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番外編 拍手お礼57
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目先の餌に飛びつき、物を考えるということをしない、本能剥き出しの獣のようだった南郷に、やるべきことを示してくれたのは、長嶺守光だった。
当時、十代の小汚いガキでしかなかった南郷に、守光はわざわざ目線を合わせて、一度しか言わないからよく聞けと念を押してきた。言われたことは簡単だ。
しっかり食べて体を鍛えろ。なんでもいいから文字を読め。それだけだ。
しかし、実行するとなるとこれが難しい。小さな組に拾われて、殴られ、蹴られながら小遣い稼ぎ程度の仕事をしていると、食べられるものなどたかが知れている。さらに、学校などほとんど通っていなかったため、小学校で習う程度の漢字の読み書きですら怪しい。
そこで初めて南郷は、落ち着いて物を考えるということをした。
頼れる身内も友人もおらず、組事務所の隅の床で寝起きしている生活だ。マンガ雑誌を広げていただけで、生意気だと殴りつけられるのは目に見えている。だったらまず必要なのは、一人になれる空間だ。もちろん、家賃を払って部屋を借りるなど不可能だった。
その頃、南郷は組員について、よく風俗店に出入りしていた。遊ぶためではなく、みかじめ料の取り立てのためだ。
組員はそこで好きな女を選び、遊んでいくのが常だった。その間、南郷はただ店の隅に座って待っているのだが、女たちはそんな南郷を放っておかなかった。背ばかり高かったが、痩せて、顔はいかにも子供だったため、物珍しかったのだろう。
南郷を特に可愛がってくれたのは、客には三十前半だと紹介していたが、実際は四十歳をいくつか過ぎた女だった。仕事が終わったあとに待ち合わせて、よくメシを食わせてくれ、ついでに服なども買ってくれた。その女のおかげで、南郷はいくらか見栄えがよくなり、満足した女に誘われるまま関係を持った。
気がつけば、立派なヒモとなっていた。女の部屋に転がり込み、とりあえず一人になれる空間も確保できると、南郷はようやく文字に触れることができた。
文字を覚え、文章を読み解く速度が上がるにつれ、あるゆる知識を増やす重要性に気づき、図書館に通っては、目についた本はとりあえず一読することにした。内容が理解できないにしても、読み切ったという満足感は得られる。
組の雑用をこなし、母親のような女とセックスして、図書館に通い、南郷の生活に一定のリズムが生まれた頃、また守光と会うことができた。
獣が人間になれたら、拾ってやる。そう守光は言ってくれた。
このとき南郷は、自分たちから離れた場所に立ち、組員たちと話している自分より少し年上に見える青年の存在に気づいた。
いかにも高そうなスーツを着て、堂々として落ち着いた佇まいをしている。組員たちから恭しく扱われながら、それを受ける様子には風格があり、遠目にも、整った横顔には知性のきらめきのようなものが感じられた。
自分との、打ちのめされるほどの圧倒的な差に、南郷はまず己を恥じた。次に、胸を突き破りそうなほどの絶望感を。最後に、身の程知らずの嫉妬心を抱いた。
守光は、そんな南郷をじっと見つめていた。そして、もう一度言ったのだ。
獣が人間になれたら、拾ってやる、と。
「――長嶺組長に、さきほど二階でお会いしました」
南郷がそう声をかけると、新聞に目を通していた守光がスッと視線をこちらに向ける。物言いたげな様子に気づいたのだろう。正面のイスを示されたので、一礼してから静かに腰掛ける。
総和会本部四階の一角は、守光の居住スペースとなっている。あくまで私的なスペースなので、総和会の幹部たちといえど立ち入りは許されていない。
基本的に、守光と血の繋がりを持つ者と、世話を任されている者、そして南郷が出入りを許されているぐらいだ。
