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第44話
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「……四階はいつも通り静かでしたから、わかりませんでした。そんなこと」
「会長は、今夜は外泊となります。そこに、〈彼〉も同行しています。いつも以上に静かですよ、きっと」
はっきりと名を出されなくても、存在を匂わされるだけでドキリとする。和彦は反射的に、吾川に鋭い視線を向けていた。
「部屋に、戻ります……」
和彦がエレベーターホールに向かうと、当然のように吾川もついてくる。上がる階が一緒なので仕方ない。
「会長が不在ですから、夕食は先生の部屋にお運びします。クリスマスイブですから、特別なものを。おそらく、ケーキもあるはずですよ」
吾川の不思議な言い回しに内心首を傾げつつも、和彦は頷いておく。一刻も早く、クリスマスイブなど関係ない、自分だけの空間で一人になりたかった。どうしようもない寂しさを抱えた姿を、誰にも見られたくない。
寂しさは、人恋しいとも言い換えられる。誰でもいいわけではない。ただ、一人の男の顔が見たくて、せめて声が聞きたくて――。
四階に着くと、エレベーターの前で吾川と別れて足早に部屋に戻る。和彦はエアコンを入れると、部屋が温まるのを待つ時間が惜しくて、着替えを抱えてバスルームに向かう。
気を抜いた途端、ベッドに転がって動けなくなるのが目に見えていた。本当は食欲もない。今夜は早々にベッドに潜り込んでしまおうと考えながら、熱めの湯を頭から被った。
シャワーを浴びて出たところで和彦は、ドアをノックする音に気づく。もう食事が運ばれてきたのかと、急いで体を拭き、スウェットの上下を着込む。
バスタオルを肩からかけてドアを開けると、目の前に立っていたのは吾川――ではなかった。
驚きのあまり、声すら出なかった。ただ目を見開いて立ち尽くしていると、大きな袋を両手に提げた賢吾が薄い笑みを向けてくる。
「髪も拭かずに出てきたのか。びしょびしょじゃねーか」
官能的なバリトンが耳の奥に届いた途端、体中の細胞が一気に沸き立ったようだった。
「ど、して……」
「お前とクリスマスイブを一緒に過ごすために」
冗談めかして言った賢吾だが、表情がスッと真剣なものに変わる。大蛇の潜む両目にじっと正面から見据えられ、和彦は息を詰める。心の内どころか、自分の身に起こったことすら読み取られているようで、怖い。しかし、抗えない力で、賢吾の目を覗き込みたくもなるのだ。
「――中にお運びしましょうか」
ふいに声が割って入り、ドアの陰から吾川が姿を現す。食器などを載せたワゴンも一緒で、ようやく状況を理解した和彦が狭い玄関から退くと、靴を脱いだ賢吾がドカドカと上がり込み、吾川もあとに続く。
賢吾は持ってきた袋の中身をテーブルの上に出し始める。吾川も食器とグラスを配しようとして、テーブルの上のスペースが狭いことが気になったのか、キッチン横に置いてある折り畳み式の小さなテーブルを持ってきた。
唖然として立ち尽くす和彦は、何か手伝おうかと声もかけられなかった。
そんな和彦を一瞥して、賢吾が唇を緩める。
「いい加減、髪を拭いたらどうだ。風邪を引くぞ」
「あ、あ……」
賢吾に手で示され、素直にソファに腰掛ける。髪を拭き始めたものの和彦は、いまだにこの場に賢吾がいることが信じられず、バスタオルの合間から絶えず視線を向け続ける。目が合うと、意味ありげな流し目を寄越され、カッと顔が熱くなる。
今晩の賢吾は、完全にプライベートで訪れているのか、ニットの上から黒のシアリングコートを無造作に羽織っている。いつもはない野性味のようなものを感じるのは、服装のせいなのか、まとっている空気のせいなのか。
心の準備もないまま賢吾と顔を合わせて動揺していた和彦だが、次第に思考が正常さを取り戻し、避けようのない告白の瞬間が近づいていることを悟る。
和彦が打ち明けるまでもなく、おそらく賢吾はすべてを知っている。自分の〈オンナ〉の身に、何が起こったのかを。だがこれは、和彦の口から直接告げなければならないことだ。
「――大丈夫か?」
ふいに賢吾に問われる。戸惑う和彦に対して、こう続けた。
「瞬きもしないで、何か考え込んでただろ」
「いや、そんなこと……」
「なんだ。俺に髪を拭いてほしいのか?」
