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相手が相手だからこそ
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『──グァロロロロロロロロォオオオオッ!!』
「……」
空気が振動するほどの唸り声を上げて、その全身凶器のような巨体で地底湖を掻き分けえ迫ってくる首鰐に、フェアトは警戒こそすれ驚いている様子はない。
もちろん最初に飛び出してきた時は突然の事態に目を剥いていたが、よくよく考えずとも首鰐程度の魔物が姉を超える【攻撃力】を持っている筈はなく──。
(……問題は、どこにどうやって跳ね返すか……)
それよりもまず、この短い時間で考えなければならないのは、つい先程に思い至った彼女が持つ唯一の反撃手段である【因果応報《シカエシ》】の反射方法と、その部位。
フェアトが会得した必殺技、【因果応報《シカエシ》】は一見すると彼女の絶対的な【守備力】も相まって、まるで非の打ち所がない性能の技だと思われるかもしれない。
事実、相手からの攻撃を反射した部位や、それ以外の部位の【守備力】が薄くなるという事もなければ。
一度【因果応報《シカエシ》】を使うと少しの冷却時間《クールタイム》が必要になる──などという面倒な制約もない為、彼女の二つ名たる『無敵の盾』の反撃手段に相応しいといえる。
だが、【因果応報《シカエシ》】で一度に跳ね返す事ができるのは『右手』や『首』、『お腹』といった部位一つのみであり、たとえ全身を覆い尽くすほどの火炎が彼女を襲ったとしても跳ね返せるのは、たった一ヶ所だけ。
おまけに、フェアト自身が『この部位に攻撃が当たる』と意識していなければ発動せず、その辺の子供にさえ劣る反射神経や動体視力しか持ち合わせていない彼女では、ただ跳ね返すだけでも一苦労なのである。
ミュレイトに首を絞められていた時は、やろうと思えば反射して絞め返す事はもちろん首を折ってやる事もできたのだが、どれだけの力が込められているのか分からなかった彼女は中途半端に跳ね返した挙句、生き残られて対策を打たれる事を警戒していたようだ。
ゆえに、フェアトは未だかつてないほど集中する。
いかに自分が死なないし傷つかないとは言っても洞窟の外で倒れたままの二人の事を考えると、この場で無駄に時間を浪費するのは愚行でしかないから──。
(首鰐の攻撃手段は噛みつきと尻尾による打撃、そして主人とした生物が持つ適性を纏わせた魔法──だけど)
首鰐との距離が刻一刻と縮まる中、改めて首鰐という魔物が持つ攻撃手段を脳内で反復しながら、その中の一つである不可視の鎖を通して得た主人の適性を纏わせての魔法こそが最も厄介だと考えていたのだが。
(あの人には適性がない、やってくるとしたら──)
先程、彼が自分で口にした『適性が無い』という事実を鵜呑みにするのであれば、あの首鰐は魔法を使えず自分の身体のみを武器に攻撃を繰り出してくる筈。
そんな風に思考していた瞬間──。
『グァララララァ!!』
「うっ──」
首鰐の身体の前半分が一瞬だけ地底湖に沈んだかと思うと、まるで鞭の如くしなる巨大な尻尾がフェアトを横薙ぎにし、その勢いのまま壁に叩きつけられる。
……全く反応できていなかった。
もちろん、この程度で彼女が死ぬ筈も傷つく筈もなく、ほんの少しの痛みを感じる事もなかったのだが。
「……やっば……」
叩きつけられるだけならまだしも、その一撃で破壊された壁に埋まってしまったのは彼女にとって誤算。
非力な自分では絶対に抜け出せないというのもあるが、それ以上に今の姿勢では首や胴体といった跳ね返せば一撃必殺になりうる部位を狙わせにくいというのが大きいからこそ、フェアトは多少の焦りを見せる。
そんな彼女の目の前──少し下の辺りでは、もう待ちきれないとばかりに首鰐が涎を垂らし続けており。
「……うふふ、お腹空いてるみたいねぇ……けど、ごめんなさい。 今日は、さっきのお肉とその女の子しか用意してないのよぉ。 それで我慢してちょうだぁい」
『グルルゥ……』
遠目に見ていたミュレイトは、さも親が子に向けるような視線とともに今日は他に餌を用意してないのだと告げて、それを受けた首鰐は僅かに落胆していた。