新聞を置いた守光が老眼鏡を外し、口元に笑みを浮かべた。
「用が終わったら上がってこいと言っておいたのに、あいつ……、帰ったな」
「長嶺組長は、ここが苦手なんでしょう」
「ここだけではない。賢吾は、総和会のすべてが苦手だ。だから今は、わしのことも苦手だろうな」
そう言う守光の口調には、絶妙に皮肉と諧謔(かいぎゃく)の響きが交じっている。まるで、四十半ばの息子の〈反抗期〉を楽しんでいるようだ。
長嶺父子の関係はよくわからないと、南郷は常々思っている。守光の側近たちがひやひやするほどの険悪さを見せたかと思うと、次の瞬間には何事もなかったように世間話を始める。最初の頃は南郷は、表情を押し隠しながらも、内心では困惑せずにはいられなかった。
今は、こういう関係もあるのだと理解している。
「しかし、それでは困る。総和会と、総和会会長の在り方について、学んでいってもらわんと……」
「言ったところで、聞いてはもらえないでしょう」
「今は、な」
何げなく向けられた守光の冷徹な眼差しは、父親として語っているときのものではなく、総和会会長としてのものだ。何事にも動じず、鷹揚として構えている守光だが、息子である賢吾の、総和会に対する忌避ぶりには多少なりと苛立ちを覚えているようだった。
話題を変えるというわけではなかったが、賢吾繋がりでふと思い出したことがあり、確認の意味も込めて南郷は切り出した。
「千尋さんの〈遊び相手〉は、その後、どうなったのですか?」
「あれは、遊び、というより、千尋が遊ばれていた、というほうが正確だな。賢吾がさっそく相手の身元を調べさせて、わしも報告は受けた。たった一人の孫のことだからな。心配はいらないから、余計な口は挟むなと念を押されたよ。――どうも、組のほうでおもしろいことになっているようだ」
「それでは、オヤジさんが改めて調べさせている理由を、教えてもらってもいいですか?」
「一言で言うなら、陳腐な表現だが……、縁を感じた。切ったつもりで切れていなかった、懐かしい、だが新しい縁だ」
南郷がわずかに首を傾げると、守光は続けてこう言った。
「報告書が来たら、目を通しておけ。お前とも縁ができるかもしれない相手だ」
「わたしと、ですか?」
「この先も、わしの側にいるつもりなら」
「……承知しました」
ここで一度会話が途切れたが、守光がふっと眼差しを和らげる。
「相変わらず、本は読んでいるか、南郷」
「最近は忙しくて、なかなか。部屋に戻っても、まっすぐベッドに向かうだけです」
別に、本が好きというわけではない。若い頃、自分に叩き込んだ習性がいまだに抜け切らないのだ。活字中毒で苦しむというより、日々の生活に組み込んだルーティンを抜いてしまったような、収まりの悪さを感じるだけだ。
「わたしは、獣から人間になりたかった。オヤジさんが目をかけてくれたおかげで、それが叶ったんです。何も持たずに山奥から出てきた無知なガキが、今じゃ、総和会で隊を率いている。自分で言うのもなんですが、大したもんです」
南郷の言葉に、守光が低く笑い声を洩らした。
「わしは、お前が初めて、息子――賢吾を見たときの目を、今でもはっきり覚えている。憎悪と憧憬を含んで、ギラギラしていた」
あのときの自分はそんな目をしていたのかと、南郷は思い返す。守光に目をかけられたと確信した喜びと、長嶺賢吾という存在を知ってしまった痛みを同時に味わった日だ。
初めて目にした守光の息子は、とにかく強烈で、鮮烈だった。あの一瞬で、自分の人生が決まったといっても過言ではない。
南郷は、人間になりたくなったのだ。
「お前はまだ、満足はしていないだろう。人間から、何になる? なりたいものがあるだろう」
「なりたいもの……」
胸の奥に大事に隠してあるものを、長嶺守光という化け物はとっくに見抜いていた。見抜いたうえで、成長していく様をずっと眺めていたのかもしれない。
