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番外編 拍手お礼61
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英俊にとって〈弟〉とは、なんとも形容しがたい感情を抱かせる存在だった。
友人たちの話を聞いていると、ケンカが絶えなかったり、反対に、親友同士のように仲がよかったりと、極端な関係を語られることもあったが、意外に多かったのは、微妙な距離を取りながら、滅多に会話を交わさないというものだった。
自分と弟の関係は、そのどれとも違うと自覚しながら、英俊は上手く友人たちと話を合わせ続けてきた。
まさか、弟が幼い頃から、痛みを――罰を与え続けてきたとは言えない。そもそも弟と思ったことはなく、誰にも愛されない、必要とすらされない災厄だと認識し続けてきた。
英俊のそんな認識が歪んだものであると現実を突きつけてきたのは、皮肉にも、災厄を生み出した本人ともいえる父親だった。
父親である俊哉は、英俊にとって絶対の存在だ。尊敬し、同時に畏怖もしており、物心ついたときから、少しでも俊哉を失望させてはいけないと、強迫観念にも似た義務感を抱き続けてきた。
しかしそのことを、苦しいとも、つらいとも思わなかった。
佐伯家を継ぐために俊哉が背負ってきたものなのだから、自分も背負って当然で、そこに強い父子の繋がりを感じることもできたからだ。
弟である和彦は、何も期待されず、背負わされない。独り立ちするまでの間、佐伯家の庇(ひさし)を貸しているに過ぎないのだから当然だと、英俊は考えていた。
大学から戻ってきて、玄関に入った瞬間、微かな違和感を覚えた。何事かと身構えるほど大げさなものではなく、ただ単に、玄関に父親の革靴があったというだけだ。
帰宅が夜更けとなることが多い人にしては珍しく早いと思いながら、自分も靴を脱いだ英俊は腕時計を見ていた。今日は大学の講義のあと、図書館に寄って勉強をしていたのだ。門限があるわけでもなく、両親も基本的に口うるさく言うほうではないのだが、さすがに、父親より遅くに帰宅したというのは少々バツが悪い。
いつもなら真っ直ぐ二階の自分の部屋に上がる英俊だが、今日はまず一階にある父親の書斎の前まで行き、ドアをノックしてみる。返ってくる声はなく、次にリビングへと立ち寄ると、人影があった。
「――今日は早いんだね」
英俊が声をかけると、ソファに腰掛けて書類らしきものに目を通している俊哉が顔を上げ、表情を変えないまま応じる。
「ああ。荷物を置きに一度戻っただけで、少ししたらまた出る」
俊哉の言う『荷物』とは、テーブルの上に置かれた白い箱のようだ。
「それは……」
「高校の制服だ。仕立て上がったと連絡があったから、受け取ってきた」
「わざわざ父さんが行かなくても、本人に取りに行かせたらいいのに。もう学校から帰ってきてるんだろう」
「〈あれ〉に、この大きな箱を抱えて歩かせるのか?」
穏やかな口調ながら、俊哉の口元に浮かんだのは冷笑だった。確かに、〈あれ〉には無理だろうと、英俊は納得するしかなかった。小柄ではないのだが、とにかく華奢だ。
箱の中身を、あえて開けて確認するまでもなかった。かつては英俊も着ていた制服だ。いわゆる進学校として名の知られた高校で、絶対に合格しなければならないと、受験時には英俊はかなりのプレッシャーをかけられた。
目的のために勉強するのはまったく苦ではなかったが、弟はどうだったのだろうと、少しだけ英俊は想像力を働かせる。
そんな英俊を、俊哉はじっと見つめていた。
