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第45話
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「小屋に泊まっている間、紗香はあなたに水も食料も与えてなかったようです。悪意があってのことではなく、頭になかったと思いたいですが、結果として、あなたを殺しかけたことは事実です。自分の子をやっと手元に置いて、笑いかけて、言葉をかけて、抱き締めて……。それで母親に戻れると、あのときの紗香は信じたのでしょう」
ふいに、体に巻き付く生あたたかな感触があった。総毛立った和彦は、誰もいないとわかっているはずなのに、背後を振り返る。
本能的に、子供の頃、紗香に抱き締められたときの記憶だと思った。ムッとするような熱気と、室内のカビ臭さ、窓から見えた鬱蒼と生い茂った雑草と木々。堰を切ったように次々と蘇る記憶に、和彦は動揺する。
「和彦さん?」
我に返り、勢い込んで総子に尋ねる。
「……母さ……、紗香さんは、ぼくが保護されたあと、どうしたんですか?」
「俊哉さんからの知らせを受けて、家の者たちが行ったときには……。あなたをまた奪われたと思って、それでなくても脆くなっていた精神がもたなかったのでしょう。自ら命を絶っていました」
深いため息をついた総子は、湯呑みの縁を指先でなぞりながら呟いた。
「……紗香の人生の大きな岐路には、俊哉さんが立ち会う運命だったのでしょうね」
それは言い換えれば、俊哉の人生の大きな岐路に、紗香が立ち会う運命だったともいえる。
「ぼくは、佐伯家から疎まれている存在なのだとばかり思っていました。父はぼくに興味がなく、母はぼくを忌々しく感じていて……。だから正直、家を出たあとは、姿を消してしまおうと考えてもいました。でも、久しぶりに家族と関わってみて、そうすることがいいのか迷っています。おばあ様の話を聞いて、まだ考えるべきことはあるんじゃないかと」
和彦はようやくこう切り出す。
「――ぼくも、人生の大きな岐路に立っている最中なんです」
「話は聞いていますし、悪いとは思いましたが、調べもしました」
目を見開いた和彦に、安心させるように総子が笑いかけてくる。
「知ったうえで、あなたを呼び寄せました。わたしたちが今のうちにできるのは、知っていることすべてをあなたに話して、代々受け継いできた和泉家の財産のいくつかを、あなたに譲渡することだと思っています」
「ぼくは――」
「自分にはその権利がないなんて、言わないでください。あなたは紗香が産んで、綾香が育てた、和泉の血を引いた子なんです」
「受け継いだものをぼくがどう使うか、不安に感じないんですかっ?」
語気が荒くなったのは、総子が、孫に対して盲目的になっているからではないかと疑ったからだ。自分の置かれた複雑な状況を思えば、本来ではあれば遠ざけられるべき存在だ。血の繋がりがあるというだけで、何もかもを受け入れてもらえるはずがない。
総子や正時には迷惑をかけたくないし、失望もされたくなかった。和彦が今願うのは、その一点だ。
顔を強張らせる和彦に対して、総子は相変わらず笑みを向けてくる。
「この先を生き抜くための武器を、あなたに与えると言っているのです。どう使うかは、あなた自身が決めなさい。あなたの負担にならないよう、いろいろと手立ては講じてあります。心配しなくても大丈夫ですよ」
目の前にいるのは、一見穏やかな高齢の女性なのだが、伴侶と共にずっと、和泉家を切り盛りしてきた人物でもある。ここまで話を聞いただけでも、平穏とは言い難い人生を送ってきたとわかる。
女傑、という言葉が、ふっと和彦の脳裏を過った。
「少し話しすぎましたね。続きはまた明日にしましょう」
頭を整理したいと思っていた和彦に異論はない。頷くと、夕食をとるよう勧められる。
こんなときでも腹は空くのだなと、ちらりと苦笑いをした和彦は、総子とともに食堂に向かった。
