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第五話
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策が決まったのなら、行動はできるだけ早い方がいい。
一行は日が完全に沈んでしまう前に、件の神社へと向かった。
「ここです。いつも私は、この神社にお参りをしていました」
奥まった路地の先、真新しい煉瓦造りの瀟洒な建物に囲まれたそこには、時間が止まったかのように古びた神社が佇んでいるだけ。
「まだ帝都にこんな土地が残ってたんですねぇ」
小町がへぇと感嘆したように言う。
駅前を行き交う人々、立ち並ぶ賑やかな店、かつての帝都の面影を残しながらも段々と洋に染まっていく都の喧騒。
それら全てから切り離されたかのように、ここは静かで落ち着く場所だった。
だからこそ、ここにいる神が悪しき存在だとは思い難かった。
「桐花、これを」
シャツの袖を捲り首元も緩めた状態の沙一がなにやら、御札のようなものを桐花に差し出す。
「護りの術がかけられている。あの栞よりもずっと効力が高いものだ。それから、これとこれも」
一体どこにしまっていたのやら、御札に次いで別の札や御守りなど、次々と桐花に渡してくる。
桐花は手も足も出ずされるがままの状態だ。
「沙一さんは本当にお嬢さんのこととなると必死になりますね。私も何かしようかと思いましたけれど、余計な邪魔になりそうなのでやめておきます」
結界を維持しておきますね、と小町は言い残すとこの場を離れていく。
小町が少し離れた場所から結界を張り、内部から桐花が誘い出したところを沙一が討つ、という単純な構図の作戦になっている。
しかし、言葉に表せば単純なだけで実際に重要な役割を背負うとなると緊張してしまう。
「本当に、これで大丈夫なんですよね・・・・・・?」
「ああ。お前のことは、必ず俺が守る」
「いえ、そうではなくて。本当に私の声に神様が応えてくださるのかなって」
「・・・・・・おそらく禍津神は俺や伊月の声には応えない。桐花だからこそできることだ。万が一失敗したとしても、俺や伊月がほかの策を用意していないはずがないだろう?安心するといい」
そう言ってから、沙一は桐花の肩口に顔を寄せて囁いた。
「だが、お前はもう少し、自分のことも大切にするべきだと俺は思うぞ」
「こ、心がけておきます・・・・・・」
秘密を知ってからというもの、沙一の距離がやたらと近い。
沙一ともっと親しくなれたようで嬉しい気持ちと、勘違いをしてしまいそうになるからやめてほしいという気持ちが綯い交ぜになってどうにかなりそうだった。
「それでは、はじめましょう」
気持ちを切り替えるようにそう言うと、一歩前に出る。
桐花の声を合図に、空にはいくつもの点が浮かび、線で繋がる。
これは、小町が貼ってくれた結界なのだろう。
淡く光るそれらに囲まれた空間は、まるで幻でも見ているかのような不思議な心地だった。
「かしこみかしこみ申す」
教えられたとおりに、まじないの言葉を唱える。
後ろで沙一が札を構えるのが分かる。
ピンと張り詰めた空気の中、桐花は言葉を紡いだ。
「こい こい ねがう」
言葉の意味は分からない。
けれど、確かにそこにいる『なにか』を感じられる。
「ことのはねがう」
キィ・・・・・・と音を立てて、固く閉ざされていたはずの社の小さな扉が開いた。
来た。
そうわかった途端、鼓動が早くなる。
それでもなんとか自身を落ち着かせて言葉を続ける。
「・・・・・・ッ、よいやみ、まどえ あめつちうたえ」
どうにか最後まで言い切ることができた。
と、安堵する間もなく周囲の空気が変わり始める。
黒い、夜のような濃い霧が辺りを囲むように広がり、視界が奪われていく。
「桐花!」
瞬間、沙一の持っていた札が青色の炎に包まれ変化する。
炎が消えた時、沙一の手にあるのは一振の刀だった。
沙一は迷うことなくそれを抜くと、桐花を庇うように前に出る。
「沙一さん、これは・・・・・・!?」
