしましょう」
辰丸はそう言うと、ゆっくりと昌綱の方へと歩いていったのだった。
どこか茫然とした表情で、泥だらけの顔を拭うこともなく、うつむいたままの昌綱。
辰丸は彼の肩にそっと手をおいた。
ふっと昌綱が顔を上げると、辰丸と目が合う。
その瞬間のことだった……
――バッ!!
突然立ち上がった昌綱は、なんと辰丸を強く抱擁したのだ。
辰丸は突然のことに目を丸くしたが、それも束の間、すぐに目を細めて昌綱の背中をそっとなでる。
するとそれを合図に昌綱が大きな声で泣き始めた。
――ウワァァァァア!!
これまで抑えつけていたありったけの感情が噴火したかのように、涙と声となって吐き出されていく。
たった一刻の間に、佐野家は、ほぼ全てを失った。
兵を失い、
そして当主をも失った。
それでも彼らは歩み続けねばならない。
お家の存続と、城に残された家族の為に、歩みを止める訳にはいかないのだ。
そのことが昌綱や生き残った兵たちにしてみれば、恐怖でしかなかった。
生き残ってしまったことに、強い後悔の念を抱かざるを得なかったのだ。
しかし……
辰丸の小さな手は、昌綱にこう語りかけていた。
――胸を張って生きてください。
と。
それが昌綱にとっては、たまらず怖く、そして嬉しかった。
涙が止まらない。
それは昌綱だけではなく、佐野軍の兵たちも同じであった。
遥か彼方まで続く関東平野の地平線。
佐野軍の悲涙と嗚咽は、地平線を越えて、遠い空まで届くかのようであった――
………
……
哀しみにくれる佐野昌綱がようやく落ち着いたのは、既に陽が大きく傾いた頃であった。
辺りの空気に冷たいものが混じると、不思議と心と頭が落ち着いてくる。
泣きやんだ昌綱は、ゆっくりと辰丸から離れると、深く頭を下げた。
「みっともない所をお見せして、かたじけない」
「いえ、よいのです。それよりもそろそろ壬生城へ」
「ああ……こたびの事の礼は必ずや返す」
きゅっと唇を結び、真剣なまなざしで見つめてくる昌綱に対して、辰丸は穏やかな表情で首を横に振った。
「いえ、豊綱様をお助けすることが出来なかったこと……なんとお詫びを申し上げたらよいか……」
辰丸の言葉に昌綱は目を丸くした。
「しかしこたびの事は、お主に何ら責はないのであろう。
なぜ、お主が我らに詫びねばならぬのだ? 」
昌綱の問いかけに辰丸は口元をきつく結ぶと、目に力を込めて告げたのだった。
事の真相を……
「こたびの事……当家の者が佐野家を陥れようと企んだのでございます」
「な……なんだと……!? 」
そして辰丸は、宇佐美定勝、小島弥太郎、そして佐野昌綱に対して、彼が耳にしたことを全て話したのであった。
すなわち、長尾家の誰かが多功軍と内通していたことを……
「ば……馬鹿な…… 一体何の為に……? 」
開いた口が塞がらぬ定勝に対して、辰丸はぐっと低い声で答えた。
「恐らく、私に罪を全てなすりつける為でしょう」
「どういう事だ? 」
「私は百姓の身から景虎様の一存で取り立てられた身。
もしその私が敵と内通して、佐野家に甚大なる被害を与えたとするならば、その責を負うのは……」
「景虎様……ということか」
そう呟いた瞬間、定勝は大きく目を見開いて「まさか……! 」と、大きな声を上げる。
すると辰丸は小さくうなずいて続けた。
「景虎様を当主から引きずり落とす為の卑劣な策……」
「長尾時宗様…… もしや、黒川清実も一枚かんでいやがるのか!? 」
「ええ、確実に…… 恐らく彼らはお家騒動を引き起こして、自らの地位を固めようと……」
「その為に、俺の仲間や兄上は……」
みるみるうちに佐野昌綱の顔も真っ赤に染まっていく。
辰丸は彼の言葉を継ぐように続けた。
「殺されたのです。悪逆が弄した策によって」
――ドゴォォォォン!!