食事の味はよくわからなかった。ただ、自分のために準備してくれたのだなとわかる献立は、素直に嬉しかった。
和彦は総子と二人で夕食をとったあと、一気に押し寄せた疲労感を堪えつつ入浴を済ませた。新幹線に乗る前に買っておいたスウェットスーツを着込んだ上から、わざわざ用意してくれた半纏にありがたく袖を通す。大きい家だけあって、人がいる部屋以外は暖房が効いておらず、廊下などは冷え込むのだ。
和彦が使うよう言われた部屋は、庭に面していた。ただ日が落ちてからしっかりと雨戸が閉められたため、外の景色を見ることは叶わない。長い廊下に人影は見えないが、家のどこかで誰かが移動している気配がして、微かに話し声も聞こえてくる。
なんとなく長嶺の本宅の様子を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。
部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。ヒーターも入れてもらっており、室内は十分に暖まっている。スーツもしっかりハンガーにかけられているのを見て、和彦は口元を緩める。
ずいぶん気をつかってもらっているなと思いながら、ボストンバッグに近づこうとして、声を上げる。室内に自分以外のものの気配を感じたのだ。見ると、ほっそりとした体つきの黒猫が、悠々とした足取りでヒーターの側に歩み寄っている。
ずっとこの部屋にいたのか、和彦が入浴から戻ってきたタイミングで、一緒に部屋に入ってきたのか。なんにしても、物怖じしない態度だ。
和彦はボストンバッグからメモ帳とペンを取り出し、総子から聞いた話をまとめておこうと考える。横目でそっとうかがうと、黒猫は温風がちょうどよく当たる位置を見つけたのか、さっそく体を丸めるところだった。
しばらく、人間一人と猫一匹、適度に距離を取って静かに過ごしていたが、閉めた板戸の向こうから猫の鳴き声がする。ちらりとこちらを一瞥した黒猫が、何かを指示するように尻尾を動かす。猫の鳴き声を無視できず、和彦が板戸をわずかに開けると、隙間からするりと猫が入り込んできた。玄関で見かけたトラ猫だ。
二匹の猫が仲良くヒーターの前に陣取る姿に、和彦はいくらか気持ちが和らぐ気がした。
ふいに、体に巻き付く生あたたかな感触があった。総毛立った和彦は、誰もいないとわかっているはずなのに、背後を振り返る。
本能的に、子供の頃、紗香に抱き締められたときの記憶だと思った。ムッとするような熱気と、室内のカビ臭さ、窓から見えた鬱蒼と生い茂った雑草と木々。堰を切ったように次々と蘇る記憶に、和彦は動揺する。
「和彦さん?」
我に返り、勢い込んで総子に尋ねる。
「……母さ……、紗香さんは、ぼくが保護されたあと、どうしたんですか?」
「俊哉さんからの知らせを受けて、家の者たちが行ったときには……。あなたをまた奪われたと思って、それでなくても脆くなっていた精神がもたなかったのでしょう。自ら命を絶っていました」
深いため息をついた総子は、湯呑みの縁を指先でなぞりながら呟いた。
「……紗香の人生の大きな岐路には、俊哉さんが立ち会う運命だったのでしょうね」
それは言い換えれば、俊哉の人生の大きな岐路に、紗香が立ち会う運命だったともいえる。
「ぼくは、佐伯家から疎まれている存在なのだとばかり思っていました。父はぼくに興味がなく、母はぼくを忌々しく感じていて……。だから正直、家を出たあとは、姿を消してしまおうと考えてもいました。でも、久しぶりに家族と関わってみて、そうすることがいいのか迷っています。おばあ様の話を聞いて、まだ考えるべきことはあるんじゃないかと」
和彦はようやくこう切り出す。
「――ぼくも、人生の大きな岐路に立っている最中なんです」
「話は聞いていますし、悪いとは思いましたが、調べもしました」
目を見開いた和彦に、安心させるように総子が笑いかけてくる。