「和彦の進学については、お前はずっと何か言いたそうだったな。家を継ぐわけでもないのなら、それなりに偏差値の高い他の高校でもよかったはずなのに、どうして自分と同じ高校を選んだのか、といったところか」
昔から、俊哉に隠し事はできなかった。柔らかな眼差しで息子たちを見守っているようで、実は冷徹に観察しているのだ。誰に対しても、何に対しても、俊哉の眼差しが情で揺らぐことはない。
「……和彦なら、父さんの言うことに逆らわないだろう」
「そのわたしが、勧めたんだ。微笑ましいだろう。弟が、優秀な兄に憧れて同じ高校に進むというストーリーは」
「まさか、大学も――」
「前々から言っている通り、和彦は医者にする。医学部がある大学ではなく、医大に入らせる。それ以外の道はない」
佐伯家は、代々官僚を輩出している家柄だ。その中でもっとも傑物だと言われているのが俊哉で、長男である英俊は当然のように俊哉と同じ道に進むことを求められている。英俊は現在、国家公務員一種試験に向けて猛勉強を続けていた。失敗は許されないのだ。
切れ者すぎる俊哉の後継者だからこそ背負わされる苦労だが、長男だから、恥じることのない出自だからこそ歩める道が用意されているのだと思えば、感じるのはつらさではなく、誇らしさだ。そして、暗い優越感を。
俊哉の口から、和彦を医者にすると聞かされるたびに、安堵感を覚える。和彦はやはり、佐伯家の者として認められていないのだ、と。
意識しないまま英俊は口元を緩めていたが、次の俊哉の言葉を聞き、顔を強張らせる。
「――わたしのコピーは二人もいらない。和彦には、佐伯家の者らしくない道を歩ませる。……いや、そもそもわたし自身が、佐伯家の者らしくない人間か」
おそらくこの瞬間、自分は衝撃を受けたのだと、英俊は認識できた。ただし、俊哉の言葉のどの部分に衝撃を受けたのかは、よくわからなかった。
尊敬する父親のコピーであると認められることは、むしろ喜ばしい。その父親の口から出た自虐めいた言葉は、反応には困るが、昔から英俊はときおり耳にしている。
では一体、自分は何に――。
言葉もなく立ち尽くす英俊に、俊哉は一瞥すら寄越さず言った。
「早く着替えたらどうだ」
頷いた英俊は、もう一度、テーブルの上の白い箱を見遣ってから、二階へと上がった。
着替えを終え、イスに腰掛ける。ぼんやりする間も惜しく、バッグから問題集を取り出し広げはしたものの、すぐには取りかかる気にはなれなかった。自分でも戸惑うほど、さきほど俊哉から言われたことが引っ掛かっていた。
そうしているうちに、外から微かな音がした。立ち上がった英俊はさりげなく窓際に寄り、外の様子をうかがう。門扉の前に黒塗りの車が停まっており、少し間を置いてインターホンが鳴った。
家から出た俊哉が後部座席に乗り込み、車が走り去ったあとも、英俊はその場から動かなかった。
内線が鳴り、夕食の準備ができたことを家政婦が知らせてくる。勉強に集中していた英俊はほっと息を吐くと、立ち上がって軽く身をひねってみる。長時間座っていたわけではないが、体中の関節が音を立てた。
ドアを開けると、二階の奥からも同じくドアを開けた音がした。反射的に英俊が動きを止めていると、廊下の角から弟である和彦が姿を見せた。兄弟の食事は三十分ほど間隔を空けるようにと言ってあるのだが、通い始めて間もない家政婦は、よくこの注意を忘れる。兄弟で一緒の食卓にはつかないということが、よほど理解できない状況なのだろう。
和彦のほうも、英俊に気づいて一瞬動きを止めたあと、廊下を引き返そうとしたが、すかさず英俊は声をかけた。
「お前はダイニングで食べたらいいだろ。ぼくは、自分の部屋で食べるから」
振り返った和彦が小さく頷く。
