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お節介な男
しおりを挟む予定通り飛行機に搭乗した藍田は、シートに体を預けると、小さな窓に視線を向ける。大粒の雨が降りつけているせいで、外の景色はほとんど見えない。
なんとなく、窓に指先を這わせていた。少し前まで大橋と隣り合って座っていたが、手は震えていない代わりに、指先まで熱くなっていた。それだけでなく、やけに自分の心臓の鼓動も速い。大橋を意識している証だと自覚があるだけに、忌々しい。
当の大橋は、少なくとも藍田より後ろの座席に座っているらしいが、振り返った途端に目が合うのが嫌で、藍田は意地でも前を見据えている。
嫌な男だ、と心の中で呟く。もちろん、大橋のことだ。
よりによって一番触れたくない話題を、周囲に人がいる場所で切り出してきたのだ。そんな状況で藍田が言えることなど知れている。それをあの男は――大橋はわかっていない。嫌な男というより、デリカシーがない男というほうが正しいだろう。
だから二度も離婚されるのだと、離婚経験はおろか、そもそも結婚自体したことのない藍田は思う。
飛行機の中で、今日の東京支社での行動手順についてじっくり考えるつもりだったのだが、予想外の大橋の登場で、藍田の計画はすっかり狂ってしまった。計画だけではなく、調子まで。
藍田は舌打ちすると、小さく呟く。
「勝手なことばかり、言うな……」
大橋との間にあったことなど、なかったことにすればいいのだ。自分でもそう思っていたはずなのに、大橋の口から立て続けに放たれた言葉を聞いているうちに、むしょうに腹が立ってきた。腹立たしさは、胸の奥で不快な塊となって藍田を苛む。
眉をひそめて窓を見つめ続けているうちに、飛行機が動き始め、離陸態勢へと入る。震動を感じるたびに、睡眠不足の頭が揺れ、あっという間に乗り物酔いになりそうだ。
ようやく飛行機が飛び立ったときには胃まで痛くなり、体調は最悪だった。
大阪から東京までの移動など、飛行機では数十分ほどしかかからない。しかし藍田には、その数十分がつらかった。
乱気流のせいで飛行機はいつになく揺れ、かと思えば、ときおりエアポケットに入るのか、ふっと体が浮くような感覚に襲われる。耳鳴りまでし始めたときには、効き目があるのかどうかわからないが、ジャケットのポケットに念のため入れておいた鎮痛剤を口に放り込んでいた。
いつもは飛行機が多少揺れたところで平気だが、さすがに体調が悪すぎた。数十分のフライト時間は、藍田にとってはまさに悪夢そのものだった。
ようやく飛行機が着陸したときには、一気に体の力が抜け、ぐったりしてしまう。おかげで、すぐにシートから体を起こせなかったぐらいだ。
ふらふらになりながらも、なんとか到着ロビーに着いた藍田がまっさきに向かったのは、ターミナル内にあるコンビニだった。
そこで水を買い求めると、近くのイスに腰掛け、さっそくペットボトルに口をつける。喉を通る冷たい水の感触が意外なほど心地よく、不快さに支配されていた藍田の気分も少しだけ持ち直す。
「――酔ったのか」
ふいに頭上から声がかけられ、一瞬動きを止めた藍田は、ぎこちなく顔を見上げる。ジャケットを片腕にかけた大橋が傍らに立っていた。
「ひでー顔色しやがって。よし、これから朝メシを食おう。空港の中で済ませて、そのまま、まっすぐ会社に行ける――」
「なんで、ここにいる」
思わず問いかけると、大橋が憎たらしく感じる笑みを浮かべる。
「寝ぼけてるのか。俺たちは同じ飛行機で来ただろ」
「とぼけるなっ。わたしとあんたは別行動だ。それなのに、どうしてわたしの目の前に立っているのかと聞いてるんだ」
「どうせ行き先は同じなんだ。細かいことはいいじゃねーか」
よくない、と口中で応じた藍田は、キッと大橋を睨みつける。すると大橋は、ヘラヘラとした笑みを消し、怖いほど真剣な表情となる。
「お前は俺にとって、仕事上の大事なパートナーだ。そのお前が、敵地に乗り込む前に弱っているのを見て、放っておけるわけがない。お前がわざわざ足を運ぶぐらいなら、相当のトラブルがあったということだろう。だからこそ、生半可な状態じゃ乗り越えられないぞ。なら、少しでもマシな状態にしておくのは、お前の義務だ」
ほぼ一息で大橋に言い切られ、さすがの藍田も反論を挟む余裕もなく目を見開く。
一瞬、言われ放題の状態に猛烈に腹が立ったが、次の瞬間には、疑問が首をもたげる。
藍田は、大橋から向けられる強い眼差しを受け止めながら、ほんの数十分のフライトの間に、この男の中で何が起こったのだろうかと思っていた。飛行機に搭乗する前、藍田の反応を気にするように殊勝に謝ってきた大橋が、今はやけに強気だ。開き直ったというべきか。
「……あんたは、よくわからない。わたしがどれだけきついことを言っても、何事もなかった顔をして話しかけてくる神経が、わからない……。あんたの神経、どこか繋がってないんじゃないか」
かなり失礼なことを言っていると自覚はあるが、藍田なりの率直な気持ちを口にしたつもりだ。これは、藍田にしてみればかなり珍しいことだった。
一方の大橋は、目を丸くしたあと、声を上げて笑い始めた。
「何がおかしい……」
「いかにも藍田春記らしい発言だと思ってな。お前の言い方だと、俺はまるで、能天気なバカだ」
「そうだろう」
「バカはバカでも、俺は、考えている『つもり』のバカだ」