(今日は、か……これが初めてじゃないって事だよね)
その一方、一人と一匹の会話からフェアトは『この首鰐が人間を襲うのは今回が初ではない』という確認するまでもないおぞましい事実を改めて認識し──。
(この首鰐に罪は無い──って言いたいところだけど)
悪いのはミュレイトと、そのミュレイトを誑かした悪神のみと定めようとしてはいたものの、これまで幾人もの──いや、もしかしたら数十人単位で人間だの獣人だの霊人だのを喰らってきたのかもと考えると。
(赦す事はできない……姉さんでも、そう考える筈)
この首鰐だけを見逃す選択肢は存在しない──勇者譲りの正義感を持つ姉でも同じように考える筈だと確信した彼女は、ここで完全に覚悟を決める事にした。
唯一の反撃手段を以て、この二つの命を奪う事を。
(さっきのやりとりから見ても、この首輪とミュレイトさんが主従関係にあるのは間違いない──だったら)
ミュレイトの呼び出しに呼応して出現した時点で主従の関係にあるのは分かっていたのだが、それでもこの事実こそが彼女にとっては非常に重要であり──。
フェアトは、かつてフルールに教わった首鰐と主人の間にある主従関係の利点と欠点をおさらいしつつ。
「……」
『グルッ?』
壁に埋まったままの姿勢で、スッと両腕を上げた。
「あら、お手上げって事かしらァ? でも駄目なのよねぇ、ここを知られたからには生かしておかなぁい♡」
『グルルァ……?』
それを見た首鰐は何かをしてくるのではと警戒して動きを止めたが、すでにフェアトに脅威を感じていなかったミュレイトは彼女の動作をお手上げ──つまりは降参しているのだと踏んでおり、そちらに対し確認するように振り返った首鰐に『えぇ♡』と答えつつ。
「いいわよぉ? 真っ二つにしちゃいなさぁい♡」
『……グルォオオオオアアアアッ!!』
彼女を喰らう為の許可を出す旨の声をかけたその瞬間、首鰐は警戒を緩めず口を開いて突貫していった。
凶悪極まりない牙が生え揃った口の奥から、これまで喰われた者たちの怨嗟の声が聞こえてきそうだと。
そんな後ろ向きな考えを振り払った彼女は──。
(……これができるのは相手が相手だからこそ──)
これから自分がやろうとしている事は、こうして自分を襲わんとしているのが首鰐と奇妙な人生を送ってきた彼だからこそだと再認識するとともに集中して。
『グルァアアアアアアアア──』
「っ!」
とても巨体には似合わない動きで水面から飛び出しつつ身体を捻り、ミュレイトの指示通りにフェアトを真っ二つにするべく大きく凶悪な口を横に開いて、ようやく待ちに待った食事だとばかりに噛みつき──。
『──……グ、オォ……?』
「ぇ? 何が、起こっ──」
そして首鰐は、かくも見事に真っ二つとなった。
まるで凶悪な牙で噛み砕かれたかのようなギザギザとした傷痕を胴体に深く残し、まだ死にきれていないのか前脚や後脚、尻尾などをバタバタと動かしていたのだが、そのうち動きも鈍くなっていき──死んだ。
自分の身に何が起こったのかも分からないまま。
そんな中、両腕を上げていたのは胴体を狙わせやすくする為であり、『真っ二つにしろ』との指示は偶然だったが、それでも上手くいったのは事実である為。
「……っ、【因果応報《シカエシ》】成功……そして──」
首鰐が突貫してきた際の衝撃によって壁が砕けたお陰で抜け出せたフェアトは、『ばしゃっ』という水音とともに地底湖の浅瀬に着水しつつも、やけに得意げな表情を浮かべて首鰐の死骸から視線をスライドし。
「──貴方にも、です。 ミュレイトさん」
「……っ!? かひゅっ、ごぼっ……!!」
そこには、どういうわけか首鰐と同じように『まるで凶悪な牙で噛み砕かれたかのような』ギザギザとした傷痕が胴体に──正確には肺や心臓の辺りに深く残り、そこから上半身と下半身が真っ二つになっていたミュレイトが転がっており、フェアトが声をかけても肺が潰れているからかまともに声も出せず、どうにか声を出そうと息をすると今度は口内に血液が溜まる。
首鰐と主従の関係を契った『主人』は、その巨体に違わぬ圧倒的な量を誇る首鰐の魔力と、その凶悪極まる見た目のままの強さを誇る首鰐の膂力を手にする代わりに、『適性』の他にも更に共有するものがある。