「知ったうえで、あなたを呼び寄せました。わたしたちが今のうちにできるのは、知っていることすべてをあなたに話して、代々受け継いできた和泉家の財産のいくつかを、あなたに譲渡することだと思っています」
「ぼくは――」
「自分にはその権利がないなんて、言わないでください。あなたは紗香が産んで、綾香が育てた、和泉の血を引いた子なんです」
「受け継いだものをぼくがどう使うか、不安に感じないんですかっ?」
語気が荒くなったのは、総子が、孫に対して盲目的になっているからではないかと疑ったからだ。自分の置かれた複雑な状況を思えば、本来ではあれば遠ざけられるべき存在だ。血の繋がりがあるというだけで、何もかもを受け入れてもらえるはずがない。
総子や正時には迷惑をかけたくないし、失望もされたくなかった。和彦が今願うのは、その一点だ。
顔を強張らせる和彦に対して、総子は相変わらず笑みを向けてくる。
「この先を生き抜くための武器を、あなたに与えると言っているのです。どう使うかは、あなた自身が決めなさい。あなたの負担にならないよう、いろいろと手立ては講じてあります。心配しなくても大丈夫ですよ」
目の前にいるのは、一見穏やかな高齢の女性なのだが、伴侶と共にずっと、和泉家を切り盛りしてきた人物でもある。ここまで話を聞いただけでも、平穏とは言い難い人生を送ってきたとわかる。
女傑、という言葉が、ふっと和彦の脳裏を過った。
「少し話しすぎましたね。続きはまた明日にしましょう」
頭を整理したいと思っていた和彦に異論はない。頷くと、夕食をとるよう勧められる。
こんなときでも腹は空くのだなと、ちらりと苦笑いをした和彦は、総子とともに食堂に向かった。
食事の味はよくわからなかった。ただ、自分のために準備してくれたのだなとわかる献立は、素直に嬉しかった。
和彦は総子と二人で夕食をとったあと、一気に押し寄せた疲労感を堪えつつ入浴を済ませた。新幹線に乗る前に買っておいたスウェットスーツを着込んだ上から、わざわざ用意してくれた半纏にありがたく袖を通す。大きい家だけあって、人がいる部屋以外は暖房が効いておらず、廊下などは冷え込むのだ。
和彦が使うよう言われた部屋は、庭に面していた。ただ日が落ちてからしっかりと雨戸が閉められたため、外の景色を見ることは叶わない。長い廊下に人影は見えないが、家のどこかで誰かが移動している気配がして、微かに話し声も聞こえてくる。
なんとなく長嶺の本宅の様子を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。
部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。ヒーターも入れてもらっており、室内は十分に暖まっている。スーツもしっかりハンガーにかけられているのを見て、和彦は口元を緩める。
ずいぶん気をつかってもらっているなと思いながら、ボストンバッグに近づこうとして、声を上げる。室内に自分以外のものの気配を感じたのだ。見ると、ほっそりとした体つきの黒猫が、悠々とした足取りでヒーターの側に歩み寄っている。
ずっとこの部屋にいたのか、和彦が入浴から戻ってきたタイミングで、一緒に部屋に入ってきたのか。なんにしても、物怖じしない態度だ。
和彦はボストンバッグからメモ帳とペンを取り出し、総子から聞いた話をまとめておこうと考える。横目でそっとうかがうと、黒猫は温風がちょうどよく当たる位置を見つけたのか、さっそく体を丸めるところだった。
しばらく、人間一人と猫一匹、適度に距離を取って静かに過ごしていたが、閉めた板戸の向こうから猫の鳴き声がする。ちらりとこちらを一瞥した黒猫が、何かを指示するように尻尾を動かす。猫の鳴き声を無視できず、和彦が板戸をわずかに開けると、隙間からするりと猫が入り込んできた。玄関で見かけたトラ猫だ。
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