血と束縛と

北川とも

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第46話

(20)

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 雪解け水を含んだ土はじっとりと湿り、分厚いアウトドアブーツの底がわずかに沈む。小さな沢までの道を歩きながら和彦は、慎重に周囲に目を向ける。まだところどころ雪は残っているが、自然の生命力は強い。積もった雪を押し退けるようにして野草が芽吹きつつある。
 ジョギングだけでなく、雪が解け始めてからは散歩も日課に加わったのだが、鷹津が勧めてきた理由がわかる気がした。ゆっくりと歩いていなければ見過ごすこともあるというわけだ。相変わらず毎日寒くはあるが、それでも確実に春は訪れつつある。降り注ぐ陽射しが暖かくなってきたとか、鳥の鳴き声がにぎやかになってきたとか、雪解け水が流れ込み沢の水量も増えてきた。
 和彦個人の変化としては、ジムにまじめに通っていた頃ほどではないが、体に筋肉がついてきたし、護身術が多少様になってきた。そして、鷹津の監視なしで、いくつかの料理をまともな味と形で提供できるようになった。あとは――。
 黒々とした土の上にあるものを見つけて、和彦は小さく声を洩らす。さっそく、ダウンコートのポケットから本を取り出す。最近山を歩くのが楽しいという和彦の話を聞いて、翔太がくれた山菜や野草が載った図鑑だ。てのひらサイズなので散歩のたびに持ち歩いており、重宝していた。
 山菜のページを開くと、土からちょこんと顔を覗かせている植物と見比べる。
「フキノトウ……」
 翔太から図鑑を渡されるときのやり取りを見ていた鷹津に、山菜は下処理が面倒だから採ってくるなと釘を刺されているため、眺めるだけだ。この歳まで山歩きとはほぼ無縁で過ごしてきた和彦にとっては、この地で生活しながら見聞きしたものはなんでも目新しいが、いまいち鷹津にこの感覚は伝わらないらしい。
「ワラビやゼンマイも見てみたいけど、それはもう少し暖かくなってからかなー」
 散歩を続けていればそのうち見かけるだろうと思いながら、沢に到着した和彦は耳を澄ませる。鳥の鳴き声や羽ばたく音だけでなく、ときには小さな獣の気配も感じることがあるのだ。首からかけた双眼鏡を覗き、しばらく鳥の姿を追いかけてから、帰ることにする。
 もうすぐ渓谷目当ての観光客たちの姿も見かけるようになると、翔太は話していた。そうなると店もかき入れ時に入るそうで、この辺りもにぎやかになるだろう。冬の間、世界から切り離されたような静けさを保っていた場所だけに、少し惜しい気もするが、一方で心が浮き立つような感覚もある。
 春というのはなかなか罪な季節だと、和彦はひっそりと笑みをこぼす。今週末、鷹津が梅を見に連れて行ってやると言ってくれたので、楽しみにしているのだ。梅の次は桜で、今からどこに出かけるか相談している最中だ。
 夕食の時間にはまだ早いが、歩いているうちに小腹が空いた。買い置きしてあるクッキーを出して、鷹津が『適当に買った』という紅茶を淹れようかと、のんびりと考えていた和彦の視線の先に、ログハウスがある。さらに、建物前の敷地に立つ鷹津の姿が。
 どこかに出かけるのだろうかと、和彦は小走りで駆け寄る。この時間から鷹津が出かけるのは珍しいのだ。
「夕飯の材料、何か足りないのか?」
「……いや」
 短く応じた鷹津が片手を出してきたので、意味がわからず和彦は首を傾げる。ようやく双眼鏡のことだと察して手渡す。このとき、鷹津の表情が最近では見たことがないぐらい硬いことに気づいた。
「何かあったのか?」
 鷹津は痛みを感じたように唇を歪めたあと、ふいっと視線を動かす。つられて和彦も同じ方向に視線を向け、こちらに向かってくる車列に気づいた。時期的に、ほとんど車も人も通らない道で、ログハウスから先に進んだところで、あるのは狭い歩道だ。山を車で通り抜けるためには違う道に進まなければならない。
 何かが起きようとしていると本能で感じ取った和彦は、ただ立ち尽くす。その間にもどんどん車は近づいてくる。車は五台が連なっており、尋常ではない事態を想像させる。
 そして車は、四台はログハウス前の道に停まったが、一台の高級車は躊躇なく敷地へと入ってきた。すかさず助手席からスーツ姿の男が降り、スモークフィルムの貼られた後部座席のドアを開けた。一瞬の既視感が和彦を襲い、息が止まりそうになる。
〈あのとき〉とは違い、後部座席に座った男は自ら外へと降り立つ。羽織った黒のコートの裾がふわりと揺れ、視線が上げられない和彦はその裾の動きを目で追う。車から降りた男は珍しくブーツを履いていた。
「――髪がずいぶん伸びたな」
 忌々しいほど魅力的なバリトンが、鼓膜に溶け込む。いつの間にか和彦の前に立った男は、髪の一房をさらりと撫でてきた。
 和彦は短く息を吐き出すと、覚悟を決めて正面を――賢吾を見る。身の内に大蛇を棲まわせている男からの、冴え冴えとした眼差しに、心臓が縮み上がる。数か月前まで、自分はこんな恐ろしい存在の傍らに平然としていたのだと、信じられない思いだった。
 半ば畏怖しながら、彫像のように表情が動かない賢吾の端整な顔を見つめる。その間、誰も身じろぎしなかった。賢吾すら。皆が、和彦の反応を待っているのだ。
「どうして、ここに……」
「もちろん、お前を迎えに来た。――帰るぞ」
 ようやく言葉を発すると、被せるように賢吾が応じる。傲然と言い放たれ、反射的に和彦は背後を振り返る。鷹津は軽く肩を竦めた。
「俺はここで、一旦お役御免だ」
 次の瞬間、賢吾に手首を掴まれ、強引に後部座席に押し込まれる。鷹津が賢吾に話しかけた。
「あとで〈和彦〉の荷物をそっちに送る」
「……ああ」
 賢吾が隣に乗り込むと、速やかに車は発進した。

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