それは──『感覚』。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感に始まり、そこに痛覚や圧覚、運動覚までもが加わる感覚の全てを首鰐と任意で共有する事ができ、それを利用して遠く離れた相手を首鰐に始末させる事も可能なのである。
しかし、そこにはリスクも少なからず存在する。
最も大きなリスクとしては、『どれか一つの感覚だけを共有する』というのは絶対に不可能だという事。
首鰐が見ているものを見たい時、主人には首鰐が聞いている音も嗅いでいる匂いも触れているものの感触も、その大きな口に入ったものの味でさえも共有し。
何より首鰐の身体が傷つけられたが最後、主人の身体にも人体でいう同じ位置に全く同じ傷がつく──。
とはいえ今回のケース、ミュレイトは首鰐やフェアトとの距離も近く感覚を共有する必要はなかった筈。
だが、それでも彼は『とある感覚』を首鰐と共有する為に、その他の全ての感覚ごと共有していたのだ。
その『とある感覚』とは、あろう事か──。
──『味覚』だった。
彼が偶然の事故から逃げ延びた時には、すでに南ルペラシオの国境を完全に越えてしまっており、もはや東ルペラシオにも帰る事ができないのだからと考えた結果、彼はひたすらに大陸を離れる為に歩き続けた。
その際、美食国家の闇──人肉食に図らずも触れる事になってしまい、ミュレイトは何をしてでも生き残ると十歳ながらに決意して、その肉を何度も食べた。
結果、彼の味覚は狂ってしまったのだ。
好物の一つに人肉が入ってしまうくらいに──。
これまで首鰐に何十人と喰わせた時も、その全てを首鰐と共有する事で何とか飢えと渇きを凌いでいた。
ここが美食国家でない以上、流石に人目があるところで公然と人肉を喰らうわけにはいかなかったから。
恐るべきは、それを読み切っていたフェアト。
彼が美食国家の闇についての話をしていた時から。
そして首鰐が出現したその時から、どうにかしてこの展開に持っていけないかと狙っていたのであった。
間違いなく、この男は数秒もせずに絶命する筈だ。
そう判断したフェアトが、そのまま彼から視線を外して並び立つ者たちの成れの果てだという妙な意匠の石像の方へと顔を向けた──まさに、その時だった。
──パキッ。
「えっ」
もはや聞き覚えがあるというのも億劫に思える小気味良い音が聞こえてきた事で、フェアトは振り向く。
「……あ、れ……?」
しかし、すでにミュレイトは事切れており、その手の辺りに使い潰された魔石があるわけでも魔方陣が展開されているわけでもなく、つい先程の音は彼が原因で耳に届いたのではないと確信したフェアトは──。
「っ、まさか──」
その音を、『石が割れた音』だと判断して振り返ったのなら、ここは洞窟なのだからミュレイト以外にも石は山ほどあり、ましてや『割れそうな』となれば。
──そう考えたフェアトが再び視線を戻すと。
「……石像、が……」
ピシッ、パキッという音とともに地底湖の中心に佇む石像にヒビが入っただけでなく、その中から憔悴しきった青白い顔をした二人の女性が姿を現し、そのまま水面へと身を寄せ合った姿勢で地底湖に着水した。
本来なら、『石像になったんじゃないの!?』みたいな疑問を込めた叫びを上げてもいいと思うが──。
(そうか、ミュレイトさんが命を落としたから……)
ミュレイトや悪神が【破顔一笑《ラフメイカー》】や【常住不断《ステイヒア》】を利用する為に石像にしたのならば、リャノンとサラは生かしたままにしておかなければならないわけで、それを考えると『おそらく生きる為に必要な最低限の機能や器官』を残し、それ以外を石にされたのだろう。
そう考えていたからこそ、フェアトは冷静だった。
そして、この考えは──見事、大正解だったのだ。
その後、溺れまいと騒ぐ気力すらない事が幸いしたのか、どちらがリャノンなのかサラなのかはともかく二人して地底湖の水面に浮かぶのを見たフェアトは。
(並び立つ者たち相手だし同情なんてするつもりもないけど……こんな二度目の人生は流石に嫌だなぁ……)
本人は否定していてるが、どう考えても同情という他ない感情を彼女たちに向けた結果、少しずつ、本当に少しずつ水を掻き分けながらそちらに歩み寄って。
「……これが正しいのかは分かんないけど……っ」
非力ながらも浮力を生かして助ける事にした。