「落ち着け。俺が必ずお前を守ると言ったはずだ」
いつも通りの冷静な声だが、その顔は随分と険しい。
影の中からは突風が吹き荒び、着物の裾がばたばたとはためいてしまう。
野分のような風の中、桐花は必死に目を凝らして沙一の姿を見つめる。
『桐花ちゃん、こっちを向いて!』
予想通り、かつて友であった少女たちの甲高い声が聞こえてきた。
振り向けばきっと、そこには袴姿の少女たちが朗らかな笑顔で手を振っていることだろう。
でも決してそれに惑わされてはいけない。
『あらいやだ、卑しい人がいるわ』
『詐欺師の娘がなんの用かしら』
『やめてちょうだい。あなたなんて友人でもなんでもないわよ』
桐花がいつまで経っても反応しないと、今度は耳を塞ぎたくなるような言葉が次々と降ってきた。
これは全て、桐花の記憶を再生しているだけのこと。
今までならここで音を上げていただろうが、今はすぐ側に沙一がいる。
「俺の声だけ聞いていろ」
「・・・・・・っはい!」
刀を構えたままの沙一からそう言われ、落ち着きを取り戻す。
それでも尚、声は止まない。
きっと桐花が折れるまで、相手も諦めないつもりなのだろう。
『ふざけるなよ!お前の娘を売り飛ばしてやろうか』
これは父が金を借りた人が怒鳴り込んで来た時の記憶だ。
夜半に突然知らない人が来たと思ったら、怒りの矛先を自分に向けられて布団の中で息を殺して怯えていた事を覚えている。
『知らなかった、で済むと思うなよ!』
これも、父が事業で騙した相手だ。
父が不在の時に家まで来られたのだが、あいにくこちらは何も知らされていない。
頭を下げてなんとか帰ってもらおうとしたら、この言葉を投げつけられた。
『黙れ。子供が口を挟むな』
これは、初めて父に反抗した日のことだ。
加賀里家はこの先どうなってしまうのかを教えてくれと涙ながらにそういえば、ただ頬をぶたれて余計な怒りをかっただけだった。
あの日、父にぶたれた左頬の痛みが蘇る。
それでもぐっと涙をこらえて、沙一の背を見る。
「いつまでそうしているつもりだ。観念して出てこい」
沙一が鋭い声でそう言うと、くすくすと子供の笑い声のようなものまで聞こえてきた。
このままでは埒が明かない。
しかし次の瞬間、桐花の眼前には見慣れた姿の人物が現れた。
『おいで』
思わず桐花は息を飲んだ。
この声は、沙一だ。
あの顔は、沙一だ。
けれど、これは違う。
「何が見える」
沙一には禍津神の幻術は見えていない。
姿形は見えないとはいえ、気配や呪力を察することができるので問題は無いのだが、桐花の様子がおかしくなったことで不審に思ったようだ。
「・・・・・・ッさ、沙一さん、です」
少しだけ、声が震えてしまった。
眼前でうっそりと笑みを浮かべる黒髪の男は、どこからどうみても沙一だった。
『私はおまえの一番いとしい人だ。さあ、おいで。私といれば、悲しいことや辛いことなんて何も無いよ』
姿形こそ沙一であれ、おそらくこれが禍津神なのだろう。
その口調は思っていたよりも穏やかで、実に楽しそうだった。
「はっ!」
沙一が素早く太刀を振り、真っ直ぐ一文字に切り裂く。
同じ顔の人間が、同じ顔の人間を斬っている。
なんとも奇妙な光景だ。
「人の顔を勝手に使わないで貰えるだろうか」
いかにも不機嫌そうな顔で沙一はそう吐き捨てた。
確かに斬られたはずのそれは、一度姿を消してもまた再び沙一の姿で現れる。
沙一は間髪入れずに札を取り出すと、術を発動させる。
「結べ」
いくつもの光芒が現れ、禍津神を貫いていく。
貫かれてはまた新しい形をつくり、それを繰り返している。
一見して全く変わっていないように思えるが、沙一の術を何発もまともに食らっているのだから確実に力は消耗している。
けれど神は執念深く、桐花のことを諦めない。
『さあおいで。浮世を捨てて、わたしに全てを捧げておくれ』
そう言って、桐花に縋るように手を伸ばしてくる。
甘い声で迫り来る禍津神に、桐花は少し戸惑った。
けれど、後方で刀を構え鋭い眼光でこちらを睨んでいる沙一の姿が目に入り、すぐさま正気に戻る。