先に階段を下りる和彦の後ろ姿を、あとに続きながら英俊はじっと見つめていた。カーディガンを羽織っていても薄いとわかる体は、六年前の英俊の体つきとよく似ていた。
もともと英俊は体を動かすのが苦手で、部活も徹底して運動系は避けていたため、筋肉がつくこともなかった。今は、勉強の息抜きと運動不足解消のためにやむなくスポーツジムに通っており、人並みの健康的な体型を保っている。
当然、和彦もあと数年すれば、英俊と同じように、それどころかさらに逞しくなっていても不思議ではない。
英俊が与える痛みを受け入れる、従順な〈弟〉は跡形もなく消えてしまうかもしれないのだ。
見た目だけのことではない。ここまで同じ家で暮らし、英俊の後ろをついてくるように同じ進路を選択し――させられてきた和彦が、あと三年すれば、英俊の知らない道を歩み始める。
この瞬間、ふっと歩調が乱れた。二段先を歩いていた和彦が異変を感じ取ったのか、ゆっくりと振り返った。子供らしくない静かな眼差しは、英俊が何よりも嫌いなものだ。
「兄さん?」
ああ、と英俊は心の中で声を洩らす。さきほどからずっと気になっていた、俊哉の言葉の何に自分が衝撃を受けたのか、ようやくわかった。
和彦に対して冷たいはずの父親が、和彦のための人生をずっと準備してきたのだと確信して、妬ましくなった。『佐伯家の者らしくない道』とは、つまりそういうことだ。
英俊にとって規範と目標であり、佐伯家が積み上げてきた輝かしい歴史そのものを具現化したような父親が、和彦のために、自分のコピーとならぬよう、オリジナルの道を考えてやったのだ。
望まれない不義の子と、ずっと心の中で和彦を嘲っていた英俊だが、それは不安の裏返しでもあった。本当は俊哉に望まれていたからこそ、和彦はここにいるのではないかと。
足元が大きく揺れた気がして、英俊はよろめく。驚いたように和彦が目を見開き、咄嗟にといった様子で体を支えようと手を伸ばしてくる。
英俊は手すりではなく、和彦の薄い肩に掴まると、なぜそうしたのかはわからないが、そのまま突き飛ばしていた。
靴を履いた英俊は、短く息を吐き出して玄関のドアを開ける。案の定、門扉へと続く階段を下りている和彦の姿があった。
見ていられないほど松葉杖の使い方が下手で、不安定に体がふらふらと揺れている。
階段をたった三段落ちただけにしてはひどい捻挫だったらしく、昨夜、病院から戻った和彦は、一階の客間で寝起きすることになった。さもありなん。この危なっかしい足取りでは、そうするしかなかったのだ。
痛みで動けなくなった和彦を放置しておくこともできず、結局英俊がタクシーを呼び、病院に連れて行った。その後、夜になって俊哉に事の次第を報告したが、和彦自身は、どうして階段から落ちることになったか、本当のことは何も言わなかったようだ。自分で足を滑らせたとだけ話したらしい。
兄に恩を売ったつもりなのか、面倒を避けただけなのか、英俊には判断がつかない。いつだって、和彦が考えていることはわからない。そういう意味では、俊哉と和彦はよく似ていると言えた。
和彦が門扉前で四苦八苦していると、自宅前に車が停まった。運転席から姿を現したのは、ここ二、三年、佐伯家に出入りをするようになった青年――里見だった。俊哉がやけに目をかけている若い官僚だ。英俊が知る省庁の人間らしくない、溌剌として親しみやすい雰囲気の持ち主で、温和な笑顔を常に浮かべている。
本人にとってはありがた迷惑な話かもしれないが、俊哉が強権を発動して、和彦の世話役のような個人的な仕事を任せている。出世のためだと割り切っているのか、甲斐甲斐しく和彦を連れ出しては面倒を見ている里見の姿は、まるで本当の兄のようだった。