どうせ、もう自分を阻む障害はないのだからと。
「──……」
絶命した筈の遺体が光を帯びている事も知らずに。
「……」
空気が振動するほどの唸り声を上げて、その全身凶器のような巨体で地底湖を掻き分けえ迫ってくる首鰐に、フェアトは警戒こそすれ驚いている様子はない。
もちろん最初に飛び出してきた時は突然の事態に目を剥いていたが、よくよく考えずとも首鰐程度の魔物が姉を超える【攻撃力】を持っている筈はなく──。
(……問題は、どこにどうやって跳ね返すか……)
それよりもまず、この短い時間で考えなければならないのは、つい先程に思い至った彼女が持つ唯一の反撃手段である【因果応報《シカエシ》】の反射方法と、その部位。
フェアトが会得した必殺技、【因果応報《シカエシ》】は一見すると彼女の絶対的な【守備力】も相まって、まるで非の打ち所がない性能の技だと思われるかもしれない。
事実、相手からの攻撃を反射した部位や、それ以外の部位の【守備力】が薄くなるという事もなければ。
一度【因果応報《シカエシ》】を使うと少しの冷却時間《クールタイム》が必要になる──などという面倒な制約もない為、彼女の二つ名たる『無敵の盾』の反撃手段に相応しいといえる。
だが、【因果応報《シカエシ》】で一度に跳ね返す事ができるのは『右手』や『首』、『お腹』といった部位一つのみであり、たとえ全身を覆い尽くすほどの火炎が彼女を襲ったとしても跳ね返せるのは、たった一ヶ所だけ。
おまけに、フェアト自身が『この部位に攻撃が当たる』と意識していなければ発動せず、その辺の子供にさえ劣る反射神経や動体視力しか持ち合わせていない彼女では、ただ跳ね返すだけでも一苦労なのである。
ミュレイトに首を絞められていた時は、やろうと思えば反射して絞め返す事はもちろん首を折ってやる事もできたのだが、どれだけの力が込められているのか分からなかった彼女は中途半端に跳ね返した挙句、生き残られて対策を打たれる事を警戒していたようだ。
ゆえに、フェアトは未だかつてないほど集中する。
いかに自分が死なないし傷つかないとは言っても洞窟の外で倒れたままの二人の事を考えると、この場で無駄に時間を浪費するのは愚行でしかないから──。
(首鰐の攻撃手段は噛みつきと尻尾による打撃、そして主人とした生物が持つ適性を纏わせた魔法──だけど)
首鰐との距離が刻一刻と縮まる中、改めて首鰐という魔物が持つ攻撃手段を脳内で反復しながら、その中の一つである不可視の鎖を通して得た主人の適性を纏わせての魔法こそが最も厄介だと考えていたのだが。
(あの人には適性がない、やってくるとしたら──)
先程、彼が自分で口にした『適性が無い』という事実を鵜呑みにするのであれば、あの首鰐は魔法を使えず自分の身体のみを武器に攻撃を繰り出してくる筈。
そんな風に思考していた瞬間──。
『グァララララァ!!』
「うっ──」
首鰐の身体の前半分が一瞬だけ地底湖に沈んだかと思うと、まるで鞭の如くしなる巨大な尻尾がフェアトを横薙ぎにし、その勢いのまま壁に叩きつけられる。
……全く反応できていなかった。
もちろん、この程度で彼女が死ぬ筈も傷つく筈もなく、ほんの少しの痛みを感じる事もなかったのだが。
「……やっば……」
叩きつけられるだけならまだしも、その一撃で破壊された壁に埋まってしまったのは彼女にとって誤算。
非力な自分では絶対に抜け出せないというのもあるが、それ以上に今の姿勢では首や胴体といった跳ね返せば一撃必殺になりうる部位を狙わせにくいというのが大きいからこそ、フェアトは多少の焦りを見せる。
そんな彼女の目の前──少し下の辺りでは、もう待ちきれないとばかりに首鰐が涎を垂らし続けており。
「……うふふ、お腹空いてるみたいねぇ……けど、ごめんなさい。 今日は、さっきのお肉とその女の子しか用意してないのよぉ。 それで我慢してちょうだぁい」
『グルルゥ……』
遠目に見ていたミュレイトは、さも親が子に向けるような視線とともに今日は他に餌を用意してないのだと告げて、それを受けた首鰐は僅かに落胆していた。
(今日は、か……これが初めてじゃないって事だよね)
その一方、一人と一匹の会話からフェアトは『この首鰐が人間を襲うのは今回が初ではない』という確認するまでもないおぞましい事実を改めて認識し──。
