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第48話
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しおりを挟む驚かせるつもりで、あえてインターホンは鳴らさずに合鍵を使う。そっとドアを開けると、スウェットパンツにTシャツ姿の男が、床に這いつくばっていた。ぎょっとした和彦はおそるおそる声をかける。
「……三田村?」
Tシャツ越しにわかる引き締まった体をビクリと震わせ、三田村が顔を上げた。驚いたように目を見開いていたが、すぐに苦笑いを浮かべる。
「護衛失格だな。先生の気配に気づかなかった」
「それは珍しいな。で、何を一心不乱にやってたんだ?」
立ち上がった三田村の片手には、雑巾が握られていた。忘れず施錠をして靴を脱いだ和彦は、首を傾げる。
「何かこぼしたのか?」
「あー、いや……。手持ち無沙汰だったから、床を拭いていた。先生がいない間もときどき来て、空気を入れ替えたり、掃除はしていたんだが、気になったらじっとしていられなくなった」
「若頭補佐はマメだなー」
「そんなことはない」
照れたのか三田村は、雑巾とバケツを持って一旦洗面所に引っ込んでしまった。
買ってきたものをテーブルに置き、改めて室内を見回す。まず思ったのは、三田村がこの部屋を借りたままにしておいてくれたことへの、感謝だった。寝るところにはこだわらないと言っていた男なので、和彦との逢瀬でもない限り、本来この部屋は必要なかったはずだ。
「いつ先生が戻ってくるかわからないから、一旦解約したらどうだと、組長に言われたことがあるんだ。荷物は、長嶺組が持つ物件に移していいからと」
洗面所から聞こえてきた三田村を言葉に、大蛇の化身のような男の食えない笑みが脳裏を過る。賢吾は、三田村を試したのだとすぐにわかった。
「――……何も持たない俺が、先生に関することでは諦めたくなかった。そうでないと、先生との繋がりが完全に切れそうで」
どんな顔をして言っているのか、洗面所を覗きたかったが、その前に三田村は戻ってくる。残念ながら、いつもの感情が読みにくいポーカーフェイスを保っている。
「さっきの言葉、ぼくの前で言ってほしかったな」
「勘弁してくれ……。あとで俺がのたうち回ることになる」
その姿を想像して、和彦は腹を抱えて爆笑する。
なんとか笑いが収まったところで両腕を広げると、意図を察したらしい三田村は、自分が着ているTシャツの袖に顔を近づけてから、眉をひそめた。
「悪いが先生、俺は今、とてつもなく汗臭い……」
「大まじめな顔で何を言うかと思ったら、そんなことか。あんたの汗の匂いを、いままでどれだけ嗅いできたと思って――」
言い終わる前に、三田村にきつく抱き締められた。和彦は目を丸くしたあと、ふっと笑みをこぼして自らも三田村の背に両腕を回す。
「ああ……、三田村の感触だ」
感じたことが、そのまま声になって出る。体に回された腕にさらに力が加わった。
「……本当は、桜も咲き始めたし、外で会おうかとも思ったんだが、尾行の件があったばかりだから」
「うん」
「護衛も増えたとかいう話も聞いて、先生が後ろばかり気にして歩くのもかわいそうで」
「そうだな。こうして部屋で会うほうが落ち着く」
和彦の後頭部を撫でた三田村が大きく息を吐き出した。
「もっともらしい理由を言ったが、ただ俺が、先生と二人きりになりたかっただけだ」
「……ぼくも」
三田村とはほんの何日か前にも会って、尾行騒動で水を差されてしまったとはいえ、わずかでも二人きりの時間を楽しむことはできた。それでも今、明け透けに気持ちを打ち明けられるのは、誰の目も気にしなくていいからだ。
三田村のてのひらがうなじにかかり、身の内でゾロリと欲望が蠢く。
「三田村――」
和彦が切ない声でそう呼びかけた瞬間、腹が鳴る。しっかり三田村の耳にも届いて笑われた。
「悪かった、先生。一仕事してきたあとだったな。腹が減っただろう」
あっという間に体を離した三田村が、和彦が買ってきた総菜を袋から出していく。和彦も昼食の準備を手伝うが、そうはいっても総菜を皿に出して温める程度のことだ。
準備を済ませてテーブルにつくと、まずは互いのグラスにビールを注ぎ合った。一息にグラスを空けて、和彦は大きくため息をつく。
