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番外編 拍手お礼39
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一度は下がった熱がぶり返したのか、見上げる先にある天井がゆらゆらと揺れているように見える。ただ、気分は悪くない。少しばかり腹は立っているが――。
ふうっ、と息を吐き出すと、隣に寝転がっている千尋が飛び起き、和彦の顔を覗き込んでくる。
「先生っ、気分悪い?」
大げさなほど心配そうな表情を浮かべている顔を、和彦はやや呆れながら見つめる。最初は演技なのではないかと疑ってもいたのだが、どうやら千尋は、本気で心配しているようだ。
和彦が布団から出られなくなったことに、自分も責任があると実感はしているらしい。
「……大したことないんだから、いい加減お前、自分の部屋に戻れよ。気になって、ため息もつけないだろ」
「なんでため息? 俺に呆れてる?」
「いや、ため息っていうか、また熱っぽいから、少し息苦しい――」
千尋が慌てた様子で体温計を差し出してきたので、何か言うのも疲れた和彦は、おとなしく受け取った体温計を脇に挟む。
そんな和彦を見下ろしながら、千尋が捨てられた子犬のような顔で言った。
「俺とオヤジが、無理させたからだよね。ちょっと……やりすぎたかも」
あれだけのことをしておいて、『ちょっと』というのは控えめな表現すぎないかと思ったが、責める気にはならない。
微熱がある状態で賢吾と千尋に求められて、受け入れ、悦んでいたのだ。拒めば、さすがに父子も素直に引き下がっただろうが、そうしなかったのは和彦自身が選んだことだ。
「……誕生日からバレンタインにかけて、怒涛の日々だったな」
ぼそりと和彦が洩らすと、よく聞こえなかったのか、千尋が顔を寄せてくる。目の前でさらさらと揺れる茶色の髪に、思わず指を絡める。千尋が嬉しそうに笑った。
「なんて言った、先生?」
「――……お前ら父子の相手は大変だと言ったんだ」
「モテる男は大変だね、先生」
ヌケヌケと言い放つ千尋の前髪を、軽く引っ張る。
「うるさい……」
「先生にとっては災難だけど、俺としては、先生が本宅に居てくれて、嬉しい。オヤジも機嫌よさそうだったし」
「あれだけしておいて、機嫌が悪いなんて言われたら、ぼくは怒るぞ」
ここまで話して、脇から体温計を取り出す。微熱というには少し高めの数字が示されているが、さきほどの〈運動〉の余韻がまだ残っているのだと思うことにする。
和彦が体を起こすと、甲斐甲斐しく千尋が支えてくれる。
「何、先生?」
「喉乾いた」
千尋はすぐに水を注いだグラスを手渡してきた。一気に水を飲み干すと、すかさずグラスが取り上げられる。
「次は何をしましょう」
まじめな口調で千尋に問われ、和彦は苦笑を洩らす。
「もう付き添いはいいぞ」
「……先生、俺がいないと、ふらふらと部屋を出ていくつもりだろ。すでにもう、寝ているのは飽きたなー、っていう顔している」
「勘だけはいいな、お前」
千尋が何か反論しかけたが、ここで内線が鳴る。いそいそと受話器を取り上げた千尋が、二言、三言話したあと、こちらを見た。
「先生、三時のオヤツの時間は過ぎたけど、甘いものを食べないかって、笠野が言ってる」
「甘いもの……」
「初めてチョコレートケーキを作ったから、味見してほしいみたい」
「――……食べる」
にんまり笑った千尋が、和彦の返事を伝えて受話器を置く。
「ここに運んできてもらう?」
「いや、ダイニングに行く」
千尋が広げた羽織を着込み、一緒にダイニングに向かう。廊下にも甘い匂いが漂っており、ここがヤクザの組長が住む本宅だというそのギャップに、変な笑いが込み上げてくる。熱のせいか、意識が少し舞い上がっているようだ。