門扉を開けて入ってきた里見がいつものように温和な笑顔を向けてきたので、会釈で返す。もしかすると一年後には、自分の職場の先輩になるかもしれない人物なので、一応英俊は礼儀をもって接していた。
「――どうかしたんですか、里見さん。こんな時間から、うちに来るなんて」
「和彦くんを病院に連れて行くんです。痛みがまったく引かないらしいので、改めて診てもらおうということになって」
誰とそんなことを相談したのかと、英俊が首を傾げようとしたとき、里見がこちらを見て大仰に頭を下げる。ハッとして振り返ると、いつの間にか背後に俊哉が立っていた。
「朝早くからすまないな、里見くん。よろしく頼む」
もう一度頭を下げた里見が、まるで宝物にでも触れるように和彦の腰に手を回し、慎重に支えながら車の後部座席に乗せる。恭しいとすら感じる一連の行動はやりすぎではないかと思ったが、当の里見はどこか楽しげにも見える。
「……一人でタクシーで行かせればいいのに……」
意識しないまま英俊は呟いていた。すると隣に立った俊哉が、英俊にしか聞こえない程度の声で言った。
「英俊、勘違いするな」
ゾクリとするほど冷たい声の響きに、英俊は反射的に背筋を伸ばす。一瞬にして顔が強張っていた。
「〈あれ〉は、優しいわけでも、気が小さいわけでもない。自覚もないまま、お前を哀れんでいるんだ。だから、お前の憂さ晴らしにも逆らわない。――出来た弟だ」
昨夜の出来事について、兄弟が真実を語るまでもなく、薄々とながら俊哉は察しているようだった。
淡々とした俊哉の言葉を受けて胸の奥で込み上げてきたのは、吐き気を覚えるほどの惨めさだ。英俊はてのひらにぐっと爪を立て、言い訳したくなる衝動をどうにか耐える。これ以上、俊哉に失望されたくなかった。
「はい……」
英俊と俊哉の間で交わされるやり取りを知らない和彦が、はにかんだ表情で里見を見上げている。里見は、そんな和彦に対して、蕩けそうに甘い笑みを向けていた。
惨めさを上回る感情が、英俊の中でドロリと湧き上がった。
友人たちの話を聞いていると、ケンカが絶えなかったり、反対に、親友同士のように仲がよかったりと、極端な関係を語られることもあったが、意外に多かったのは、微妙な距離を取りながら、滅多に会話を交わさないというものだった。
自分と弟の関係は、そのどれとも違うと自覚しながら、英俊は上手く友人たちと話を合わせ続けてきた。
まさか、弟が幼い頃から、痛みを――罰を与え続けてきたとは言えない。そもそも弟と思ったことはなく、誰にも愛されない、必要とすらされない災厄だと認識し続けてきた。
英俊のそんな認識が歪んだものであると現実を突きつけてきたのは、皮肉にも、災厄を生み出した本人ともいえる父親だった。
父親である俊哉は、英俊にとって絶対の存在だ。尊敬し、同時に畏怖もしており、物心ついたときから、少しでも俊哉を失望させてはいけないと、強迫観念にも似た義務感を抱き続けてきた。
しかしそのことを、苦しいとも、つらいとも思わなかった。
佐伯家を継ぐために俊哉が背負ってきたものなのだから、自分も背負って当然で、そこに強い父子の繋がりを感じることもできたからだ。
弟である和彦は、何も期待されず、背負わされない。独り立ちするまでの間、佐伯家の庇(ひさし)を貸しているに過ぎないのだから当然だと、英俊は考えていた。
大学から戻ってきて、玄関に入った瞬間、微かな違和感を覚えた。何事かと身構えるほど大げさなものではなく、ただ単に、玄関に父親の革靴があったというだけだ。
帰宅が夜更けとなることが多い人にしては珍しく早いと思いながら、自分も靴を脱いだ英俊は腕時計を見ていた。今日は大学の講義のあと、図書館に寄って勉強をしていたのだ。門限があるわけでもなく、両親も基本的に口うるさく言うほうではないのだが、さすがに、父親より遅くに帰宅したというのは少々バツが悪い。