(この首鰐に罪は無い──って言いたいところだけど)
悪いのはミュレイトと、そのミュレイトを誑かした悪神のみと定めようとしてはいたものの、これまで幾人もの──いや、もしかしたら数十人単位で人間だの獣人だの霊人だのを喰らってきたのかもと考えると。
(赦す事はできない……姉さんでも、そう考える筈)
この首鰐だけを見逃す選択肢は存在しない──勇者譲りの正義感を持つ姉でも同じように考える筈だと確信した彼女は、ここで完全に覚悟を決める事にした。
唯一の反撃手段を以て、この二つの命を奪う事を。
(さっきのやりとりから見ても、この首輪とミュレイトさんが主従関係にあるのは間違いない──だったら)
ミュレイトの呼び出しに呼応して出現した時点で主従の関係にあるのは分かっていたのだが、それでもこの事実こそが彼女にとっては非常に重要であり──。
フェアトは、かつてフルールに教わった首鰐と主人の間にある主従関係の利点と欠点をおさらいしつつ。
「……」
『グルッ?』
壁に埋まったままの姿勢で、スッと両腕を上げた。
「あら、お手上げって事かしらァ? でも駄目なのよねぇ、ここを知られたからには生かしておかなぁい♡」
『グルルァ……?』
それを見た首鰐は何かをしてくるのではと警戒して動きを止めたが、すでにフェアトに脅威を感じていなかったミュレイトは彼女の動作をお手上げ──つまりは降参しているのだと踏んでおり、そちらに対し確認するように振り返った首鰐に『えぇ♡』と答えつつ。
「いいわよぉ? 真っ二つにしちゃいなさぁい♡」
『……グルォオオオオアアアアッ!!』
彼女を喰らう為の許可を出す旨の声をかけたその瞬間、首鰐は警戒を緩めず口を開いて突貫していった。
凶悪極まりない牙が生え揃った口の奥から、これまで喰われた者たちの怨嗟の声が聞こえてきそうだと。
そんな後ろ向きな考えを振り払った彼女は──。
(……これができるのは相手が相手だからこそ──)
これから自分がやろうとしている事は、こうして自分を襲わんとしているのが首鰐と奇妙な人生を送ってきた彼だからこそだと再認識するとともに集中して。
『グルァアアアアアアアア──』
「っ!」
とても巨体には似合わない動きで水面から飛び出しつつ身体を捻り、ミュレイトの指示通りにフェアトを真っ二つにするべく大きく凶悪な口を横に開いて、ようやく待ちに待った食事だとばかりに噛みつき──。
『──……グ、オォ……?』
「ぇ? 何が、起こっ──」
そして首鰐は、かくも見事に真っ二つとなった。
まるで凶悪な牙で噛み砕かれたかのようなギザギザとした傷痕を胴体に深く残し、まだ死にきれていないのか前脚や後脚、尻尾などをバタバタと動かしていたのだが、そのうち動きも鈍くなっていき──死んだ。
自分の身に何が起こったのかも分からないまま。
そんな中、両腕を上げていたのは胴体を狙わせやすくする為であり、『真っ二つにしろ』との指示は偶然だったが、それでも上手くいったのは事実である為。
「……っ、【因果応報《シカエシ》】成功……そして──」
首鰐が突貫してきた際の衝撃によって壁が砕けたお陰で抜け出せたフェアトは、『ばしゃっ』という水音とともに地底湖の浅瀬に着水しつつも、やけに得意げな表情を浮かべて首鰐の死骸から視線をスライドし。
「──貴方にも、です。 ミュレイトさん」
「……っ!? かひゅっ、ごぼっ……!!」
そこには、どういうわけか首鰐と同じように『まるで凶悪な牙で噛み砕かれたかのような』ギザギザとした傷痕が胴体に──正確には肺や心臓の辺りに深く残り、そこから上半身と下半身が真っ二つになっていたミュレイトが転がっており、フェアトが声をかけても肺が潰れているからかまともに声も出せず、どうにか声を出そうと息をすると今度は口内に血液が溜まる。
首鰐と主従の関係を契った『主人』は、その巨体に違わぬ圧倒的な量を誇る首鰐の魔力と、その凶悪極まる見た目のままの強さを誇る首鰐の膂力を手にする代わりに、『適性』の他にも更に共有するものがある。
それは──『感覚』。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感に始まり、そこに痛覚や圧覚、運動覚までもが加わる感覚の全てを首鰐と任意で共有する事ができ、それを利用して遠く離れた相手を首鰐に始末させる事も可能なのである。