テーブルにつくと、キッチンから出てきた笠野が心配そうに和彦の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですか、先生。無理されなくても、客間に運ぶのに……」
「少し熱があるぐらいで、平気だ。それに、ここで食べたかったんだ」
「そうですか。でしたら、すぐに準備しますね」
キッチンに戻った笠野に、和彦は話しかける。
「一昨日バレンタインだったことと、チョコレートケーキを初めて作ったことは、関係あるのか?」
「大したことじゃありませんよ。ただ、買い物に行ったら、バレンタインに合わせて、製菓用のチョコレートの塊を売っていたので、買っておいたんです。先生にチョコレートをもらいましたからね。何かお返しをしたいと思っていましたし」
「……ぼくは別に、バレンタインを意識してチョコレートを買ったわけじゃないからな。ただ、たくさん商品が出ていたから、世間の盛り上がりに合わせて買ってみただけで――」
我ながら妙な言い訳だと思っていると、隣で千尋がくっくと声を洩らして笑っている。遠慮なく、肩を殴りつけてやった。
チョコレートの甘い匂いに、紅茶の芳香も加わる。
「いい匂いだ……」
軽く鼻を鳴らしてから、吐息交じりに呟く。
「――……考えてみれば、これまではずいぶん平和なバレンタインを過ごしていたんだな。去年の今頃は、まさか自分が、ヤクザの組長の家でチョコレートケーキを振る舞ってもらうなんて、想像もしなかったな」
「一年前か……。俺が先生にチョコを貢いだんだよね。それでやっと、〈相思相愛〉になって……」
「ぼくとお前の間で、記憶の齟齬が生じてるぞ」
「……照れなくていいのに」
「照れてないっ」
千尋とそんなやり取りをしているうちに、皿に切り分けられたチョコレートケーキと紅茶が運ばれてくる。初めて作ったという話だが、さすがに笠野だけあって、見た目からして美味しそうだ。
フォークを手にした和彦は顔を綻ばせる。
「ちょっと遅れた誕生日ケーキってところだな」
そう洩らすと、さっそくチョコレートケーキを一口食べた。
ふうっ、と息を吐き出すと、隣に寝転がっている千尋が飛び起き、和彦の顔を覗き込んでくる。
「先生っ、気分悪い?」
大げさなほど心配そうな表情を浮かべている顔を、和彦はやや呆れながら見つめる。最初は演技なのではないかと疑ってもいたのだが、どうやら千尋は、本気で心配しているようだ。
和彦が布団から出られなくなったことに、自分も責任があると実感はしているらしい。
「……大したことないんだから、いい加減お前、自分の部屋に戻れよ。気になって、ため息もつけないだろ」
「なんでため息? 俺に呆れてる?」
「いや、ため息っていうか、また熱っぽいから、少し息苦しい――」
千尋が慌てた様子で体温計を差し出してきたので、何か言うのも疲れた和彦は、おとなしく受け取った体温計を脇に挟む。
そんな和彦を見下ろしながら、千尋が捨てられた子犬のような顔で言った。
「俺とオヤジが、無理させたからだよね。ちょっと……やりすぎたかも」
あれだけのことをしておいて、『ちょっと』というのは控えめな表現すぎないかと思ったが、責める気にはならない。
微熱がある状態で賢吾と千尋に求められて、受け入れ、悦んでいたのだ。拒めば、さすがに父子も素直に引き下がっただろうが、そうしなかったのは和彦自身が選んだことだ。
「……誕生日からバレンタインにかけて、怒涛の日々だったな」
ぼそりと和彦が洩らすと、よく聞こえなかったのか、千尋が顔を寄せてくる。目の前でさらさらと揺れる茶色の髪に、思わず指を絡める。千尋が嬉しそうに笑った。
「なんて言った、先生?」
「――……お前ら父子の相手は大変だと言ったんだ」
「モテる男は大変だね、先生」
ヌケヌケと言い放つ千尋の前髪を、軽く引っ張る。
「うるさい……」
