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祝福される男1
しおりを挟む最後の書類に判を押して部下に渡したところで、大橋は半ば条件反射のように窓のほうに視線を向けそうになり、寸前で堪えた。危うく、イスごと体を動かしそうになった。
ここまで無意識だともう癖といっていいが、向かいのオフィスを見そうになったのだ。正確には、向かいのオフィスにいるはずの藍田を。しかしそうするためには、まず大橋側のブラインドを上げなくてはならない。
三日前から大橋は、意地になってブラインドを下ろし続け、なおかつ窓の向こうを意識の外に追い払う努力を続けていた。
素直には認めがたいが、藍田の生意気な部下・堤に言われた言葉を引きずり続けているのだ。下ろしたブラインドは、怒りと意地の表れだ。
もっともこんなことをしたところで、通じるのは堤だけだ。藍田はいつもと変わらず、澄ました顔で仕事をしているはずだ。裏で自分の部下が、他の部署の上司にケンカを売ったと知りもせずに。
堤は、自分の行動を誇らしげに藍田に語ったりはしないだろう。堤という男がどんな奴なのかは知らないが、これだけは確信を持っている。
三日前、堤から一方的な釘を刺された大橋は、二度目の離婚をして以来、まったく手を出していなかった煙草を買ってしまった。妙に吸いたい気分になったのだ。
だが現実は、喫煙ルームに入って煙草に火をつけはするものの、吸うまでには至っていない。
「くそったれ、男なら煙草の一本ぐらい勢いで吸ってみろってんだ」
上品とは言いがたい独り言を洩らしたところで、煙草の横に置いたスマートフォンが鳴る。表示された名を見て、大橋は思わず眉をひそめていた。
ここで出るわけにもいかず、スマートフォンを掴んで足早にオフィスから廊下へと出る。
「――なんの用だ」
傍迷惑だという気持ちを隠しもせずに大橋が電話に出ると、外からかけているのか、人のざわめきと音楽が聞こえてくる。
『今夜、わたしに食事を奢らせてあげる』
「……俺の周りには、なんでこう、態度がでかい奴ばかり……」
『何か言った? 龍平』
「言ってねーよ。で、なんだって?」
意識せずとも口調が荒くなる。電話の相手は、大橋の別れた妻である敦子だった。
説明を加えるなら、大橋が一番目に別れた妻で、気が強いだけでなく、浪費家で男好きときている。いくら見た目はイイ女だったとはいえ、こんな女と結婚生活を送れたことは、大橋にとって最大の奇跡だ。
別れたあとも、サバサバした性格のせいか、よく大橋はこんなふうに呼び出されては、食事を奢らされている。
『イイ女が、一緒に食事してあげる、と言っているのよ』
「お前なあ……、俺は忙しいんだよ。何が楽しくて、五年も前に別れた女房とメシなんて食わないと――」
『新しい恋人ができたのよ、わたし。結婚するかもしれないから、未練が残らないよう、最後の晩餐はどう? と誘っているわけ』
これで何度目だ、と思ったが、あえて口に出して言うことではないので、大橋はぐっと言葉を呑み込む。
「わかった。祝福してやる。場所は……いつもの店でいいな」
『芸のない男ね』
「なくてけっこうだ。男ごとに店を決めておくと、他の男と一緒にいてばったり出くわす可能性が低いから楽だぞ」
『それもそうね。ええ、わかった。なら、八時に待っているから』
悪びれずにそう答えて、ブツリと乱暴に電話が切られる。相変わらず、勝手な女だ。
短い電話のやり取りながら疲労感を覚え、オフィスに戻ろうとして大橋はギョッとする。いつからそこにいたのか、ニヤニヤと笑いながら後藤が立っていた。
「なーに、こそこそと話してたんですか?」
一緒にオフィス内を歩きながら、後藤に尋ねられる。
「こそこそしてたか?」
「してましたよ。秘密の匂いを感じましたね。俺の勘がそう告げてます」
「だったら、お前の勘もあてにならんな」
大橋は素っ気なく答えた。
「――俺の元奥さんだ。一番目のな」
目を丸くした後藤の言葉がなかなか振るっていた。
「……ああ、もしかして、強烈なほうの奥さんですか?」
「そう、強烈なほうの奥さん、だ。今晩メシ食わせろって脅迫された」
答えながら大橋は、堪え切れずに苦笑を洩らした。