しかし、そこにはリスクも少なからず存在する。
最も大きなリスクとしては、『どれか一つの感覚だけを共有する』というのは絶対に不可能だという事。
首鰐が見ているものを見たい時、主人には首鰐が聞いている音も嗅いでいる匂いも触れているものの感触も、その大きな口に入ったものの味でさえも共有し。
何より首鰐の身体が傷つけられたが最後、主人の身体にも人体でいう同じ位置に全く同じ傷がつく──。
とはいえ今回のケース、ミュレイトは首鰐やフェアトとの距離も近く感覚を共有する必要はなかった筈。
だが、それでも彼は『とある感覚』を首鰐と共有する為に、その他の全ての感覚ごと共有していたのだ。
その『とある感覚』とは、あろう事か──。
──『味覚』だった。
彼が偶然の事故から逃げ延びた時には、すでに南ルペラシオの国境を完全に越えてしまっており、もはや東ルペラシオにも帰る事ができないのだからと考えた結果、彼はひたすらに大陸を離れる為に歩き続けた。
その際、美食国家の闇──人肉食に図らずも触れる事になってしまい、ミュレイトは何をしてでも生き残ると十歳ながらに決意して、その肉を何度も食べた。
結果、彼の味覚は狂ってしまったのだ。
好物の一つに人肉が入ってしまうくらいに──。
これまで首鰐に何十人と喰わせた時も、その全てを首鰐と共有する事で何とか飢えと渇きを凌いでいた。
ここが美食国家でない以上、流石に人目があるところで公然と人肉を喰らうわけにはいかなかったから。
恐るべきは、それを読み切っていたフェアト。
彼が美食国家の闇についての話をしていた時から。
そして首鰐が出現したその時から、どうにかしてこの展開に持っていけないかと狙っていたのであった。
間違いなく、この男は数秒もせずに絶命する筈だ。
そう判断したフェアトが、そのまま彼から視線を外して並び立つ者たちの成れの果てだという妙な意匠の石像の方へと顔を向けた──まさに、その時だった。
──パキッ。
「えっ」
もはや聞き覚えがあるというのも億劫に思える小気味良い音が聞こえてきた事で、フェアトは振り向く。
「……あ、れ……?」
しかし、すでにミュレイトは事切れており、その手の辺りに使い潰された魔石があるわけでも魔方陣が展開されているわけでもなく、つい先程の音は彼が原因で耳に届いたのではないと確信したフェアトは──。
「っ、まさか──」
その音を、『石が割れた音』だと判断して振り返ったのなら、ここは洞窟なのだからミュレイト以外にも石は山ほどあり、ましてや『割れそうな』となれば。
──そう考えたフェアトが再び視線を戻すと。
「……石像、が……」
ピシッ、パキッという音とともに地底湖の中心に佇む石像にヒビが入っただけでなく、その中から憔悴しきった青白い顔をした二人の女性が姿を現し、そのまま水面へと身を寄せ合った姿勢で地底湖に着水した。
本来なら、『石像になったんじゃないの!?』みたいな疑問を込めた叫びを上げてもいいと思うが──。
(そうか、ミュレイトさんが命を落としたから……)
ミュレイトや悪神が【破顔一笑《ラフメイカー》】や【常住不断《ステイヒア》】を利用する為に石像にしたのならば、リャノンとサラは生かしたままにしておかなければならないわけで、それを考えると『おそらく生きる為に必要な最低限の機能や器官』を残し、それ以外を石にされたのだろう。
そう考えていたからこそ、フェアトは冷静だった。
そして、この考えは──見事、大正解だったのだ。
その後、溺れまいと騒ぐ気力すらない事が幸いしたのか、どちらがリャノンなのかサラなのかはともかく二人して地底湖の水面に浮かぶのを見たフェアトは。
(並び立つ者たち相手だし同情なんてするつもりもないけど……こんな二度目の人生は流石に嫌だなぁ……)
本人は否定していてるが、どう考えても同情という他ない感情を彼女たちに向けた結果、少しずつ、本当に少しずつ水を掻き分けながらそちらに歩み寄って。
「……これが正しいのかは分かんないけど……っ」
非力ながらも浮力を生かして助ける事にした。
どうせ、もう自分を阻む障害はないのだからと。
「──……」
絶命した筈の遺体が光を帯びている事も知らずに。
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