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第47話
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しおりを挟む罵倒されるぐらいで済むだろうかと、和彦は無意識にネクタイの結び目に指をかける。綾香と会うのにどんな服装がいいだろうかと悩む時間もなく、無難にスーツを着込んできた。
ネクタイを緩めかけて寸前で止める。とうとう実家が見えてきたせいだが、車はスピードを落としながら一旦通り過ぎた。監視している者がいないか確認したのだと今の和彦ならわかる。
実家近くで和彦と助手席の組員が車を降りる。もちろん中に入るのは和彦だけで、組員は外の目立たない場所で待機しているという。
インターホンを押すと、今回はすぐに応答があった。淡々とした綾香の声を聞いた途端、心臓が締め付けられたように胸苦しくなる。和彦は一拍置いてから名乗り、門扉を押し開けた。
玄関前に辿り着くまでに、どんどん鼓動が速くなり、手足が冷たくなってくる。それでもなんとかドアを開けると、珍しくワンピース姿の綾香が出迎えてくれた。その姿を見て、和彦は仰け反るほどの衝撃を受ける。脳裏を過ったのは、記憶にある紗香の姿だった。
「……おかえりなさい」
顔を強張らせたまま立ち尽くす和彦に、逡巡を見せたあと綾香が声をかけくる。ハッとして、なんとか言葉を絞り出した。
「ただ、いま……」
上がるよう言われて和彦は靴を脱ごうとしたが、どうしても先に言っておきたいことがあった。
「ごめん、か、さん……。もっと早くに、こちらから連絡するべきだったのに……」
「――わたしの存在なんて、頭になかったでしょう」
底冷えするような冷たい声の響きに、和彦は総毛立つ。
「そんな、こと……」
「昔から、この家のことはなんでもわたし抜きで決まってきたから、仕方ないんでしょうね」
困惑して立ち尽くす和彦に、綾香は初めて見せる自虐気味な笑みを向けた。
「あなたの連絡先がわからなくて、俊哉さんの携帯を盗み見てようやく知ったのよ」
「それは……、母さんを面倒なことに巻き込みたくないと、父さんなりに考えたんだと思う」
「あの人は、わたしに説明することが面倒だったんでしょう……」
ここで綾香が大きく息を吐き出し、額に手をやる。ひどい痛みを感じたように顔を歪めた。
「母さん、大丈夫?」
「まだ、そう呼んでくれるのね。――全部思い出したんでしょう?」
「……思い出したけど、母さんは母さんだよ。ぼくにそう呼ばれるのは、ずっと不本意だったと思うけど」
和彦と俊哉に血の繋がりがない可能性を、綾香が知っているのかどうかはわからない。その疑問を今ここで投げかけるのと、自分の夫と妹との不義によって生まれた子だと信じたままの現実と、どちらがより残酷なのだろうかと、ふと考えてしまう。
どちらにしても、和彦の存在は、綾香の心に刃を突き立てる存在にしかなりえない。そう思いながらもこうして向き合うと、やはり自然と出てしまうのだ。『母さん』と。
皮肉でもなんでもなく、和彦は心の底から綾香に同情していた。幼少時からの綾香の自分に対する態度は、すべてを知った今では理解と許容ができる。
「何も……、悪くないでしょう。あなたは。家と大人の勝手な都合に巻き込まれただけで――」
ここまで言って綾香が呻き声を洩らした。
「そんな環境が、あなたを追い込んでしまった。だから、あんな連中のところに……」
和彦はハッとして顔を強張らせる。綾香の言う『あんな連中』がなんであるか、即座に理解した。
「母さん、ぼくは――」
行き場がなくて長嶺の男たちの庇護下にあるわけではない。そう訴えようとしたが、綾香が続けた悲痛な告白に声が出なかった。
「あなたを見ていると、どうしても紗香のことを思い出していた。……妹から取り上げてしまったという罪悪感が、ずっと消えなかったの。でも、また子供を持てて嬉しいと思ってしまう自分もいて、英俊にしていたように素直に大事にはしてあげられなかった。そうしているうちに、あんな事件があって、紗香の母親としての執念を見せつけられて……」
和彦が、側にいるのに触れられない存在になってしまったのだと、綾香は続けた。
歯止めを失ったように心情を吐露し続ける綾香に、ただ和彦は気圧される。綾香が語れば語るほど、母親という殻が剥がれ落ち、その下からおぞましいものが姿を見せそうだ。
今の綾香と重なるのは、幼い和彦の前で壊れていった紗香の姿だった。
込み上げてくるものがあり、口元を押さえる。そんな〈息子〉の異変に気づかず、綾香がぎこちなく微笑みかけてきた。
「ああ、ごめんなさい、立たせたままで。さあ、早く上がって」
そう言って綾香が手を伸ばしてきたが、腕に触れられる寸前で本能的に和彦は身を引く。愕然としたように綾香が顔を強張らせた。
「ごめん、母さん。今日は帰るよ……」
綾香の表情の変化を見るのが怖くて、そう言い置いて和彦は玄関を飛び出した。
外に出てきた和彦を見るなり、待機していた組員が物陰から駆け寄ってくる。
「先生っ」
「帰ろう」
「……あの、早くないですか? もう用は――」
「今日はいいんだ」
帰ろう、と繰り返す和彦に組員もそれ以上は何も言わず、伴われて車に戻る。
帰路はさんざんだった。手足が異常に冷たくなっていたのは自覚していたが、途中で気分が悪くなり、急いで立ち寄ったコンビニのトイレで嘔吐までしてしまった。眩暈もひどく、なんとかマンションまで戻ったものの歩くのも覚束ない状態となり、結局、組員の判断で長嶺の本宅へと運び込まれることとなった。
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