「今日はもう、呼び出しがあっても仕事はしない」
買ってきた総菜は中華が中心で、なんとなく味の濃いものが食べたかったのだ。あんかけチャーハンを一口食べて目を細める。
「普通のチャーハンにしなくてよかった……」
「美味い。麻婆豆腐もしっかり辛くていいな」
「花見シーズンだからオードブルもいろいろ並んでたけど、やっぱり中華で正解だった」
他愛ないことを話しながら食事をしていると、ふと思い出したように三田村が洩らした。
「……加藤と、中華を食いに行ったことがある。馴染みの店だと言って、案内してくれたんだ」
「懐かれてるな」
「そう、可愛げがあるもんじゃないと思うが……。長嶺組の人間とツテを持っておくことは、若いあいつにとって悪いことじゃない」
「でもあの子、そういう打算的なことを考えて、他人に近づけるタイプじゃない気がする」
「――先生は、そう思っていればいい。加藤が先生にとって不快な存在じゃないなら、それでいいんだ」
三田村も過保護だと、和彦はひっそりと苦笑を洩らす。
三田村も当然、加藤が総和会からつけられた護衛の一人だと聞かされているだろう。極道らしくない優しさを持つ男としては、目をかけている若者が意外な任務について、気になっているはずだ。
「収まるところで収まってほしいな。あまり……強面の男ばかり引き連れて歩きたくないんだ、ぼくは。面倒をかけるのも悪いし」
「直接、伊勢崎組に目的を聞ければ話は早いんだが、組長も手を出しあぐねているようだ。長嶺組どころか、総和会ですらほぼ接点がないようなところだから」
和彦は伊勢崎組という組織について尋ねてみるが、あっさり首を横に振られた。三田村は大きな肉団子を箸で半分に割りながら、わずかに眉をひそめる。
「俺が知っていることは、たぶん先生と大差ない。伊勢崎龍造のヤクザとしての経歴……のようなものは知ってはいるが、人となりとなるとほとんど伝わってこない。そもそも根を張っている地域が遠すぎる」
「じゃあ、北辰連合会は?」
「血の気が多い、とはうちの若頭が言っていた」
宮森の顔を思い描いたついでに、彼の甥である優也の顔もポッと脳裏に浮かぶ。
「総和会のように機能的に組織化されているというより、なんというか、言葉は悪いが寄り合い所帯という感じに近い。思想も方針もてんでバラバラな組がいくつもくっついたり分裂したり、それを繰り返してでかくなった組織だ。だからこそのノウノウがあるんだろう。ときどきでかい内紛を引き起こしたりもしながらも、北辰連合会という看板はしっかり守っている。要所を締めているのは、〈顧問〉だという話だ」
「三人いるらしいな」
意外そうに三田村が目を丸くする。和彦は小皿にエビチリを取り分けながら、上目遣いにニヤリとする。
「ぼくも組関係者らしく、情報を小耳にはさむことがあるんだ。――清道会の綾瀬さんから、前に教えてもらっただけなんだけど」
「ああ、顔を合わせたことがあったんだな、先生は。……そうか、だったら北辰連合会のことも聞いたんじゃないか」
「だいたい同じようなことを。知ってる情報にそう差異はないみたいだな」
「普段かち合うことがない組織の情報は、そんなものかもしれない。ただ長嶺会長は今頃、本腰を入れて調べさせているだろうな。伊勢崎組と北辰連合会のことを」
肯定の意味で、ため息をつく。もしかすると今話題が出た清道会の綾瀬は、総和会から呼び出されて、あれこれ聞かれているかもしれない。情報は武器だ。秘匿すべきところは秘匿しながら、男たちは腹の探り合いをしているのだろうか。
伊勢崎組に繋がる人の糸を丹念にたどりながら、面倒なことだと守光は忌々しげに唇を歪めているのかと、和彦は想像する。しかしすぐにその想像を否定する。実の息子にすら化け狐と言われる男は、見えない九尾を揺らしつつおそらく淡々と指示を出しているはずだ。
賢吾の将来の障害となると判断したときは、違う面相を見せるかもしれないが――。
無意識に顔をしかめると、三田村が心配そうに身を乗り出してくる。
「もしかして、エビチリが辛かったのか?」
「……子供向けかも。ちょっと甘い」
ほっとしたように三田村が微笑む。和彦はその表情を見て、せっかく二人きりなのだから、今はあれこれ考えるのはやめておくことにした。
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