何を話しているのだろうと思いながらも、藍田はすでに大橋のペースに巻き込まれていた。大橋が相手だと、こういう展開になることが多い気がする。
藍田は大橋を睨みつけたまま、ペットボトルにゆっくりと口をつける。するとなぜか、大橋の視線が数瞬、空をさまよった。
「あー……、お前がいろいろと俺を追及したい気持ちもわかるが、とにかく場所を変えようぜ。さっきの話だが、朝メシを食おう。今から本社に行くにしても、まだ早い。メシを食って、お前の顔色をひとまずどうにかしてから、タクシーで移動だ」
「別に電車でも――」
「体力の消耗は少ないほうがいいだろう。俺も、乗り継ぎのために歩くのは嫌だ」
一緒にタクシーに乗るつもりかと、念を押す気にもならなかった。
藍田がペットボトルの蓋を閉めている間に、大橋はさっさと藍田のアタッシェケースを取り上げてしまう。仕方なく藍田は立ち上がり、あとについていく。
先を歩く大橋の広い背を見ながら、飛行機の中でどんな葛藤を経て、いまだにこうして自分にかまうのだろうかと考えていた。考えたところで、大橋の思考回路が理解できるとは到底思えないが。
それとも、能天気な男らしく、藍田を抱き締めたという行為はなかったことになったのかもしれない。だとしたら、いつまでも引きずっている自分はなんなのかと、急に藍田は腹立たしくなってくる。
前触れもなく大橋が振り返り、眉をひそめた。
「どうした。難しい顔をして」
「……いつもこんな顔だ」
「少しは笑ったらどうだ。お前みたいに無愛想な奴がたまに笑うと、かなり怖いぞ」
エスカレーターから大橋を蹴り落としたい衝動に駆られ、藍田はぐっと堪える。代わりに皮肉で応じてやった。
「あんたはいつも楽しそうだな。今日なんて特に、浮かれているようにも見える」
「緊張しすぎて、ハイになってるんだ。それでなくても寝てないからな。テンションが妙なことになってる」
「――……大橋龍平という男でも、緊張することがあるんだな」
藍田は小声で呟いたが、さすがに大橋の耳には届かなかったらしい。エスカレーターを降りた大橋が肩越しに振り返り、軽くあごをしゃくる。視線の先には、コーヒーショップがあった。
すでに客で混雑していたが、なんとか空いたテーブルを見つけると、二人はモーニングセットを注文する。ただし大橋は、ホットドッグも追加した。
食べ物の匂いを嗅いで初めて藍田は、自分が空腹だったのだと実感できた。体調のために食事はしっかりとると自分に言い聞かせていたはずなのだが、忙しくなると、すぐに後回しにしてしまい、結局、面倒になる。
カフェラテを一口飲んで、藍田はほっと吐息を洩らした。昨夜からずっと慌ただしく過ごし、今いるコーヒーショップも、人の出入りが激しくてにぎやかなのだが、やっと体が落ち着けられた気がした。
藍田はカップを置くと、目を擦る。落ち着いた途端、緩やかに睡魔が押し寄せてくる。
「眠そうだな。まあ、俺も眠くてたまらんのだが」
「丸二日、まともに寝てない……」
思わず正直に告げた藍田に対して、ホットドッグにかぶりつこうとしていた大橋が、会話の自然な流れとして尋ねてきた。
「どうしてだ?」
次の瞬間、あることに気づいたのか大橋は、しまった、という表情をして不自然に視線を逸らした。
「……ああ、そうか。俺のせい、だな」
藍田は表情を変えないままナイフとフォークを手にして、パンケーキを切りながら素っ気なく言う。
「一昨日のことに関しては、もうあんたと言い合う気はない。――あんたは酔って、ふざけていた。それだけのことだ。今はそんなことより、お互いに抱えたトラブルをどう乗り切るかのほうが大事だ」
異論は? と強い眼差しを向けながら問いかけると、藍田の意図を察したらしく、大橋は苦い顔で頷いた。
「今は、そういうことにしておこう」
「今後も、だ」
大橋は何か言いたげな様子だったが、結局、黙々とホットドッグを食べ始める。藍田も、切り分けたパンケーキを口に運ぶ。
大橋の、緊張感のない旺盛な食欲を眺めていると、藍田の肩から余計な力が抜けていく。
考えてみれば、緊張する必要などない。今日はあくまで、仕事の一つとしてやってきたのだ。その仕事は、誰かが引き受けなければならない仕事で、おそらく大橋も、そんな仕事を背負ってやってきたはずだ。
わたしは一人ではない。
その現実が、やけに藍田には心強く感じられ、戸惑う。いままで仕事をしていて、こんな気持ちになったのは初めてのことだった。
あっという間にホットドッグを食べ終えた大橋が、今度はパンケーキにたっぷりの蜂蜜をかけ、ナイフで切っていく。武骨そうな手が慌ただしく動く様を、なんとなく目で追いかけていた藍田は、当の大橋がこちらを見ていることを知り、気恥ずかしさを覚えた。
「……なんだ」
「いや、やっぱり俺の思った通りだと思って」
フォークを置いた大橋の指先が藍田の顔に向けられる。
「メシ食ったら、ずいぶん顔色がマシになった」
決まりが悪くて視線を伏せた藍田は、カップに手をかけながらぼそぼそと応じた。
「大橋さん、あんたよく、お節介だと言われるだろう」
「見た目通り、細やかな心遣いができる紳士だとは言われる」
「はいはい」
おざなりな返事をした藍田に、大橋はまじめな顔で抗議をしてきたが、もちろんすべて聞き流した。
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