昌綱は、思わず手にした槍で地面を激しく突いた。
怒りのあまりに肩は小刻みに震え、鼻息が荒い。
一方の辰丸は、怒りを内に秘めたまま、淡々と冷たい口調で続けたのだった。
「己の利益の為だけに、他人を陥れ、多くの罪なき者の命を奪った、その大罪。
決して許されるものではございませぬ。
それに、この世にはびこる悪鬼は、後に民を不幸へと導くというものです。
ならば……」
定勝は、辰丸の顔を見て背中に冷たいものを覚えた。
この背筋を凍らせる感覚……
初めて彼が辰丸と出会った時に感じたものと同じ……
そして定勝は、辰丸が抱く奈落の如き深い怒りがもたらした結果も、同時に思い起こしていた。
武田軍の兵たちを恐怖のどん底へと突き落とし、同士討ちによって地獄へと誘(いざな)ったあの結果を……
「完膚無きまで叩きのめす。二度と立ち上がれなくなるまで」
凛とした声が辺りにこだますと、全員が唾を飲んで辰丸の顔を見つめた。
そして彼らに視線は、既に畏怖へと変わり、辰丸の次の言葉を待っていた。
辰丸は全員を見回すと、静かに告げたのだった。
これから彼が起こそうとしている策を……
「引縄批根(いんじょうへいこん)の策……すなわち、皆で縄を悪にかけるのです」
「皆で縄をかけた後は……」
定勝が先を促すように、口元に笑みを浮かべながら言うと、辰丸はますます冷たいものを瞳に浮かべた。
そして、さながら突き飛ばすように、冷酷な口調で言ったのだった。
「悪を根から引き抜き、燃やしてしまいましょう」
と――
永禄元年(1558年)6月21日 申刻(約午後四時)――
危機を脱した佐野昌綱と辰丸らは、多功ヶ原を抜けてところで、しばらく体と心を休めていた。
特に昌綱をはじめとする佐野家家中の者たちにとっては、今回の戦で当主を失ったのだ……
その心の傷は、疲労困憊の体のことよりも深刻であることは明白であった。
昌綱を中心として、神妙な面持ちで、ぐったりと座りこんでいる佐野軍の兵たち。
そんな彼らにかける言葉も見当たらず、宇佐美定勝は、同じく地面に座り込んでいた辰丸の方へと近づいていった。
「よう、辰丸。みんな心配しているぞ。そろそろ戻らねばなるまい」
定勝はそれとなく「佐野軍の兵たちにも、そうお主の口から促してくれ」と辰丸に含ませる。
すると辰丸は、定勝に微笑みかけて、立ち上がると、穏やかな口調で答えた。
「ええ、そうしましょう」
辰丸はそう言うと、ゆっくりと昌綱の方へと歩いていったのだった。
どこか茫然とした表情で、泥だらけの顔を拭うこともなく、うつむいたままの昌綱。
辰丸は彼の肩にそっと手をおいた。
ふっと昌綱が顔を上げると、辰丸と目が合う。
その瞬間のことだった……
――バッ!!
突然立ち上がった昌綱は、なんと辰丸を強く抱擁したのだ。
辰丸は突然のことに目を丸くしたが、それも束の間、すぐに目を細めて昌綱の背中をそっとなでる。
するとそれを合図に昌綱が大きな声で泣き始めた。
――ウワァァァァア!!
