上 下
30 / 84

番外編 拍手お礼26

しおりを挟む
 千尋には、母親の記憶があまりない。千尋が子供の頃に、両親が離婚し、以来、母親とは会っていないせいだ。
 母親にとって義父にあたる守光と不仲であったことや、夫である賢吾が家庭を顧みなかったことなどが、離婚の原因だったようだ。
 実際千尋は、話の内容まではわからなかったが、母親が守光に食ってかかる場面を目の当たりにしたことがあるし、賢吾の母親に対する態度が温かみに欠けていると、子供ながらに感じていた。
 ただ、だからといって長嶺の男たちを責める気はなく、それぞれに何かしらの言い分や理由はあったのだろうと、成長するに伴って、大人の事情を慮るようにはなったのだ。
 唐突に母親のことを思い出したのは、中庭に面した縁側に立つ人の姿を見つけたからだ。
 一瞬ドキリとした千尋は、次の瞬間には、奇妙なことだが安堵の吐息を洩らしていた。中庭を見つめる〈その人〉の両目に宿るのは険しさではなく――。
「先生」
 千尋が呼びかけると、柱にもたれかかっていた和彦が姿勢を戻し、ゆっくりと視線を投げかけてきた。その和彦の手には団扇が握られている。
「なんだ。もう帰ってきたのか。確か、組長と一緒に、夜まで帰れないんじゃ……」
 開口一番の和彦の言葉に、千尋は苦笑する。
「俺が早く帰ってきて、迷惑だった?」
「そこまでは言わないが、お前がいないと静かでいいなと、正直少し思っていた」
「意地を張らなくていいのに」
 こっそりと千尋が洩らすと、和彦に横目で睨まれた。
 千尋は和彦の傍らに立ち、同じように中庭に視線を向ける。千尋の母親が、ひどく嫌っていた空間だ。守光の意向を受け、金と手間を注ぎ込まれた立派な中庭だが、当初はあくまで観賞のためだけに手をかけていたものが、幼い千尋のための贅沢な遊び場と化していったのだ。
 その頃には、母親は中庭に下り立つことを拒むようになり、ついには眺めることすらしなくなった。仮に視線を向けるとしても、憎悪の対象を見つけたかのように、険しい目をしていた。
 中庭を維持するための金も人員も、すべて組から出ている。その中庭で無邪気に遊ぶ千尋を、母親はどう感じていたのか。
 夏の強い陽射しを浴びる、生命力に溢れる青々とした庭木を眺め、取り留めなく千尋は想像する。普段は中庭の存在など、そこにあって当然のもので、特に意識することはないのだが、今日に限って懐古的な感覚に囚われるのは、穏やかな眼差しで庭を眺める和彦の姿に、子供時代の記憶を刺激されたからだ。
 ふいに、柔らかな風を頬に受ける。目を丸くして隣を見ると、和彦が団扇の風を送ってくれていた。
「どうかした、先生?」
「いや……、お前が険しい顔をしているから、暑いのかと思ったんだ」
 数秒の間を置いて、千尋は破顔する。
「優しいなー」
「調子に乗るな」
 素っ気なく言って和彦が、団扇を押し付けてくる。それを受け取った千尋は、今度は和彦に向けて風を送り始める。