いつもなら真っ直ぐ二階の自分の部屋に上がる英俊だが、今日はまず一階にある父親の書斎の前まで行き、ドアをノックしてみる。返ってくる声はなく、次にリビングへと立ち寄ると、人影があった。
「――今日は早いんだね」
英俊が声をかけると、ソファに腰掛けて書類らしきものに目を通している俊哉が顔を上げ、表情を変えないまま応じる。
「ああ。荷物を置きに一度戻っただけで、少ししたらまた出る」
俊哉の言う『荷物』とは、テーブルの上に置かれた白い箱のようだ。
「それは……」
「高校の制服だ。仕立て上がったと連絡があったから、受け取ってきた」
「わざわざ父さんが行かなくても、本人に取りに行かせたらいいのに。もう学校から帰ってきてるんだろう」
「〈あれ〉に、この大きな箱を抱えて歩かせるのか?」
穏やかな口調ながら、俊哉の口元に浮かんだのは冷笑だった。確かに、〈あれ〉には無理だろうと、英俊は納得するしかなかった。小柄ではないのだが、とにかく華奢だ。
箱の中身を、あえて開けて確認するまでもなかった。かつては英俊も着ていた制服だ。いわゆる進学校として名の知られた高校で、絶対に合格しなければならないと、受験時には英俊はかなりのプレッシャーをかけられた。
目的のために勉強するのはまったく苦ではなかったが、弟はどうだったのだろうと、少しだけ英俊は想像力を働かせる。
そんな英俊を、俊哉はじっと見つめていた。
「和彦の進学については、お前はずっと何か言いたそうだったな。家を継ぐわけでもないのなら、それなりに偏差値の高い他の高校でもよかったはずなのに、どうして自分と同じ高校を選んだのか、といったところか」
昔から、俊哉に隠し事はできなかった。柔らかな眼差しで息子たちを見守っているようで、実は冷徹に観察しているのだ。誰に対しても、何に対しても、俊哉の眼差しが情で揺らぐことはない。
「……和彦なら、父さんの言うことに逆らわないだろう」
「そのわたしが、勧めたんだ。微笑ましいだろう。弟が、優秀な兄に憧れて同じ高校に進むというストーリーは」
「まさか、大学も――」
「前々から言っている通り、和彦は医者にする。医学部がある大学ではなく、医大に入らせる。それ以外の道はない」
佐伯家は、代々官僚を輩出している家柄だ。その中でもっとも傑物だと言われているのが俊哉で、長男である英俊は当然のように俊哉と同じ道に進むことを求められている。英俊は現在、国家公務員一種試験に向けて猛勉強を続けていた。失敗は許されないのだ。
切れ者すぎる俊哉の後継者だからこそ背負わされる苦労だが、長男だから、恥じることのない出自だからこそ歩める道が用意されているのだと思えば、感じるのはつらさではなく、誇らしさだ。そして、暗い優越感を。
俊哉の口から、和彦を医者にすると聞かされるたびに、安堵感を覚える。和彦はやはり、佐伯家の者として認められていないのだ、と。
意識しないまま英俊は口元を緩めていたが、次の俊哉の言葉を聞き、顔を強張らせる。
「――わたしのコピーは二人もいらない。和彦には、佐伯家の者らしくない道を歩ませる。……いや、そもそもわたし自身が、佐伯家の者らしくない人間か」
おそらくこの瞬間、自分は衝撃を受けたのだと、英俊は認識できた。ただし、俊哉の言葉のどの部分に衝撃を受けたのかは、よくわからなかった。
尊敬する父親のコピーであると認められることは、むしろ喜ばしい。その父親の口から出た自虐めいた言葉は、反応には困るが、昔から英俊はときおり耳にしている。
では一体、自分は何に――。
言葉もなく立ち尽くす英俊に、俊哉は一瞥すら寄越さず言った。