「先生にとっては災難だけど、俺としては、先生が本宅に居てくれて、嬉しい。オヤジも機嫌よさそうだったし」
「あれだけしておいて、機嫌が悪いなんて言われたら、ぼくは怒るぞ」
ここまで話して、脇から体温計を取り出す。微熱というには少し高めの数字が示されているが、さきほどの〈運動〉の余韻がまだ残っているのだと思うことにする。
和彦が体を起こすと、甲斐甲斐しく千尋が支えてくれる。
「何、先生?」
「喉乾いた」
千尋はすぐに水を注いだグラスを手渡してきた。一気に水を飲み干すと、すかさずグラスが取り上げられる。
「次は何をしましょう」
まじめな口調で千尋に問われ、和彦は苦笑を洩らす。
「もう付き添いはいいぞ」
「……先生、俺がいないと、ふらふらと部屋を出ていくつもりだろ。すでにもう、寝ているのは飽きたなー、っていう顔している」
「勘だけはいいな、お前」
千尋が何か反論しかけたが、ここで内線が鳴る。いそいそと受話器を取り上げた千尋が、二言、三言話したあと、こちらを見た。
「先生、三時のオヤツの時間は過ぎたけど、甘いものを食べないかって、笠野が言ってる」
「甘いもの……」
「初めてチョコレートケーキを作ったから、味見してほしいみたい」
「――……食べる」
にんまり笑った千尋が、和彦の返事を伝えて受話器を置く。
「ここに運んできてもらう?」
「いや、ダイニングに行く」
千尋が広げた羽織を着込み、一緒にダイニングに向かう。廊下にも甘い匂いが漂っており、ここがヤクザの組長が住む本宅だというそのギャップに、変な笑いが込み上げてくる。熱のせいか、意識が少し舞い上がっているようだ。
テーブルにつくと、キッチンから出てきた笠野が心配そうに和彦の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですか、先生。無理されなくても、客間に運ぶのに……」
「少し熱があるぐらいで、平気だ。それに、ここで食べたかったんだ」
「そうですか。でしたら、すぐに準備しますね」
キッチンに戻った笠野に、和彦は話しかける。
「一昨日バレンタインだったことと、チョコレートケーキを初めて作ったことは、関係あるのか?」
「大したことじゃありませんよ。ただ、買い物に行ったら、バレンタインに合わせて、製菓用のチョコレートの塊を売っていたので、買っておいたんです。先生にチョコレートをもらいましたからね。何かお返しをしたいと思っていましたし」
「……ぼくは別に、バレンタインを意識してチョコレートを買ったわけじゃないからな。ただ、たくさん商品が出ていたから、世間の盛り上がりに合わせて買ってみただけで――」
我ながら妙な言い訳だと思っていると、隣で千尋がくっくと声を洩らして笑っている。遠慮なく、肩を殴りつけてやった。
チョコレートの甘い匂いに、紅茶の芳香も加わる。
「いい匂いだ……」
軽く鼻を鳴らしてから、吐息交じりに呟く。
「――……考えてみれば、これまではずいぶん平和なバレンタインを過ごしていたんだな。去年の今頃は、まさか自分が、ヤクザの組長の家でチョコレートケーキを振る舞ってもらうなんて、想像もしなかったな」
「一年前か……。俺が先生にチョコを貢いだんだよね。それでやっと、〈相思相愛〉になって……」
「ぼくとお前の間で、記憶の齟齬が生じてるぞ」
「……照れなくていいのに」
「照れてないっ」
千尋とそんなやり取りをしているうちに、皿に切り分けられたチョコレートケーキと紅茶が運ばれてくる。初めて作ったという話だが、さすがに笠野だけあって、見た目からして美味しそうだ。
フォークを手にした和彦は顔を綻ばせる。
「ちょっと遅れた誕生日ケーキってところだな」
そう洩らすと、さっそくチョコレートケーキを一口食べた。
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