手の中にある栞を握りしめて、眼前で微笑む禍津神の手を跳ね除けた。
「・・・・・・沙一さんは、そんなこと言いません。沙一さんは、そんな人じゃありません」
きっぱりとそう言うと、桐花は勢いよく頭を下げた。
「おかえりください」
禍津神は怒るだろう。
だが、それでいい。
はっきりと桐花が拒絶の意を表せば、禍津神も分かるだろう。
「どうか、おかえりください」
禍津神の表情が、色を失っていく。
呆然としたようになってから、だんだんと目を見開いて桐花のことを見る。
憎しみのこもった目だ。
きっと今、この神様は怒りで我を忘れてしまうだろう。
否、もともと我などなかったのかもしれない。
「堕ちた神など、恐るるに足らず」
沙一がその声とともに、神を袈裟斬りにする。
もはや沙一のことすら頭になかったのだろう。
禍津神は驚いたような顔をして、あっさりと斬られていた。
その表情が妙に臭くて、沙一は口の端を吊り上げると刀を鞘に納めた。
「人に希われるはずの存在が、人に乞うようになるとはな」
禍津神の姿が、沙一の顔から本来のものへ戻っていく。
深海のような青い瞳に、泡藤色の綺麗な髪。
白い装束を纏った、花の化身のような美しい人がそこにはいた。
しかし、美しくともその表情からは深い落胆の意が読み取れる。
光の無い目でこちらをちらりと見遣った後、彼は静かに目を閉じた。
「終わりだ」
ぱりん、と硝子が砕けたような音が聞こえた。
「・・・・・・ッ!」
次の瞬間、霧は晴れて元の場所に戻っていた。
禍津神の姿はそこにはなく、ほんの少ししか時間が経っていないのか夕焼けの空は変わりない。
だが、不思議と身体は軽く、平生よりも体調がよく感じる。
「桐花、異常はないか。何かあればすぐに言え」
「いえ、私は大丈夫です」
ただ一つ変化があるとすれば、小さな社は前よりも朽ちて汚れていた。
一歩進もうとして、慌てて足を止めた。
───────足元に、一輪の花が落ちていた。
きっと安らかに眠れますように。
ささやかな祈りをこめて、桐花はその花をそっと朽ちた社へ置いた。
一行は日が完全に沈んでしまう前に、件の神社へと向かった。
「ここです。いつも私は、この神社にお参りをしていました」
奥まった路地の先、真新しい煉瓦造りの瀟洒な建物に囲まれたそこには、時間が止まったかのように古びた神社が佇んでいるだけ。
「まだ帝都にこんな土地が残ってたんですねぇ」
小町がへぇと感嘆したように言う。
駅前を行き交う人々、立ち並ぶ賑やかな店、かつての帝都の面影を残しながらも段々と洋に染まっていく都の喧騒。
それら全てから切り離されたかのように、ここは静かで落ち着く場所だった。
だからこそ、ここにいる神が悪しき存在だとは思い難かった。
「桐花、これを」
シャツの袖を捲り首元も緩めた状態の沙一がなにやら、御札のようなものを桐花に差し出す。
「護りの術がかけられている。あの栞よりもずっと効力が高いものだ。それから、これとこれも」
一体どこにしまっていたのやら、御札に次いで別の札や御守りなど、次々と桐花に渡してくる。
桐花は手も足も出ずされるがままの状態だ。
「沙一さんは本当にお嬢さんのこととなると必死になりますね。私も何かしようかと思いましたけれど、余計な邪魔になりそうなのでやめておきます」
結界を維持しておきますね、と小町は言い残すとこの場を離れていく。
小町が少し離れた場所から結界を張り、内部から桐花が誘い出したところを沙一が討つ、という単純な構図の作戦になっている。
しかし、言葉に表せば単純なだけで実際に重要な役割を背負うとなると緊張してしまう。
「本当に、これで大丈夫なんですよね・・・・・・?」
「ああ。お前のことは、必ず俺が守る」
「いえ、そうではなくて。本当に私の声に神様が応えてくださるのかなって」
「・・・・・・おそらく禍津神は俺や伊月の声には応えない。桐花だからこそできることだ。万が一失敗したとしても、俺や伊月がほかの策を用意していないはずがないだろう?安心するといい」