「早く着替えたらどうだ」
頷いた英俊は、もう一度、テーブルの上の白い箱を見遣ってから、二階へと上がった。
着替えを終え、イスに腰掛ける。ぼんやりする間も惜しく、バッグから問題集を取り出し広げはしたものの、すぐには取りかかる気にはなれなかった。自分でも戸惑うほど、さきほど俊哉から言われたことが引っ掛かっていた。
そうしているうちに、外から微かな音がした。立ち上がった英俊はさりげなく窓際に寄り、外の様子をうかがう。門扉の前に黒塗りの車が停まっており、少し間を置いてインターホンが鳴った。
家から出た俊哉が後部座席に乗り込み、車が走り去ったあとも、英俊はその場から動かなかった。
内線が鳴り、夕食の準備ができたことを家政婦が知らせてくる。勉強に集中していた英俊はほっと息を吐くと、立ち上がって軽く身をひねってみる。長時間座っていたわけではないが、体中の関節が音を立てた。
ドアを開けると、二階の奥からも同じくドアを開けた音がした。反射的に英俊が動きを止めていると、廊下の角から弟である和彦が姿を見せた。兄弟の食事は三十分ほど間隔を空けるようにと言ってあるのだが、通い始めて間もない家政婦は、よくこの注意を忘れる。兄弟で一緒の食卓にはつかないということが、よほど理解できない状況なのだろう。
和彦のほうも、英俊に気づいて一瞬動きを止めたあと、廊下を引き返そうとしたが、すかさず英俊は声をかけた。
「お前はダイニングで食べたらいいだろ。ぼくは、自分の部屋で食べるから」
振り返った和彦が小さく頷く。
先に階段を下りる和彦の後ろ姿を、あとに続きながら英俊はじっと見つめていた。カーディガンを羽織っていても薄いとわかる体は、六年前の英俊の体つきとよく似ていた。
もともと英俊は体を動かすのが苦手で、部活も徹底して運動系は避けていたため、筋肉がつくこともなかった。今は、勉強の息抜きと運動不足解消のためにやむなくスポーツジムに通っており、人並みの健康的な体型を保っている。
当然、和彦もあと数年すれば、英俊と同じように、それどころかさらに逞しくなっていても不思議ではない。
英俊が与える痛みを受け入れる、従順な〈弟〉は跡形もなく消えてしまうかもしれないのだ。
見た目だけのことではない。ここまで同じ家で暮らし、英俊の後ろをついてくるように同じ進路を選択し――させられてきた和彦が、あと三年すれば、英俊の知らない道を歩み始める。
この瞬間、ふっと歩調が乱れた。二段先を歩いていた和彦が異変を感じ取ったのか、ゆっくりと振り返った。子供らしくない静かな眼差しは、英俊が何よりも嫌いなものだ。
「兄さん?」
ああ、と英俊は心の中で声を洩らす。さきほどからずっと気になっていた、俊哉の言葉の何に自分が衝撃を受けたのか、ようやくわかった。
和彦に対して冷たいはずの父親が、和彦のための人生をずっと準備してきたのだと確信して、妬ましくなった。『佐伯家の者らしくない道』とは、つまりそういうことだ。
英俊にとって規範と目標であり、佐伯家が積み上げてきた輝かしい歴史そのものを具現化したような父親が、和彦のために、自分のコピーとならぬよう、オリジナルの道を考えてやったのだ。
望まれない不義の子と、ずっと心の中で和彦を嘲っていた英俊だが、それは不安の裏返しでもあった。本当は俊哉に望まれていたからこそ、和彦はここにいるのではないかと。
足元が大きく揺れた気がして、英俊はよろめく。驚いたように和彦が目を見開き、咄嗟にといった様子で体を支えようと手を伸ばしてくる。
英俊は手すりではなく、和彦の薄い肩に掴まると、なぜそうしたのかはわからないが、そのまま突き飛ばしていた。
靴を履いた英俊は、短く息を吐き出して玄関のドアを開ける。案の定、門扉へと続く階段を下りている和彦の姿があった。
