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第45話
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しおりを挟む結局、俊哉との電話のあと、和彦は部屋に閉じこもったまま、誰とも顔を合わせることができなかった。総子が様子をうかがいに来てくれたが、板戸越しに最低限の会話を交わすのが精一杯で、それで総子は察してくれたようだ。
夕食はわざわざ部屋まで運んでもらったが、ほとんど口をつけることができなかった。
届けられた抗不安薬を服用したあと、和彦はただ横になって天井を見上げていた。ゆらゆらと視界が揺れていたのは、薬のせいなのか、浮かべた涙のせいなのかも、気に留めなかったぐらいだ。ただひたすら、考え続けていた。
いつ自分が眠ったのかもわからず、ひどい喉の渇きを覚えて目を覚ましたとき、今が何時なのかわからず混乱する。
部屋の電気はつけたままではあるが、ヒーターは消して休んでいたことに安堵する。しばらく和彦の傍らにいてくれた黒猫も、そろそろ仲間の元に戻るようにと、抱えて廊下に出したのだ。
頭上に手を伸ばし、リモコンをたぐり寄せる。テレビをつけると、見覚えのあるニュースキャスターがニュースを読んでいる。画面の隅に表示された時刻を見て、小さく声を洩らす。
「朝、だ……」
テレビに目を向けたまま和彦はぼんやりしていたが、いつまでもこうしているわけにはいかず、気力を振り絞って起き上がる。両瞼が腫れぼったく、きっとひどい顔になっているだろうなとため息をつく。
顔を洗いに行こうと半纏を着込んで外に出ると、何か抱えた総子がこちらにやってくる。
昨夜、礼を失した態度を取ったことを謝罪しようとしたが、そんな和彦を柔らかく制し、総子は微笑んだ。
「お風呂が沸いているから、入ってきてください。温まってから、朝食にしましょう」
差し出されたのは、きれいにアイロンがかけられたワイシャツだった。
受け取ったワイシャツを眺めて、今日の予定を思い出す。
「……今の状態だと、弁護士さんの話をまともに聞けそうにありません」
ぽろりとこぼした弱音に、表情を変えないまま総子が応じる。
「何も心配はいりません。面倒なことは、この家と弁護士の先生で引き受けますから。あなたは必要な手続きを済ませればいいだけです」
「ぼくに、そこまでしてもらえる価値はあるんでしょうか」
総子の顔からスッと微笑みが消える。憔悴しきった和彦の様子から、斟酌は簡単だったようだ。
「昨日は……、あまりいい話は聞けなかったようですね。俊哉さんから」
「楽しい話ではありませんでした」
和彦は自嘲気味に言うと、ふうっと息を吐き出して、視線を窓の外に向ける。今朝は、山茶花の側に猫の姿はない。
「ずっと、何を考えているのかわからない人でしたが、昨日電話で話して、ますますわからなくなりました……」
俊哉は、自分の生き方に対して、他人からの理解も共感も得られるとは思っていないだろう。そもそも、必要としていないのだ。傲慢で身勝手で冷徹。それが、俊哉という人間だ。その俊哉が生み出した〈呪い〉を押し付けられようとしている理不尽さに、和彦は何度も息が詰まりそうになる。
しかし、総子に打ち明けるつもりはなかった。信用しているか否かの問題ではなく、綾香と紗香の母親である総子を、間違いなく傷つけると確信しているからだ。
「――俊哉さんの抱えた闇は深い、ということでしょうね」
「闇……なんでしょうか。父さん自身は、光を見出しているのかもしれないと、なんとなく思って……」
「あなたは、引きずられてはいけませんよ。闇だろうが、光だろうが、それは俊哉さんのものでしかないんです。――わたしの娘たちは、それがわからなかったのかもしれません」
そう言った総子が、突然何かを思い出したように、小さく声を洩らした。一瞬、逡巡する素振りを見せたものの、毅然とした眼差しで和彦を見上げてきた。
「お風呂に向かう前に、あなたに見てもらいたいものがあります。……いろいろ思い出したあとですから、もしかするとつらいかもしれませんが」
かまわないと答えた和彦は、総子について歩く。向かったのは、屋敷の奥にある部屋だった。奥とはいっても、晴れた日であれば日当たりのいい一角なのだろう。残念ながら今は薄曇りのうえに霧も出ているが、窓から見える景色は計算されたかのように素晴らしい。けぶる山々と、近景の生垣と花壇の花と。
「入ってください」
総子に言われるまま部屋に足を踏み入れて、和彦は目を見開く。なんのための部屋であるか、すぐにわかった。
「ここは……」
紗香のための仏間だった。仏壇には、墓に供えてあったのと同じ種類の花が飾られており、室内の雰囲気を明るいものにしていた。
仏壇の前に正座すると、総子は小さいテーブルの上に並んだ写真立ての一つを差し出してきた。収められている写真には、まだ少女らしい面影を残した綾香と、もう一人、わずかに年若でよく似た顔立ちの女性が写っている。片方だけが、穏やかに微笑んでいた。
この人が、と和彦は心の中で呟く。写真を見ても、不思議なほど気持ちは凪いでいた。記憶にあるのは成長した姿の紗香で、写真の少女とは面影が似ているだけとも思えるせいだ。
「女の子なのに、二人ともあまり写真が好きではなかったから、あまり撮ってあげられなくて……。あとになって後悔しました」
他の写真も見せてもらったが、高校の入学式らしい制服姿の紗香に、胸が詰まった。生まじめな硬い表情を浮かべており、それが、自分自身の姿と重なった。
「似て、ますね……。ぼくに。顔もだけど、佇まいというか。晴れやかな場面で、上手く笑えないところとか――」
「恥ずかしがり屋なのでしょうね。あなたも、紗香も」
ぎこちなく笑みを浮かべたものの、和彦はこぼれそうになる涙を堪えるのに必死だった。
仏壇に手を合わせてから、テーブルの上に、写真立てと一緒に置かれた陶器製の鉢に目を留める。艶やかなピンク色の花が咲いており、なんとなく気になって、総子に花の名を尋ねる。ベゴニアといい、紗香が好きだった花だと教えてくれた。
仏間を出て廊下を歩いていると、総子を探していたのか、君代が慌てた様子でやってきた。二人組のお客様が見えられた、と報告を受けて、総子は顔を綻ばせる。心当たりがあるのか、君代に短く指示を出してから、和彦を見た。
「……あの?」
「じっとしているのが落ち着かない性分だと、よく話している人たちですよ。行動力があって、優秀。若いのに、それなりに修羅場も経験しているそうです。だから――あなたのことをお任せしようと決めました」
客人を出迎えるつもりなのか、総子が向かったのは玄関だ。必然的に和彦もついていく。
靴を脱いでいる二人組の姿を見て、思わず声を洩らす。そこにいたのは、昨日墓参りに向かう途中で見かけた男たちだった。
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