部下にまで、『強烈なほうの奥さん』として認識されている敦子の数少ない美点は、胸の大きさと美貌、食いっぷりのよさだろう。健啖家である大橋は、毎日こいつとメシを食いたいと思って敦子にプロポーズしたのだが、今となっては過去の話だ。
大橋は無意識にため息をつくと、隣のテーブルへと視線を向ける。いかにも初々しいカップルが、にこやかに食事をしていた。
俺たちにも何年か前、あんなときがあった――、と感慨に耽るほど、大橋は未練がましくはない。考えたのは、まったく別のことだった。カップルのテーブルに並べられた料理を眺めながら、あいつは夕飯を食ったのだろうか、と心配したのだ。
『あいつ』とは、もちろん、藍田のことだ。
あいにく大橋には、他人の食事の心配をしてやるほどの甲斐甲斐しさはなく、唯一の例外として、藍田がいる。たとえ、藍田の部下に何を言われようが、気になるのだから仕方ない。
敦子との待ち合わせのためオフィスを出るとき、ブラインドの隙間から確認したが、藍田の姿はまだ向かいのオフィスにあった。どうせ今夜もまた、遅くまで残業するのだろう。周囲からどんな圧力をかけられようが、自分の胃を悪くしながらも、怜悧な表情を変えもせずに、黙々と。
漫然と藍田のことを考え続けていると、ふいに大橋の胸の奥で熱い塊が蠢き、息を止める。なぜか、心臓の鼓動まで速くなっていた。食事中に飲んだワインのせいかとも思ったが、今夜に限って、グラス一杯しか飲んでいない。酔うには程遠い量だ。
不可解な自分の異変に戸惑い、苛立ちながら、大橋は短く息を吐き出す。落ち着かなくてテーブルに頬杖をついたが、それも具合が悪く、すぐに背筋を伸ばす。所在なく髪を掻き上げたりもしていた。
「――急に、何をイライラしてるのよ」
マンゴーのシャーベットを掬いながら、敦子がきつい眼差しを向けてくる。ボリュームのあるステーキを平らげて、その前に前菜もしっかりとっておきながら、この細い体のどこに入るのかと不思議になってくる。シャーベットの前に、敦子はケーキも二個食べているのだ。
三か月ほど前に会ったときは長かった髪は、今は肩につくかつかないかの長さになり、緩くウェーブがかっていた。髪形のせいか、眼差し同様きつめの顔立ちが際立っている。
何も入れていないコーヒーを啜った大橋は、曖昧に首を動かした。
「俺は忙しいんだよ。メシを食う時間も惜しむほどな」
「へえ、誰か待たせてるから、遅れるのを心配してイライラしているんじゃないの? わたしはてっきり、三番目の奥さんをキープしてるのかと思ったんだけど」
「はっきり言うぞ。俺は二度の失敗を経験して、心に誓ったんだ。金輪際、婚姻届に判は押さないってな」
「意気地なし。二度の失敗ぐらい」
原因の半分はお前にあるだろう、と言いたかったが、いまさら離婚のことでムキになっても仕方ない。
敦子は満足そうに頷いた。
「少しは大人になったじゃない。昔ならここで、お互い言いたいことを言い合って、大ゲンカになるのに」
「……俺は今、管理職なんだ。忍耐の日々で鍛えられた」
ふうん、と意味深に敦子は鼻を鳴らしてから、シャーベットを平らげた。
コーヒーも飲み干すのを待ってから、ナプキンをテーブルに置いて大橋は立ち上がろうとする。
「――ねえ」
敦子が上目遣いに見上げてきて、テーブルに突いた大橋の手に、自分の手をかけてきた。
「なんだ」
「本当に誰かいないの? 気になる人」
「元ダンナの恋愛が気になるか」
「龍平は寂しがり屋だから、愛しい誰かが側にいてくれないとダメなタイプなのよね」
大橋は目を剥いて、敦子を見つめる。したたかに笑い返された。
「本当は、誰かいるんでしょう」
心臓の鼓動は速くなる一方で、なぜか大橋は焦ってくる。この反応はまるで、敦子に図星を指されたといっているようなものだ。
「……いねーよ。ほら、食ったんなら出るぞ。俺はお前のせいで、今日は家に仕事を持ち帰らなきゃいけなくなったんだからな」
つまらない、という敦子の言葉は無視した。自分が幸せだと、元ダンナの幸せも願える心境になるのか、単におもしろがっているだけなのか。敦子の場合、後者かもしれない。好奇心の強さという点で、大橋と敦子はよく似ているのだ。
