血と束縛と

北川とも

文字の大きさ
上 下
1,174 / 1,262
第44話

(34)

しおりを挟む
 こう告げた瞬間の英俊の反応は、到底里見との関係を割り切っているようには見えなかった。
 確信を深めた和彦には、だからこそ伝えておかなければいけないことがある。
「もう、知っているかもしれないけど、ぼくは昔、里見さんとつき合っていた」
「つまり、自分のお下がりの男だと言いたいのか?」
「その言い方は……、自分を傷つけるだけだよ。兄さん」
「わたしに対して諭すような言い方をするなっ」
 声を荒らげた勢いのまま英俊に左頬を打たれた。衝撃に目が眩み、すぐに顔の左半分が熱くなる。
「最初からっ……、気づいてた。里見さんにとっても、お前が〈特別〉だってことは。父さんからお前の子守りを命じられて、嫌々従ってるという感じじゃなかったからな。ただの上司の子供を、どうして弟みたいに面倒を見てやれるのか、心底不思議だった。里見さんの人のよさを、愚かだとか、出世のための計算尽くだとか思いながら、腹立たしくて仕方なかった」
「……里見さんは優しい人だ」
「知っている。だけど同じぐらい、残酷なひとだ」
 痛む頬がじわりと熱を帯びてくる。和彦は強張った息を吐き出すと、心の中で応じた。多分、自分もだ、と。
「里見さんとの関係を、どうするつもり? ぼくには口を出す権利はないけど、結婚するんなら……」
「お前が倫理観を持ち出すのか。世の中、不倫してる奴なんていくらでもいる。父さんだって咎めはしないだろう。そもそも、すべての原因は父さんだ」
「その父さんの生き方を、兄さんはずっと追いかけてきてた。佐伯家の跡取りとして、官僚として」
 英俊の顔が歪む。和彦とのやり取りで、目を逸らし続けていたものを眼前に突き付けられたかのように。
「何が、言いたい……。わたしに、父さんを批判させたいのか? そうやって、家の中を引っ掻き回したいのか?」
「そうじゃない。ただ、兄さんが心配でっ……」
「ウソをつくなっ。内心、嘲笑っているんだろ。自分を痛めつけてきた兄が、無様に苦しんでいる様を」
 襟元を掴み寄せられ、再び頬を打たれた。この瞬間、和彦の頭の中で何かが弾けた。それが理性の箍だとわかったのは、低い声で英俊にこう問いかけたあとだった。
「――……苦しいんだ?」
 ハッとしたように英俊が目を見開く。和彦は打たれたばかりの頬に触れながら、痺れているせいで口が動かしにくいなと他人事のように思う。ただ、言葉を発するのは止めなかった。
「その苦しみの大部分は、ぼくのせいじゃないだろ」
「お前……」
「ずっと努力してきたのはすごいよ。だからといって、ぼくに八つ当たりしていい理由にはならない。いい加減、そのことをわかってほしい」
 重石のように胸につかえていた感情は、言葉にすればたったこれだけなのだ。同時に、恐れの対象であった兄を、自分と大差ない人間なのだと認識できていた。子供の頃は、年齢差のある英俊を大人だと感じていたが、今となっては体格差はほぼなく、おそらく力は和彦のほうが強い。
 裏の世界で、物騒な男たちに囲まれて過ごしてきた結果、否応なく精神的にも逞しくなった。
 自分はもう、痛みを与えられながら、唇を噛んで耐えていた子供ではない。
 和彦はてのひらにぐっと爪を立てる。
「……どんな理由があったにせよ、兄さんが昔ぼくにしたことは許さない」
「お前の許しなんて――」
「許さないけど、もう終わったことだと思ってる。……兄さんのこと、怖くはあったけど、嫌いじゃないんだ。ときどき優しくしてくれたことを覚えてるから。だから、今の兄さんの立場を悪くするというなら、父さんたちがなんと言おうが、もうこの家に戻ってこないこともできる。ぼくを利用したいなんて、きっと兄さんの本心じゃないんだろう? ぼくが側にいたら、苦しい思いをするとわかってるはずだ」
 英俊は小さく声を洩らしたあと、何かを訴えかけてくるような眼差しを向けてくる。しかしすぐに顔を背け、忌々しげに吐き捨てた。
「自分が満たされているから、わたしに対して優しくもなれるし、寛容にもなれるということか……。生憎だったな。わたしは、お前という弟ができてからずっと、お前が嫌いだ」
 和彦は、兄弟間のわだかまりが簡単に消えるとは考えていなかった。英俊の頑なさは知っているつもりだし、拒絶も覚悟はしていた。いつかはわずかな歩み寄りが可能かもしれないが、今は無理だ。
 言葉を交わしてそのことを確認できただけでも、自分は一歩を踏み出せた。
 さらに一歩を――。
「――兄さん」
 呼びかけると、英俊がこちらを見る。和彦は躊躇なく、英俊の左頬を平手で打った。
 何事が起こったのか理解できない様子で、英俊が呆然とする。かまわず和彦は、もう一度手を振り上げ、鋭い音を響かせた。
「今のぼくは、痛めつけられるだけの人形じゃない。憎まれ口も叩くし、殴られたら殴り返す。それだけはわかってほしかった」
 英俊は、掴みかかってはこなかった。自分がされた行為が信じられないように、ただ立ち尽くしている。その様子にズキリと胸が痛んだ。
 英俊の姿が、与えられた痛みをどう処理していいかわからず、なんの反応もできなかったかつての自分と重なる。
 ごめん、と言い置いて、和彦はその場を逃げ出していた。
 二階の自室に戻ると、途端に両足から力が抜け、その場に崩れ込む。心臓の鼓動が狂ったように早打ち、頭がガンガンと痛む。自分の行動に激しく動揺していた。
 英俊に打たれて怒ったのではなく、本当にわかってほしかっただけなのだ。和彦という人間を。
 大きく深く呼吸を繰り返し、なんとか気を静めようとする。
 鼓動は次第に落ち着いてきて、頭痛もゆっくりと引いていくが、いざ動けるようになると、今度はある衝動が抑えられなくなった。
 和彦は携帯電話を手にすると、震える指で操作する。呼出し音が留守電の応答メッセージに切り替わって諦めたものの、五分も経たないうちに、今度は電話がかかってくる。
 勢いよく電話に出た和彦の耳に、ゾクリとするほど魅力的なバリトンが注ぎ込まれた。
『――明けましておめでとう、と言っていいか?』
 胸が詰まり、咄嗟に声が出なかった。
 上擦り、震えを帯びた声を聞かせてしまっては、泣いていると思われる。和彦は慎重に呼吸を整え、できる限り感情を抑制する。
「ああ……。明けましておめでとう」
 元日ということで、今日一日で何度となく口にした挨拶なのに、とても新鮮に感じた。
「……今、電話をかけてきて、大丈夫なのか?」
『お前との電話は、何を置いても優先する。――なんだ。気をつかって、昨日、一昨日と電話をくれなかったのか。こっちも気をつかったんだが、こんなことなら、慣れない我慢なんてするんじゃなかったな』
 賢吾の声が笑いを含み、柔らかく鼓膜に沁み込む。瞬く間に賢吾という存在が全身へと行き渡っていた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ずっと女の子になりたかった 男の娘の私

ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。 ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。 そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

ニューハーフ極道ZERO

フロイライン
BL
イケイケの若手ヤクザ松山亮輔は、ヘタを打ってニューハーフにされてしまう。 激変する環境の中、苦労しながらも再び極道としてのし上がっていこうとするのだが‥

イケメンドクターは幼馴染み!夜の診察はベッドの上!?

すずなり。
恋愛
仕事帰りにケガをしてしまった私、かざね。 病院で診てくれた医師は幼馴染みだった! 「こんなにかわいくなって・・・。」 10年ぶりに再会した私たち。 お互いに気持ちを伝えられないまま・・・想いだけが加速していく。 かざね「どうしよう・・・私、ちーちゃんが好きだ。」 幼馴染『千秋』。 通称『ちーちゃん』。 きびしい一面もあるけど、優しい『ちーちゃん』。 千秋「かざねの側に・・・俺はいたい。」 自分の気持ちに気がついたあと、距離を詰めてくるのはかざねの仕事仲間の『ユウト』。 ユウト「今・・特定の『誰か』がいないなら・・・俺と付き合ってください。」 かざねは悩む。 かざね(ちーちゃんに振り向いてもらえないなら・・・・・・私がユウトさんを愛しさえすれば・・・・・忘れられる・・?) ※お話の中に出てくる病気や、治療法、職業内容などは全て架空のものです。 想像の中だけでお楽しみください。 ※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんの関係もありません。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 ただただ楽しんでいただけたら嬉しいです。 すずなり。

童貞が建設会社に就職したらメスにされちゃった

なる
BL
主人公の高梨優(男)は18歳で高校卒業後、小さな建設会社に就職した。しかし、そこはおじさんばかりの職場だった。 ストレスや性欲が溜まったおじさん達は、優にエッチな視線を浴びせ…

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

部室強制監獄

裕光
BL
 夜8時に毎日更新します!  高校2年生サッカー部所属の祐介。  先輩・後輩・同級生みんなから親しく人望がとても厚い。  ある日の夜。  剣道部の同級生 蓮と夜飯に行った所途中からプチッと記憶が途切れてしまう  気づいたら剣道部の部室に拘束されて身動きは取れなくなっていた  現れたのは蓮ともう1人。  1個上の剣道部蓮の先輩の大野だ。  そして大野は裕介に向かって言った。  大野「お前も肉便器に改造してやる」  大野は蓮に裕介のサッカーの練習着を渡すと中を開けて―…  

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

処理中です...