上 下
5 / 114
第一部・第一章 臥龍飛翔

一変した景色

しおりを挟む
弘治3年(1557年)6月19日――


 長尾景虎が飯山城に入った翌日。
 その日は朝から評定の間に重臣たちが集まっていた。
 無論、今後の戦の進め方を協議するためであり、景虎が言い出したものであった。

 しかし評定が始まる時間になっても景虎は姿を現さなかったのである。
 そして重臣たちを代表して景虎の様子をうかがいに行った千坂景親は、戻ってくるなりこう告げた。


「今日の評定は取りやめ。各々城にて待機せよ。とのことにございます」


 重臣たちの間でにわかに動揺が走ったのは言うまでもないだろう。


――お屋形様はどこかお怪我でもされたのではないか?

――いやいや、きっと深いお考えがあるに違いない!

――武田と北条の動きを見ておられるのだ!


 みなそれぞれに景虎の胸の内を察している。
 しかしその中で宇佐美定満と千坂景親の二人だけは、真実に気づいていた。
 
 それは単にヘソを曲げているだけであることを……。

 しかもその原因が農民の少年に仕官の誘いを断られたことだとは、口が裂けても披露出来るものではない。

 定満はなおもざわつく周囲に向けて声を大きくして言った。


「では方々! 今日はここまでということで、城の周囲の警戒でも当たりましょうぞ! 」

「そうですな! いつ敵が来ても迎え撃てるように準備を怠りなくいたしましょう! 」


 千坂景親も大きな声で定満に同調すると、みなもそれに倣って部屋を後にしていったのだった。

 定満もその輪の中に入って行動を共にする。
 そして彼は心の中で願わざるを得なかったのである。

――定勝、それに弥太郎……。くれぐれも頼んだぞ!


 と――

………
……
「けっ! なんでおいらがおっさんとこんな所に来なきゃいけねえんだよ!? 」


 そう口を尖らせたのは小島弥太郎であった。
 彼は今、宇佐美定満の指示のもと、とある場所に足を運んでいた。
 しかし同行相手のことが気に食わないらしい。

 その同行相手とは、宇佐美定勝。
 長尾家重臣の宇佐美定満の息子である。
 小太りのどこにでもいそうな、冴えない中年。
 いつも眠そうな目をしているのが特徴の温厚な人だ。
 彼の年齢は四十。十五の弥太郎にしてみれば十分な『おっさん』な訳である。

 しかし親子ほども歳が離れている弥太郎からケチをつけられても、定勝はにこにことした笑顔を崩さなかった。


「まあ、そうかっかするでない。何事も楽しみと思えば、人生豊かになるものだ」

「うるせいやいっ! なんでおいらがおっさんなんかに説教されなきゃなんねえんだ! それにおいらは槍働がしてえのに、なんだい!? 人を連れてこいだと!? しかもあの変なやつを……」


 そう言いかけて弥太郎はその人物のことを思い浮かべると思わず身震いした。
 そんな弥太郎を見て定勝は大きなお腹をさすりながら笑った。


「あはは! 鬼にも怖いものがあったか! 」

「う、うるせいやいっ! べ、別に怖くなんかねえよ! ただ……」

「ただ?」


 どこかばつが悪そうにそっぽを向く弥太郎。
 そして彼はボソリと呟くように言ったのだった。


「……不思議な奴なんだよ。何を考えてるのか、よく分からないって言うか……」


 定勝は弥太郎を見て、目を細める。
 そして彼の頭をぐわしっと荒々しくなでながら言ったのだった。


「よしっ! 俺も楽しみになってきたぞ! その辰丸とかいう男に会うのが! 」


 と。


………
……
 同日 夕刻――


 川中島の犀川ほとりに着いた弥太郎は、目の前に広がる光景を見て唖然としてしまった。

 昨日ここで見た景色が一変していたのである。

 昨日は確かにこの場所にあったのは、一面に広がる金色の麦畑。
 初夏に照らされた犀川の川面がキラキラと輝くその様と絶妙に融け合った景色は、美しいのただ一言に尽きるものであった。

 しかし今目の前に広がっているのは、まさに……。


 地獄の一言だった――


 犀川は人々の亡骸が無造作に転がり、
 金色だった麦畑は無惨に荒らされている。
 もちろんたわわに実った麦の穂などどこにも見当たらない。

 輝く色は全て消え去り、そこにあるのは赤と黒の血の色だけ……。
 これを地獄と言わずして何と表現できようか。


「ひでえ…… うえっ! 」


 思わず弥太郎はその場で吐き気を催してしまった。
 あまりのおぞましい光景に汗は止まらず、呼吸することでさえ苦しい。
 普段はにこにことした笑顔を崩さない定勝でさえもこの時ばかりは表情を険しいものに変えている。


「乱取りか……」


 乱取りとは兵たちが農村で働く略奪行為のことである。
 しかし大抵の場合、ここまで血濡れたものにはならない。
 なぜなら農民たちは抵抗することもなく兵たちに物資を差し出すからだ。
 もちろん人さらいも横行しており、その際は激しく抵抗する。
 それでも河原を埋め尽くすほどの亡骸などあり得るはずもないのだ。

 なぜなら彼らは貴重な働き手であるのだから。

 彼らがいなくてはいくら豊かな土地があっても実りを迎えることはない。
 すなわち農民たちの存在は土地を治める豪族や大名たちにしてみれば貴重なものだったのだ。

 しかしではなぜここにはこんなにも亡骸が死屍累々と積み上げられているのだろう。

 若い弥太郎だけではなく、壮年の域に入った定勝にもてんで見当がつかなかった。


 ……と、その時だった。


 一人の少年がこちらに向かって、ゆらりゆらりと体を揺すらせながら近づいてきているではないか。


 見れば全身を血に染めて、目だけがギョロリと浮き上がっているよう。
 鬼のような形相で弥太郎と定勝を睨みつけている。
 
 それはまさにこの世の者とは言い難い姿であった。

 そしてその少年は小さな声で口を開いたのである。


「……これが仕官を断った理由」


 か細くて折れてしまいそうな口調。
 弥太郎はその口調に聞き覚えがあった。

 それは彼らが飯山城に連れてこいと命令を受けた目的の人……。


 辰丸だった――
 
 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

天下人織田信忠

ピコサイクス
歴史・時代
1582年に起きた本能寺の変で織田信忠は妙覚寺にいた。史実では、本能寺での出来事を聞いた信忠は二条新御所に移動し明智勢を迎え撃ち自害した。しかし、この世界線では二条新御所ではなく安土に逃げ再起をはかることとなった。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

処理中です...