「〈俺〉は――」
南郷は、ずっと胸に秘めていた大それた望みを、臆することなく口にする。黙って頷いた守光は、満足げな笑みを浮かべた。
当時、十代の小汚いガキでしかなかった南郷に、守光はわざわざ目線を合わせて、一度しか言わないからよく聞けと念を押してきた。言われたことは簡単だ。
しっかり食べて体を鍛えろ。なんでもいいから文字を読め。それだけだ。
しかし、実行するとなるとこれが難しい。小さな組に拾われて、殴られ、蹴られながら小遣い稼ぎ程度の仕事をしていると、食べられるものなどたかが知れている。さらに、学校などほとんど通っていなかったため、小学校で習う程度の漢字の読み書きですら怪しい。
そこで初めて南郷は、落ち着いて物を考えるということをした。
頼れる身内も友人もおらず、組事務所の隅の床で寝起きしている生活だ。マンガ雑誌を広げていただけで、生意気だと殴りつけられるのは目に見えている。だったらまず必要なのは、一人になれる空間だ。もちろん、家賃を払って部屋を借りるなど不可能だった。
その頃、南郷は組員について、よく風俗店に出入りしていた。遊ぶためではなく、みかじめ料の取り立てのためだ。
組員はそこで好きな女を選び、遊んでいくのが常だった。その間、南郷はただ店の隅に座って待っているのだが、女たちはそんな南郷を放っておかなかった。背ばかり高かったが、痩せて、顔はいかにも子供だったため、物珍しかったのだろう。
南郷を特に可愛がってくれたのは、客には三十前半だと紹介していたが、実際は四十歳をいくつか過ぎた女だった。仕事が終わったあとに待ち合わせて、よくメシを食わせてくれ、ついでに服なども買ってくれた。その女のおかげで、南郷はいくらか見栄えがよくなり、満足した女に誘われるまま関係を持った。
気がつけば、立派なヒモとなっていた。女の部屋に転がり込み、とりあえず一人になれる空間も確保できると、南郷はようやく文字に触れることができた。
文字を覚え、文章を読み解く速度が上がるにつれ、あるゆる知識を増やす重要性に気づき、図書館に通っては、目についた本はとりあえず一読することにした。内容が理解できないにしても、読み切ったという満足感は得られる。
組の雑用をこなし、母親のような女とセックスして、図書館に通い、南郷の生活に一定のリズムが生まれた頃、また守光と会うことができた。
獣が人間になれたら、拾ってやる。そう守光は言ってくれた。
このとき南郷は、自分たちから離れた場所に立ち、組員たちと話している自分より少し年上に見える青年の存在に気づいた。
いかにも高そうなスーツを着て、堂々として落ち着いた佇まいをしている。組員たちから恭しく扱われながら、それを受ける様子には風格があり、遠目にも、整った横顔には知性のきらめきのようなものが感じられた。
自分との、打ちのめされるほどの圧倒的な差に、南郷はまず己を恥じた。次に、胸を突き破りそうなほどの絶望感を。最後に、身の程知らずの嫉妬心を抱いた。
守光は、そんな南郷をじっと見つめていた。そして、もう一度言ったのだ。
獣が人間になれたら、拾ってやる、と。
「――長嶺組長に、さきほど二階でお会いしました」
南郷がそう声をかけると、新聞に目を通していた守光がスッと視線をこちらに向ける。物言いたげな様子に気づいたのだろう。正面のイスを示されたので、一礼してから静かに腰掛ける。
総和会本部四階の一角は、守光の居住スペースとなっている。あくまで私的なスペースなので、総和会の幹部たちといえど立ち入りは許されていない。
基本的に、守光と血の繋がりを持つ者と、世話を任されている者、そして南郷が出入りを許されているぐらいだ。
新聞を置いた守光が老眼鏡を外し、口元に笑みを浮かべた。
「用が終わったら上がってこいと言っておいたのに、あいつ……、帰ったな」
「長嶺組長は、ここが苦手なんでしょう」