そう言ってから、沙一は桐花の肩口に顔を寄せて囁いた。
「だが、お前はもう少し、自分のことも大切にするべきだと俺は思うぞ」
「こ、心がけておきます・・・・・・」
秘密を知ってからというもの、沙一の距離がやたらと近い。
沙一ともっと親しくなれたようで嬉しい気持ちと、勘違いをしてしまいそうになるからやめてほしいという気持ちが綯い交ぜになってどうにかなりそうだった。
「それでは、はじめましょう」
気持ちを切り替えるようにそう言うと、一歩前に出る。
桐花の声を合図に、空にはいくつもの点が浮かび、線で繋がる。
これは、小町が貼ってくれた結界なのだろう。
淡く光るそれらに囲まれた空間は、まるで幻でも見ているかのような不思議な心地だった。
「かしこみかしこみ申す」
教えられたとおりに、まじないの言葉を唱える。
後ろで沙一が札を構えるのが分かる。
ピンと張り詰めた空気の中、桐花は言葉を紡いだ。
「こい こい ねがう」
言葉の意味は分からない。
けれど、確かにそこにいる『なにか』を感じられる。
「ことのはねがう」
キィ・・・・・・と音を立てて、固く閉ざされていたはずの社の小さな扉が開いた。
来た。
そうわかった途端、鼓動が早くなる。
それでもなんとか自身を落ち着かせて言葉を続ける。
「・・・・・・ッ、よいやみ、まどえ あめつちうたえ」
どうにか最後まで言い切ることができた。
と、安堵する間もなく周囲の空気が変わり始める。
黒い、夜のような濃い霧が辺りを囲むように広がり、視界が奪われていく。
「桐花!」
瞬間、沙一の持っていた札が青色の炎に包まれ変化する。
炎が消えた時、沙一の手にあるのは一振の刀だった。
沙一は迷うことなくそれを抜くと、桐花を庇うように前に出る。
「沙一さん、これは・・・・・・!?」
「落ち着け。俺が必ずお前を守ると言ったはずだ」
いつも通りの冷静な声だが、その顔は随分と険しい。
影の中からは突風が吹き荒び、着物の裾がばたばたとはためいてしまう。
野分のような風の中、桐花は必死に目を凝らして沙一の姿を見つめる。
『桐花ちゃん、こっちを向いて!』
予想通り、かつて友であった少女たちの甲高い声が聞こえてきた。
振り向けばきっと、そこには袴姿の少女たちが朗らかな笑顔で手を振っていることだろう。
でも決してそれに惑わされてはいけない。
『あらいやだ、卑しい人がいるわ』
『詐欺師の娘がなんの用かしら』
『やめてちょうだい。あなたなんて友人でもなんでもないわよ』
桐花がいつまで経っても反応しないと、今度は耳を塞ぎたくなるような言葉が次々と降ってきた。
これは全て、桐花の記憶を再生しているだけのこと。
今までならここで音を上げていただろうが、今はすぐ側に沙一がいる。
「俺の声だけ聞いていろ」
「・・・・・・っはい!」
刀を構えたままの沙一からそう言われ、落ち着きを取り戻す。
それでも尚、声は止まない。
きっと桐花が折れるまで、相手も諦めないつもりなのだろう。
『ふざけるなよ!お前の娘を売り飛ばしてやろうか』
これは父が金を借りた人が怒鳴り込んで来た時の記憶だ。
夜半に突然知らない人が来たと思ったら、怒りの矛先を自分に向けられて布団の中で息を殺して怯えていた事を覚えている。
『知らなかった、で済むと思うなよ!』
これも、父が事業で騙した相手だ。
父が不在の時に家まで来られたのだが、あいにくこちらは何も知らされていない。
頭を下げてなんとか帰ってもらおうとしたら、この言葉を投げつけられた。
『黙れ。子供が口を挟むな』
これは、初めて父に反抗した日のことだ。
加賀里家はこの先どうなってしまうのかを教えてくれと涙ながらにそういえば、ただ頬をぶたれて余計な怒りをかっただけだった。
あの日、父にぶたれた左頬の痛みが蘇る。
それでもぐっと涙をこらえて、沙一の背を見る。
「いつまでそうしているつもりだ。観念して出てこい」
沙一が鋭い声でそう言うと、くすくすと子供の笑い声のようなものまで聞こえてきた。
このままでは埒が明かない。
