血と束縛と

北川とも

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第45話

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 昼頃まで横になっていた和彦だが、朝方、総子に言われていた予定が気になり、起き上がっていた。
 慎重に布団から出てみたが、心配していたような眩暈はなく、足のふらつきもない。やはり身体的に問題が起こったというより、精神的なショックが強すぎた故の失神だったのだろう。
 枕元に残っていた湯呑みと急須がのった盆を抱えて部屋を出ると、廊下に、窓ガラスの向こうをじっと見つめている白猫がいた。昨日玄関で見かけた猫かと思ったが、一回り小さくまだ若い猫のようだ。和彦に気づくと、小さな声で鳴いてから、素早く側にやってくる。身を擦りつけるようにして和彦の足元にまとわりついてくるため、できることなら撫でてやりたいが、盆を持ったままでは叶わない。
 どうしようかと立ち往生していると、ふいに若い白猫は身を離し、ひときわ甘い声を上げた。見れば、総子がこちらに向かってくる。
「あら、置いたままでよかったのですよ」
 そう言いながら和彦からさりげなく盆を受け取った。
「もう起きて大丈夫ですか? 顔色はまだよくないようですけど」
「動ける程度には、もう……。午後から、弁護士さんが来られると聞いていたので、気になって」
「それは、明日に変更していただきました。今日は近くにある宿に泊まってゆっくりされるそうなので、あなたが心配しなくても大丈夫ですよ」
 当然のように、和彦がこの家にもう一泊することは決定しているようだ。
「……すみません」
 お腹は空いていないかと問われ、正直、食欲はまったくなかったが、少しでも血の巡りをよくするためにも胃に何か入れておこうと考えた。
 若い白猫は途中まで和彦たちに同行していたが、ふいに廊下を曲がってどこかに行ってしまう。
「母親を探しているのですよ、あの子は。家の中で見かけませんでした? 大きな白猫。それが、あの子のお母さん。あんまりあの子が甘えるから、母親のほうが逃げるように移動していて、まるで追いかけっこをしているみたい」
「そう、ですか……」
 つい和彦は視線を伏せた。今、母子の話題を出されると、胸が締め付けられる。
「――あなたを一人で墓参りに行かせるべきではありませんでしたね。何か、紗香のことを思い出したのではありませんか?」
 さすがに、思い出したことそのままを口にはできなかった。
「紗香さんと、山に登っていたときのことを、少しだけ……。山歩きに向かないワンピースを着ていたんです。それで、何度も草や木に引っ掛けて、困ったように笑っていました。ぼくが心配すると、大丈夫、と言って――」
「他に、つらいことも思い出したのでしょう? そうでなければ、あんな場所で気を失うなんて……。見つけなければ、どうなっていたか」
 ここで和彦はハッとする。総子に聞きたいことがあったのだ。
 食堂に入ると、割烹着姿の君代が食卓の準備を調えていた。体調を気遣ってか、和彦が席につくと、煮込みうどんが出された。これなら食べられそうだと、ほっとする。
「足りないようなら、これも食べてくださいね」
 そう言って君代はおにぎりと漬物がのった皿も出したあと、忙しげに食堂を出て行った。
 総子のほうは先に昼食を終えていたのか、和彦の向かいに座ると、竹ザルの上に袋から煮干しを出す。何を始めるのかと見ていると、慣れた手つきで頭とハラワタを取り除いたあと、ボウルに入れていく。
「うちはよく、この煮干しのダシを使うから、時間があるときにこうして準備しておくのですよ。炊き込みご飯やお味噌汁、煮物に使ったり、暑い時期だと、素麺のつゆにも」
「……今朝の味噌汁、美味しかったです。それ以外も……」
 嬉しそうに総子は笑った。
「いいお肉を配達してもらったから、今晩はすき焼きにしましょうね。明日のお昼は炊き込みご飯がいいかしら」
 麺を一本、二本と啜っていた和彦だが、やはりどうしても気になってしまい、おずおずと総子に尋ねた。
「――……墓地で倒れていたぼくを、見つけた人がいたんですよね? どうして、ぼくがこの家に滞在している人間だとわかったんですか?」
「最初から、あなたを知っていたからです」
 総子の言葉に、すぐには反応できなかった。和彦は目を瞬いてから、ゆったりとした口調とは裏腹に、休みなく動き続ける総子の手元をなんとなく見つめる。
「昨日、あなたに言ったでしょう。この先を生き抜くための武器を与えると。何もそれは、和泉家が代々受け継いできた財産のことだけではありません。わたしたち夫婦が築いてきた人脈もあるのですよ」
「人脈……」
「昨日、お墓参りに向かう途中で、気になる人たちを見かけませんでしたか?」
 総子の問いに対して、和彦の脳裏に浮かんだのは、小さなスーパーで見かけた二人組だった。この土地にまったく馴染んでいない風体で、帰省客かと咄嗟に判断したぐらいだ。
 和彦は頷く。
「予定では、弁護士の先生に同行するはずでしたが、急遽、彼らだけで一足先にこちらに来たそうです。でもそのおかけで、気を失ったあなたを助けることができたのですから、彼ら特有の勘が働いているのかもしれませんね。びっくりしました。気を失ったあなたが、背負われて帰ってきたのですから」
「……どういった、人たちですか?」
「心配しなくても、会社勤めをしている、身元のしっかりした人たちですよ」
 意識しないまま奇妙な表情を浮かべていたらしい。ちらりと視線を上げた総子が、和彦の顔を見るなり声を洩らして笑った。
「その会社は、わたしたちが設立したものです。便宜上必要でしたから。――綾香や英俊はともかく、あなたは今後、深くつき合うことになるでしょう。ですから、今回は顔合わせも兼ねて、こちらに呼んだのですよ」
 どういった会社なのか気になるが、さすがに今日はもう、頭の中に情報が溢れすぎて限界だった。
「〈こちら〉にいる者は、皆、和彦さんの味方です。わたしたちはもちろん、賀谷先生からも、同じようなことを言われたのではありませんか?」
「……はい」
「持っている姓は佐伯でも、あなたは和泉家の人間です。これからはしっかり、わたしたちを頼りなさい。もっとはっきり言うなら、利用しなさい」
 物言いは柔らかながら、これは総子からの命令だった。和彦の複雑な立場や状況を把握したうえで、あえてここまで言っているのだ。その証拠に、総子はこう続けた。
「――あなたのことを嗅ぎ回っている者がいないか、昨日から用心していますが、今のところ、よそ者は見かけていないそうですよ。あなたを含めた、和泉家が招いたお客様以外は」
 閉鎖的な土地だからこそ安全だと、言外に総子は言いたいようだ。
「食べ終わったら、夕方まで猫の相手でもしながらゆっくり過ごしてください。お布団はそのままにしておきますから、横になって休んでもかまいませんし」
 頷きかけた和彦だが、部屋に戻る前に済ましておくべきことを思い出した。
「あとで電話を借りていいですか? もう一泊すると、父に……伝えておきたいんです」
 ふっと、総子の手の動きが止まった。
「ここにある電話を使ってもいいし、部屋で話したいなら、携帯電話を持って行かせましょう」
 携帯電話を借りたいと答えた和彦は、心の内で、総子にある問いかけをしていた。
 紗香の人生と命を奪ったようなものである俊哉を、本当は今も憎んでいるのではないのか、と――。

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