「ここだけではない。賢吾は、総和会のすべてが苦手だ。だから今は、わしのことも苦手だろうな」
そう言う守光の口調には、絶妙に皮肉と諧謔(かいぎゃく)の響きが交じっている。まるで、四十半ばの息子の〈反抗期〉を楽しんでいるようだ。
長嶺父子の関係はよくわからないと、南郷は常々思っている。守光の側近たちがひやひやするほどの険悪さを見せたかと思うと、次の瞬間には何事もなかったように世間話を始める。最初の頃は南郷は、表情を押し隠しながらも、内心では困惑せずにはいられなかった。
今は、こういう関係もあるのだと理解している。
「しかし、それでは困る。総和会と、総和会会長の在り方について、学んでいってもらわんと……」
「言ったところで、聞いてはもらえないでしょう」
「今は、な」
何げなく向けられた守光の冷徹な眼差しは、父親として語っているときのものではなく、総和会会長としてのものだ。何事にも動じず、鷹揚として構えている守光だが、息子である賢吾の、総和会に対する忌避ぶりには多少なりと苛立ちを覚えているようだった。
話題を変えるというわけではなかったが、賢吾繋がりでふと思い出したことがあり、確認の意味も込めて南郷は切り出した。
「千尋さんの〈遊び相手〉は、その後、どうなったのですか?」
「あれは、遊び、というより、千尋が遊ばれていた、というほうが正確だな。賢吾がさっそく相手の身元を調べさせて、わしも報告は受けた。たった一人の孫のことだからな。心配はいらないから、余計な口は挟むなと念を押されたよ。――どうも、組のほうでおもしろいことになっているようだ」
「それでは、オヤジさんが改めて調べさせている理由を、教えてもらってもいいですか?」
「一言で言うなら、陳腐な表現だが……、縁を感じた。切ったつもりで切れていなかった、懐かしい、だが新しい縁だ」
南郷がわずかに首を傾げると、守光は続けてこう言った。
「報告書が来たら、目を通しておけ。お前とも縁ができるかもしれない相手だ」
「わたしと、ですか?」
「この先も、わしの側にいるつもりなら」
「……承知しました」
ここで一度会話が途切れたが、守光がふっと眼差しを和らげる。
「相変わらず、本は読んでいるか、南郷」
「最近は忙しくて、なかなか。部屋に戻っても、まっすぐベッドに向かうだけです」
別に、本が好きというわけではない。若い頃、自分に叩き込んだ習性がいまだに抜け切らないのだ。活字中毒で苦しむというより、日々の生活に組み込んだルーティンを抜いてしまったような、収まりの悪さを感じるだけだ。
「わたしは、獣から人間になりたかった。オヤジさんが目をかけてくれたおかげで、それが叶ったんです。何も持たずに山奥から出てきた無知なガキが、今じゃ、総和会で隊を率いている。自分で言うのもなんですが、大したもんです」
南郷の言葉に、守光が低く笑い声を洩らした。
「わしは、お前が初めて、息子――賢吾を見たときの目を、今でもはっきり覚えている。憎悪と憧憬を含んで、ギラギラしていた」
あのときの自分はそんな目をしていたのかと、南郷は思い返す。守光に目をかけられたと確信した喜びと、長嶺賢吾という存在を知ってしまった痛みを同時に味わった日だ。
初めて目にした守光の息子は、とにかく強烈で、鮮烈だった。あの一瞬で、自分の人生が決まったといっても過言ではない。
南郷は、人間になりたくなったのだ。
「お前はまだ、満足はしていないだろう。人間から、何になる? なりたいものがあるだろう」
「なりたいもの……」
胸の奥に大事に隠してあるものを、長嶺守光という化け物はとっくに見抜いていた。見抜いたうえで、成長していく様をずっと眺めていたのかもしれない。
「〈俺〉は――」
南郷は、ずっと胸に秘めていた大それた望みを、臆することなく口にする。黙って頷いた守光は、満足げな笑みを浮かべた。
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