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第一部・第二章 抜本塞源

絶体絶命! 多功ヶ原の戦い⑦

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永禄元年(1558年)6月21日 未刻(約午後二時)――
 
 
 多功ヶ原で勃発した乱戦はいよいよ佳境を迎えようとしていた。
 
 
 大将を中心として必死の方円陣を敷き、守りを固めるは佐野軍二千。
 そして彼らを容赦なく前後左右から襲いかかるは多功軍四千。

 なんら策を弄することがかなわぬ多功ヶ原において、およそ倍の兵力差は致命的と言わざるを得ない。


 すなわち絶対絶命の佐野軍……


 そして彼らの命運は一人の少年に託された。


 未だ長尾軍の使番に過ぎぬ辰丸の頭脳に――
 


 辰丸はかつてないほどの緊張によって、身がまるで焼けるように熱くなっていた。

 彼らを奇跡の生還に導くのも、約束された地獄へと誘うのも、全て自分の言葉一つで決まるのだ……

 彼は「冷静に…… 冷静に……」と頭の中で唱えながら、発するべき次の言葉を選んでいた。
 しかし何か考えようにも、もう残された時間もなければ、打てる手立ても指で数えるほどだ。
 そこで辰丸は意を決して、佐野豊綱と昌綱の兄弟に向けて一つの策を献じたのだった。


「ここを乗り切るには一点突破しかございませぬ! 」


「すなわちいかがするのだ!? 」


 昌綱の問いかけに、辰丸はグッと腹に力を込めて言った。


「軍を三つに分け、うち二隊は左右の斜め前方に突撃し、突破口を開きます!
その後、中央の本隊が突破口をこじ開ける!
中央隊が前進した後は、左右の隊は敵の追撃を防ぎつつ、再び突破口を開く……
この繰り返しでございます! 」


 その策に昌綱は表情を固くした。
 そして震える声で言ったのであった。


「それは……すなわち両翼で突破口を開く兵たちに『盾』となって死ねと……
そういうことだな……? 」


 それは戦上手の昌綱でなくとも分かる自明の理であった。
 なぜなら両翼の部隊は、左右から襲いかかる軍勢を抑えつけながら突破口を開き、しかもその後も『決死の壁』となって中央の本隊を守らねばならないのだ。


ーー敵の突き出す槍をその身をもって受け止めよ……

 
 そう宣告するも同然なのだ。


 昌綱は瞳に力を込めて辰丸を睨みつける。

 しかし……


 次の瞬間……


 昌綱の目は大きく見開かれた……


 なんと……


 瞬き一つせずに昌綱をじっと見つめている辰丸の瞳から……


 大粒の涙が、ほろほろと溢れてきたからだーー


 そう……

 辰丸は誰よりも分かっているのだ。


 この作戦は人を生かす為に、人を死なせなくてはならないということを……


 未だ十四の少年は自分の心を深く傷つけてでも、佐野家の未来の為に、策を献じたのだ。


「策の責任は全て私がかぶります……
だから……だから……どうか……」


 絶え絶えになりながら、辰丸は言葉を紡ぐ。


 一方の昌綱は言葉を完全に失った。


 軽く押したら折れてしまいそうな程に細くて、色白の少年は、赤の他人であるにも関わらず、とてつもない『重いもの』を背負おうとしているのだ。



 言葉など出せるはずもない。



 そして辰丸は自らの覚悟を確かめるように、大声で叫んだのだった。



「生きてくだされ!! 」



 とーー



 なおも茫然自失の昌綱の肩に優しく手が置かれる。


「兄上……」


 気づけば昌綱の両目からも涙が滂沱として流れていた。

 そして豊綱は静かにうなずいた。


ーー号令は俺が出す。全ては俺に任せろ。


 というどこまでも強い兄の瞳で……



………
……

 その後のことは昌綱はあまり記憶にない。


 軍の中央にあった兄の豊綱が血を吐かんばかりに叫んでいた。


ーー唐沢山の空の下で再びお会いしましょう。


 そう微笑みを浮かべた兵たちは、昌綱に一礼すると敵陣の中へと消えていった……


 こうして多くの尊き命によって開けられる一本の細い道。


 その道を『下野の飛将』佐野昌綱は、両手に握りしめた無双の槍でこじ開けていった。


 一人……


 また一人……


 昌綱の周りから人が消えていく。

 
 昨日まで共に笑い、共に泣いた仲間たちが……


ーー今は泣くな! 前だけを! 前だけを行け!


 兄、豊綱の言葉にならぬ激励が昌綱の背中を押す。


 そしてあの不思議な少年は……


 目の前で人が死んでいく凄惨な光景の中、佐野家に射し込む一筋の光となって、佐野軍の進むべき方向を示し続けた。


 決して逃げず!


 決して目を逸らさず!


 的確に敵の包囲網の弱いところへと佐野軍を導く辰丸。


 その姿は……


 佐野軍を背に乗せて突き進む『龍神』ーー


ーーもうすぐだ! もうすぐ多功ヶ原を抜けるぞ!


 兄、豊綱の声は希望だけを灯し続けていた。



 しかし……

 残酷な運命は、彼らをそう簡単に逃がす事はなかった――
 


ーーワァァァァッ!


 という喚声が背後からこだましたかと思うと、見知らぬ軍勢が突如として現れたのである。


「ば……馬鹿な……壬生だと……」


 なんと先日、本城を明け渡したばかりの壬生氏の旗を背にした兵たちが、瀕死の佐野軍に襲いかかってきたではないか。

 それは城を明け渡した当主のやり方に、納得のいかない一部の元重臣たちが率いている、暴徒の集団であった。


 さすがの昌綱も、これには面食らった。


 思わず足が止まりそうなほどの衝撃。


 だが……


「前を向いてください!! 」


 少年の声が、昌綱の心臓をドクンっと揺らす。


 彼は弾かれるように、前へと槍を振り続けた。


 そして、少年……辰丸は決意したのだ……



「金蝉脱殻(きんせんだっこく)の計の準備を……」



 辰丸は呟くように豊綱と昌綱に告げると、おもむろに手を伸ばした。



 佐野豊綱の兜に……



 金蝉脱殻(きんせんだっこく)の計ーー



 それは囮となった者たちがその場でとどまることで、全軍が止まっていると見せかけて、主軍を逃す苦し紛れの計……



 つまり辰丸は決意したのだ。



 佐野豊綱の身代わりとなって、その場にとどまることをーー





……が、しかし……
 



 佐野豊綱は穏やかな笑みを浮かべると……



 優しく辰丸の手を振りほどいたのだったーー






 


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