しかし次の瞬間、桐花の眼前には見慣れた姿の人物が現れた。
『おいで』
思わず桐花は息を飲んだ。
この声は、沙一だ。
あの顔は、沙一だ。
けれど、これは違う。
「何が見える」
沙一には禍津神の幻術は見えていない。
姿形は見えないとはいえ、気配や呪力を察することができるので問題は無いのだが、桐花の様子がおかしくなったことで不審に思ったようだ。
「・・・・・・ッさ、沙一さん、です」
少しだけ、声が震えてしまった。
眼前でうっそりと笑みを浮かべる黒髪の男は、どこからどうみても沙一だった。
『私はおまえの一番いとしい人だ。さあ、おいで。私といれば、悲しいことや辛いことなんて何も無いよ』
姿形こそ沙一であれ、おそらくこれが禍津神なのだろう。
その口調は思っていたよりも穏やかで、実に楽しそうだった。
「はっ!」
沙一が素早く太刀を振り、真っ直ぐ一文字に切り裂く。
同じ顔の人間が、同じ顔の人間を斬っている。
なんとも奇妙な光景だ。
「人の顔を勝手に使わないで貰えるだろうか」
いかにも不機嫌そうな顔で沙一はそう吐き捨てた。
確かに斬られたはずのそれは、一度姿を消してもまた再び沙一の姿で現れる。
沙一は間髪入れずに札を取り出すと、術を発動させる。
「結べ」
いくつもの光芒が現れ、禍津神を貫いていく。
貫かれてはまた新しい形をつくり、それを繰り返している。
一見して全く変わっていないように思えるが、沙一の術を何発もまともに食らっているのだから確実に力は消耗している。
けれど神は執念深く、桐花のことを諦めない。
『さあおいで。浮世を捨てて、わたしに全てを捧げておくれ』
そう言って、桐花に縋るように手を伸ばしてくる。
甘い声で迫り来る禍津神に、桐花は少し戸惑った。
けれど、後方で刀を構え鋭い眼光でこちらを睨んでいる沙一の姿が目に入り、すぐさま正気に戻る。
手の中にある栞を握りしめて、眼前で微笑む禍津神の手を跳ね除けた。
「・・・・・・沙一さんは、そんなこと言いません。沙一さんは、そんな人じゃありません」
きっぱりとそう言うと、桐花は勢いよく頭を下げた。
「おかえりください」
禍津神は怒るだろう。
だが、それでいい。
はっきりと桐花が拒絶の意を表せば、禍津神も分かるだろう。
「どうか、おかえりください」
禍津神の表情が、色を失っていく。
呆然としたようになってから、だんだんと目を見開いて桐花のことを見る。
憎しみのこもった目だ。
きっと今、この神様は怒りで我を忘れてしまうだろう。
否、もともと我などなかったのかもしれない。
「堕ちた神など、恐るるに足らず」
沙一がその声とともに、神を袈裟斬りにする。
もはや沙一のことすら頭になかったのだろう。
禍津神は驚いたような顔をして、あっさりと斬られていた。
その表情が妙に臭くて、沙一は口の端を吊り上げると刀を鞘に納めた。
「人に希われるはずの存在が、人に乞うようになるとはな」
禍津神の姿が、沙一の顔から本来のものへ戻っていく。
深海のような青い瞳に、泡藤色の綺麗な髪。
白い装束を纏った、花の化身のような美しい人がそこにはいた。
しかし、美しくともその表情からは深い落胆の意が読み取れる。
光の無い目でこちらをちらりと見遣った後、彼は静かに目を閉じた。
「終わりだ」
ぱりん、と硝子が砕けたような音が聞こえた。
「・・・・・・ッ!」
次の瞬間、霧は晴れて元の場所に戻っていた。
禍津神の姿はそこにはなく、ほんの少ししか時間が経っていないのか夕焼けの空は変わりない。
だが、不思議と身体は軽く、平生よりも体調がよく感じる。
「桐花、異常はないか。何かあればすぐに言え」
「いえ、私は大丈夫です」
ただ一つ変化があるとすれば、小さな社は前よりも朽ちて汚れていた。
一歩進もうとして、慌てて足を止めた。
───────足元に、一輪の花が落ちていた。
きっと安らかに眠れますように。
ささやかな祈りをこめて、桐花はその花をそっと朽ちた社へ置いた。
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