「団扇を引っ張り出してくるぐらいなら、部屋に入ってクーラーつければいいのに」
「戸を閉め切ったら、中庭がよく見えなくなる」
 自分でも不思議なほど、和彦の言葉が嬉しかった。千尋はさらに和彦との間を詰めようとしたが、すかさず露骨なほど逃げられてしまう。
「暑いのに、くっついてくるなっ。それでなくてもお前は体温が高いから、夏はあまり近寄られたくないんだ」
「……けっこう傷つく……」
「三歩あるいてみろ。心の痛みをすぐに忘れられるぞ」
 どういう意味かと千尋が首を傾げると、和彦は気の毒そうにこちらを一瞥したあと、大きくため息をついた。
「お前はいいな。悩みがなさそうで」
「そう見えるだけで、意外に悩み多き年頃だよ、俺。なんといっても、普通の家庭育ちとは違うからね。こんなに純真にまっすぐ育って、我ながら奇跡だと思う」
「今むしょうに、お前の頬を抓り上げたくなった……」
 ここで会話が一度途切れ、二人は並んで中庭を眺める。もっとも千尋は、肩先で感じる和彦の気配を探っていた。
 賢吾が、古くから続く組の次期組長だとわかっていながら、結婚し、千尋を産み、それでいて長嶺の男と徹底的に相性が悪かった母親も不思議だが、この人も不思議だと思う。ひどいやり方で堅気の生活を奪われ、囲われ者としての生活を押し付けられていながら、基本的に長嶺の男に甘い。
 普通の感覚であれば、すべての出来事の元凶ともいえる千尋の隣に立ち、長嶺の本宅の象徴ともいえる中庭を、穏やかな眼差しで眺める心境にはならないはずだ。
 いつの間にか千尋は、中庭ではなく、和彦の整った横顔を眺めていた。すると和彦が再び口を開く。
「――それで、早く帰ってきた理由をまだ聞いていない」
「思い出したんだよ」
「何が」
「今日、近所の神社で夏祭りがあること。俺も昔、子供神輿担いだなー」
「……思い出話をしたくて、わざわざ帰ってきたのか」
 違う、と千尋を首を横に振ってから、ぐいっと身を乗り出す。一方の和彦は、何かを察したように、露骨に身を引いた。
「なんだ……?」
「先生、夕方から一緒に行こうよ」
「嫌だ。子供じゃあるまいし」
「いやいや。大人もたくさん来てるって。それに、カップルも――」
 最後は明らかに余計な一言だったらしく、すかさず和彦に頬を抓り上げられた。それでも千尋はめげず、和彦にまとわりつく。夏祭りのことを移動の車中で思い出したとき、自分の記憶力に歓声を上げたぐらいなのだ。
「行こうよ。散歩がてらさ。先生まだ、この近所のこと全然知らないだろ? 歩きながら、俺がいろいろ教えてあげるから」
「別に、ここに馴染む気はない」
 素っ気ない和彦に対して、千尋は早々に奥の手を使う。とはいっても、単にすがりつくような眼差しを向けるだけなのだが。なぜか和彦は、千尋のこの眼差しに弱いらしく、忌々しげに文句を言いながらも、結局は折れてしまう。
 もちろん今回も。
「さっさと行って、さっさと帰るからなっ」
 怒っているような、照れているような口調で和彦が怒鳴り、千尋はにんまり笑って頷いた。