これまで抑えつけていたありったけの感情が噴火したかのように、涙と声となって吐き出されていく。
たった一刻の間に、佐野家は、ほぼ全てを失った。
兵を失い、
そして当主をも失った。
それでも彼らは歩み続けねばならない。
お家の存続と、城に残された家族の為に、歩みを止める訳にはいかないのだ。
そのことが昌綱や生き残った兵たちにしてみれば、恐怖でしかなかった。
生き残ってしまったことに、強い後悔の念を抱かざるを得なかったのだ。
しかし……
辰丸の小さな手は、昌綱にこう語りかけていた。
――胸を張って生きてください。
と。
それが昌綱にとっては、たまらず怖く、そして嬉しかった。
涙が止まらない。
それは昌綱だけではなく、佐野軍の兵たちも同じであった。
遥か彼方まで続く関東平野の地平線。
佐野軍の悲涙と嗚咽は、地平線を越えて、遠い空まで届くかのようであった――
………
……
哀しみにくれる佐野昌綱がようやく落ち着いたのは、既に陽が大きく傾いた頃であった。
辺りの空気に冷たいものが混じると、不思議と心と頭が落ち着いてくる。
泣きやんだ昌綱は、ゆっくりと辰丸から離れると、深く頭を下げた。
「みっともない所をお見せして、かたじけない」
「いえ、よいのです。それよりもそろそろ壬生城へ」
「ああ……こたびの事の礼は必ずや返す」
きゅっと唇を結び、真剣なまなざしで見つめてくる昌綱に対して、辰丸は穏やかな表情で首を横に振った。
「いえ、豊綱様をお助けすることが出来なかったこと……なんとお詫びを申し上げたらよいか……」
辰丸の言葉に昌綱は目を丸くした。
「しかしこたびの事は、お主に何ら責はないのであろう。
なぜ、お主が我らに詫びねばならぬのだ? 」
昌綱の問いかけに辰丸は口元をきつく結ぶと、目に力を込めて告げたのだった。
事の真相を……
「こたびの事……当家の者が佐野家を陥れようと企んだのでございます」
「な……なんだと……!? 」
そして辰丸は、宇佐美定勝、小島弥太郎、そして佐野昌綱に対して、彼が耳にしたことを全て話したのであった。
すなわち、長尾家の誰かが多功軍と内通していたことを……
「ば……馬鹿な…… 一体何の為に……? 」
開いた口が塞がらぬ定勝に対して、辰丸はぐっと低い声で答えた。
「恐らく、私に罪を全てなすりつける為でしょう」
「どういう事だ? 」
「私は百姓の身から景虎様の一存で取り立てられた身。
もしその私が敵と内通して、佐野家に甚大なる被害を与えたとするならば、その責を負うのは……」
「景虎様……ということか」
そう呟いた瞬間、定勝は大きく目を見開いて「まさか……! 」と、大きな声を上げる。
すると辰丸は小さくうなずいて続けた。
「景虎様を当主から引きずり落とす為の卑劣な策……」
「長尾時宗様…… もしや、黒川清実も一枚かんでいやがるのか!? 」
「ええ、確実に…… 恐らく彼らはお家騒動を引き起こして、自らの地位を固めようと……」
「その為に、俺の仲間や兄上は……」
みるみるうちに佐野昌綱の顔も真っ赤に染まっていく。
辰丸は彼の言葉を継ぐように続けた。
「殺されたのです。悪逆が弄した策によって」
――ドゴォォォォン!!
昌綱は、思わず手にした槍で地面を激しく突いた。
怒りのあまりに肩は小刻みに震え、鼻息が荒い。
一方の辰丸は、怒りを内に秘めたまま、淡々と冷たい口調で続けたのだった。
「己の利益の為だけに、他人を陥れ、多くの罪なき者の命を奪った、その大罪。
決して許されるものではございませぬ。
それに、この世にはびこる悪鬼は、後に民を不幸へと導くというものです。
ならば……」
定勝は、辰丸の顔を見て背中に冷たいものを覚えた。
この背筋を凍らせる感覚……
初めて彼が辰丸と出会った時に感じたものと同じ……
そして定勝は、辰丸が抱く奈落の如き深い怒りがもたらした結果も、同時に思い起こしていた。
武田軍の兵たちを恐怖のどん底へと突き落とし、同士討ちによって地獄へと誘(いざな)ったあの結果を……
「完膚無きまで叩きのめす。二度と立ち上がれなくなるまで」
凛とした声が辺りにこだますと、全員が唾を飲んで辰丸の顔を見つめた。
そして彼らに視線は、既に畏怖へと変わり、辰丸の次の言葉を待っていた。
辰丸は全員を見回すと、静かに告げたのだった。
これから彼が起こそうとしている策を……
「引縄批根(いんじょうへいこん)の策……すなわち、皆で縄を悪にかけるのです」
「皆で縄をかけた後は……」
定勝が先を促すように、口元に笑みを浮かべながら言うと、辰丸はますます冷たいものを瞳に浮かべた。
そして、さながら突き飛ばすように、冷酷な口調で言ったのだった。
「悪を根から引き抜き、燃やしてしまいましょう」
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