もっとも大橋は、いまさら敦子の恋人がどんな男なのか、聞こうとも思わない。これは好奇心云々ではなく、別れた男女の間に引く一線だと考えている。
「ほら、出るぞ」
敦子を促して席を立つと、支払いを終え、ビル内にあるレストランを出た。
エレベーターに乗り込んだときは敦子と二人きりだったが、次に停まった階で、どっと客が乗り込んでくる。大橋と敦子はエレベーターの壁に押しやられ、敦子が大橋に身を寄せてきた。敦子愛用の、懐かしい香水の香りに鼻腔をくすぐられる。
「大丈夫か?」
「平気。……懐かしいからって、お尻に触らないでね」
「バッ、バカかっ、お前はっ」
二人のやり取りが聞こえたらしく、すぐ側にいるOLらしい女の子たちがクスクスと笑い声を洩らす。
「――信じられん奴だ」
ビルを出て大橋が苦々しく洩らす隣で、敦子は腹を抱えて爆笑している。
「相変わらず、おもしろいわ、龍平」
笑い続けながら敦子がふらふらと歩いて行こうとする。大橋は声をかけた。
「おい、送っていこうか? といっても飲んだから、タクシーだけどな」
「んー、いい。一人で帰る。新しい『彼』のところに寄るから」
ここで何かを思い出したように敦子が振り返る。
「恋人、大事にしなさいよ」
「だから、いないと言ってるだろっ」
「信じなーい」
別れの挨拶も交わすことなく、大橋と敦子はそれぞれ違う方向に歩きだす。
あの女は相変わらずだ、と口中でブツブツ言いながら歩いていた大橋だが、気がついたときには足を止め、レストランでの自分の異変を思い返していた。
漠然とながら、異変の理由がわかったのだ。
「……あーっ、くそっ」
藍田のことが頭から離れなかった。誰になんと言われようが、気になるものは仕方ないし、そもそも、誰かに言われるものではない。これは、大橋と藍田の問題だ。
それに、何もかも自分一人で背負い込もうとする人間を放っておくのは、大橋の主義に反する。
歩道のど真ん中で立ち尽くしたまま、自らの正当性を誰に対してか主張するように、大橋は頭の中でそう繰り返していた。
自分でも、どうしてだかわからない。ただ、気になる人はいないのかと敦子に問われたときに、藍田の顔が脳裏に浮かんだのだ。だから、放っておけない。
「――気になる、の意味が違うっていうんだよな」
自虐的に呟いた大橋は、もう一度、くそっ、と低く毒づいて足早に歩き出す。
通りかかったタクシーを停めて乗り込むと、会社のビルに行くよう告げた。大橋はシートに体を預ける余裕もなく、イライラと指先で自分の膝を叩く。
自分のお人よしぶりに、心底腹が立っていた。堤にあそこまで言われておきながら、それでも藍田を心配する義理はないのだ。そもそも藍田のバリアーになってやる義理も、本当はない。プロジェクトが違うのだからと、その一言でなくなるようなつき合いだ。
大橋は両手で髪を掻き上げると、大きく息を吐き出す。開き直りとも言うが、この瞬間、覚悟は決まっていた。徹底的に藍田に関わってやると。
タクシーが会社に着くと、大橋はちらりとビルを見上げてから、大急ぎで駆け込む。この時間、ビル全体が真っ暗になっているということはないが、それでも電気がついているオフィスはまばらだ。
エレベーターの中で走り出したい衝動に駆られ、扉が開いた途端、本当に走り出す。何をこんなに焦っているのか、本当に大橋にはわからない。
藍田に関わることで、『考える』という行為は放棄した。藍田という存在そのものもよくわからないのに、その藍田に翻弄されつつある自分の行為など、さらにわかるはずがなかった。必要なのは、大橋自身がどう行動したいかだけだ。誰の意見も必要ない。
新機能事業室のオフィスが見えてくる。案の定、電気がついていた。大橋は荒い呼吸を繰り返しながら、オフィスに飛び込むと、広く静かな空間をどんどん歩いていく。
オフィスの奥のある一角だけ、電気がついていた。その明かりの下にいるのは――。
「やっぱりいたな……」
大きく息を吐き出して呼吸を整えた大橋は、近づきながらネクタイを緩める。
大橋の気配に驚いたように藍田が白い顔を上げ、切れ長の目を見開いた。
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