「先生ってさ――」
 千尋の言葉を遮るように、ここまで地味な火花を散らせていた手持花火が、突然鮮やかな閃光を放ち始める。さすがに驚いて短く声を洩らした千尋は、そのまま花火の先に見入っていた。
 和彦と出かけた神社の夏祭りには、長嶺組の下部組織にあたる団体が、いくつかの露天を出している。最近は何かと自治体が厳しいため、堂々と長嶺組の身内と名乗れず、そのため長嶺組の組員も様子を見に行くことを避けている。
 そんな中で、一般の客として千尋が顔を出したところ、昔からの顔馴染みということもあり非常に喜ばれた。邪魔にならない程度に会話を交わし、すぐに離れるつもりだったのだが、露天を仕切る〈社長〉から、手ぶらで帰すわけにはいかないと、あれこれと土産を渡されたのだ。
 そして現在、千尋と和彦は、土産の一つをこうして消費しているわけだ。
「――……こういう花火は、初めてやった」
 和彦がぽつりと洩らした言葉が聞こえ、千尋はパッと顔を上げる。玄関先の外灯と、一瞬一瞬で色が変わる花火の明かりを受ける和彦の横顔は、柔らかな微笑を湛えていた。
「初めてって、本当? 子供の頃とかさ。俺、よくやってたよ。オヤジやじいちゃんは忙しかったから、うちの組員につき合ってもらってさ。今日みたいに、露天のおっちゃんたちが、くじ引きの景品が余ったからって、よくくれたんだ」
「花火はともかく、お前はけっこう貴重な経験をしてるな……」
「なんといっても、ヤクザの組長の息子だからね」
「でも、子供らしい生活を送ってこられただろ。ぼくのところは――なんというか、堅い家だからな。子供が子供らしく振る舞うことにいい顔をしなかった」
 終わった花火をバケツの水につける和彦の表情が、ひどく暗いものに見えた。しかし、次に火をつけた花火が青い火花を放ち始めたときには、和彦は楽しげに顔を綻ばせており、もしかすると千尋の見間違いだったのかもしれない。
「で、お前はさっき、何を言いかけたんだ」
 千尋は、花火が入っている袋の中を覗きながら答えた。
「先生って、優しいよなー、と言おうとしたんだよ。暑い中、夏祭りにつき合ってくれて、帰ってきたら、こうして花火も一緒にやってくれる。――うん、優しい」
「ぼくは優しくない。ただ、お前が人懐こ過ぎるだけだ」
 声を押し殺して笑った千尋が、次の花火に火をつけようとしたところで、突然玄関の戸が開き、数人の組員が門扉のほうへと駆けていく。千尋には、一体何事が起こったのかすぐにわかった。
 案の定、組員たちが外に出て数分ほどしてから、門扉を潜った賢吾が姿を現す。事前に連絡を受けて知っていたのだろう、玄関横に座り込んだ千尋と和彦の姿を見て、驚くどころか、にんまり笑いかけてきた。
「楽しそうだな、二人とも」
 歩み寄ってきた賢吾の言葉に、和彦は傍迷惑そうに顔をしかめる。
「あんたの息子にせがまれて、仕方なくつき合ってやっているんだ」
「ほお、仕方なくか。先生は相変わらず、俺の息子には甘いな」
「……まったくだ。自分でもそう思う」
 千尋は賢吾と顔を見合わせ、よく似た笑みを交し合う。
 賢吾は、腕にかけていたジャケットを組員に手渡し、二人に倣うように屈み込んだ。
「俺も仲間に入れろ」
 冗談ではないと言いたげに、和彦が慌てて立ち上がる。
「だったら、父子仲良く二人でやればいいだろ」
「えー、オヤジと二人なんて嫌だよ」
 和彦を逃がすまいと、千尋は素早く背後に回り込み、肩を押さえる。軽く抵抗はしたものの、結局和彦は、渋々座り直す。自ら認めるだけあって、やはり千尋には甘い。
 必死に笑いを噛み殺し、千尋は和彦の隣に屈む。
「まあ、先生、これも夏の思い出だと思って、我慢してよ」
「美しい家族団らんの光景だな」
 悪乗りした賢吾の発言に、苦々しい顔で和彦が反応した。
「――……本当に、仲がいい父子だな」

しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

真・身体検査

RIKUTO
BL
とある男子高校生の身体検査。 特別に選出されたS君は保健室でどんな検査を受けるのだろうか?

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

モルモットの生活

麒麟
BL
ある施設でモルモットとして飼われている僕。 日々あらゆる実験が行われている僕の生活の話です。 痛い実験から気持ち良くなる実験、いろんな実験をしています。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

捜査員は柱の中央で絶頂を強制される

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

お兄ちゃんはお医者さん!?

すず。
恋愛
持病持ちの高校1年生の女の子。 如月 陽菜(きさらぎ ひな) 病院が苦手。 如月 陽菜の主治医。25歳。 高橋 翔平(たかはし しょうへい) 内科医の医師。 ※このお話に出てくるものは 現実とは何の関係もございません。 ※治療法、病名など ほぼ知識なしで書かせて頂きました。 お楽しみください♪♪

処理中です...