見ていられないほど松葉杖の使い方が下手で、不安定に体がふらふらと揺れている。
階段をたった三段落ちただけにしてはひどい捻挫だったらしく、昨夜、病院から戻った和彦は、一階の客間で寝起きすることになった。さもありなん。この危なっかしい足取りでは、そうするしかなかったのだ。
痛みで動けなくなった和彦を放置しておくこともできず、結局英俊がタクシーを呼び、病院に連れて行った。その後、夜になって俊哉に事の次第を報告したが、和彦自身は、どうして階段から落ちることになったか、本当のことは何も言わなかったようだ。自分で足を滑らせたとだけ話したらしい。
兄に恩を売ったつもりなのか、面倒を避けただけなのか、英俊には判断がつかない。いつだって、和彦が考えていることはわからない。そういう意味では、俊哉と和彦はよく似ていると言えた。
和彦が門扉前で四苦八苦していると、自宅前に車が停まった。運転席から姿を現したのは、ここ二、三年、佐伯家に出入りをするようになった青年――里見だった。俊哉がやけに目をかけている若い官僚だ。英俊が知る省庁の人間らしくない、溌剌として親しみやすい雰囲気の持ち主で、温和な笑顔を常に浮かべている。
本人にとってはありがた迷惑な話かもしれないが、俊哉が強権を発動して、和彦の世話役のような個人的な仕事を任せている。出世のためだと割り切っているのか、甲斐甲斐しく和彦を連れ出しては面倒を見ている里見の姿は、まるで本当の兄のようだった。
門扉を開けて入ってきた里見がいつものように温和な笑顔を向けてきたので、会釈で返す。もしかすると一年後には、自分の職場の先輩になるかもしれない人物なので、一応英俊は礼儀をもって接していた。
「――どうかしたんですか、里見さん。こんな時間から、うちに来るなんて」
「和彦くんを病院に連れて行くんです。痛みがまったく引かないらしいので、改めて診てもらおうということになって」
誰とそんなことを相談したのかと、英俊が首を傾げようとしたとき、里見がこちらを見て大仰に頭を下げる。ハッとして振り返ると、いつの間にか背後に俊哉が立っていた。
「朝早くからすまないな、里見くん。よろしく頼む」
もう一度頭を下げた里見が、まるで宝物にでも触れるように和彦の腰に手を回し、慎重に支えながら車の後部座席に乗せる。恭しいとすら感じる一連の行動はやりすぎではないかと思ったが、当の里見はどこか楽しげにも見える。
「……一人でタクシーで行かせればいいのに……」
意識しないまま英俊は呟いていた。すると隣に立った俊哉が、英俊にしか聞こえない程度の声で言った。
「英俊、勘違いするな」
ゾクリとするほど冷たい声の響きに、英俊は反射的に背筋を伸ばす。一瞬にして顔が強張っていた。
「〈あれ〉は、優しいわけでも、気が小さいわけでもない。自覚もないまま、お前を哀れんでいるんだ。だから、お前の憂さ晴らしにも逆らわない。――出来た弟だ」
昨夜の出来事について、兄弟が真実を語るまでもなく、薄々とながら俊哉は察しているようだった。
淡々とした俊哉の言葉を受けて胸の奥で込み上げてきたのは、吐き気を覚えるほどの惨めさだ。英俊はてのひらにぐっと爪を立て、言い訳したくなる衝動をどうにか耐える。これ以上、俊哉に失望されたくなかった。
「はい……」
英俊と俊哉の間で交わされるやり取りを知らない和彦が、はにかんだ表情で里見を見上げている。里見は、そんな和彦に対して、蕩けそうに甘い笑みを向けていた。
惨めさを上回る感情が、英俊の中でドロリと湧き上がった。
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