和彦はムキになって勢いよく髪を拭く。
賢吾が持ってきたのは、二人分にしては多すぎる立派なオードブルだった。さらにシャンパンとケーキまで買っており、本当にここでクリスマスイブを祝うつもりのようだ。
吾川は二人分の食器をようやく満足のいく形に並べられたのか、一礼して部屋を出て行く。その姿を見送った和彦は、ここに賢吾がいていいものなのかと、急に不安になってくる。
「会長は、今夜は外泊となります。そこに、〈彼〉も同行しています。いつも以上に静かですよ、きっと」
はっきりと名を出されなくても、存在を匂わされるだけでドキリとする。和彦は反射的に、吾川に鋭い視線を向けていた。
「部屋に、戻ります……」
和彦がエレベーターホールに向かうと、当然のように吾川もついてくる。上がる階が一緒なので仕方ない。
「会長が不在ですから、夕食は先生の部屋にお運びします。クリスマスイブですから、特別なものを。おそらく、ケーキもあるはずですよ」
吾川の不思議な言い回しに内心首を傾げつつも、和彦は頷いておく。一刻も早く、クリスマスイブなど関係ない、自分だけの空間で一人になりたかった。どうしようもない寂しさを抱えた姿を、誰にも見られたくない。
寂しさは、人恋しいとも言い換えられる。誰でもいいわけではない。ただ、一人の男の顔が見たくて、せめて声が聞きたくて――。
四階に着くと、エレベーターの前で吾川と別れて足早に部屋に戻る。和彦はエアコンを入れると、部屋が温まるのを待つ時間が惜しくて、着替えを抱えてバスルームに向かう。
気を抜いた途端、ベッドに転がって動けなくなるのが目に見えていた。本当は食欲もない。今夜は早々にベッドに潜り込んでしまおうと考えながら、熱めの湯を頭から被った。
シャワーを浴びて出たところで和彦は、ドアをノックする音に気づく。もう食事が運ばれてきたのかと、急いで体を拭き、スウェットの上下を着込む。
バスタオルを肩からかけてドアを開けると、目の前に立っていたのは吾川――ではなかった。
驚きのあまり、声すら出なかった。ただ目を見開いて立ち尽くしていると、大きな袋を両手に提げた賢吾が薄い笑みを向けてくる。
「髪も拭かずに出てきたのか。びしょびしょじゃねーか」
官能的なバリトンが耳の奥に届いた途端、体中の細胞が一気に沸き立ったようだった。
「ど、して……」
「お前とクリスマスイブを一緒に過ごすために」
冗談めかして言った賢吾だが、表情がスッと真剣なものに変わる。大蛇の潜む両目にじっと正面から見据えられ、和彦は息を詰める。心の内どころか、自分の身に起こったことすら読み取られているようで、怖い。しかし、抗えない力で、賢吾の目を覗き込みたくもなるのだ。
「――中にお運びしましょうか」
ふいに声が割って入り、ドアの陰から吾川が姿を現す。食器などを載せたワゴンも一緒で、ようやく状況を理解した和彦が狭い玄関から退くと、靴を脱いだ賢吾がドカドカと上がり込み、吾川もあとに続く。
賢吾は持ってきた袋の中身をテーブルの上に出し始める。吾川も食器とグラスを配しようとして、テーブルの上のスペースが狭いことが気になったのか、キッチン横に置いてある折り畳み式の小さなテーブルを持ってきた。
唖然として立ち尽くす和彦は、何か手伝おうかと声もかけられなかった。
そんな和彦を一瞥して、賢吾が唇を緩める。
「いい加減、髪を拭いたらどうだ。風邪を引くぞ」
「あ、あ……」
賢吾に手で示され、素直にソファに腰掛ける。髪を拭き始めたものの和彦は、いまだにこの場に賢吾がいることが信じられず、バスタオルの合間から絶えず視線を向け続ける。目が合うと、意味ありげな流し目を寄越され、カッと顔が熱くなる。
今晩の賢吾は、完全にプライベートで訪れているのか、ニットの上から黒のシアリングコートを無造作に羽織っている。いつもはない野性味のようなものを感じるのは、服装のせいなのか、まとっている空気のせいなのか。
心の準備もないまま賢吾と顔を合わせて動揺していた和彦だが、次第に思考が正常さを取り戻し、避けようのない告白の瞬間が近づいていることを悟る。
和彦が打ち明けるまでもなく、おそらく賢吾はすべてを知っている。自分の〈オンナ〉の身に、何が起こったのかを。だがこれは、和彦の口から直接告げなければならないことだ。
「――大丈夫か?」
ふいに賢吾に問われる。戸惑う和彦に対して、こう続けた。
「瞬きもしないで、何か考え込んでただろ」
「いや、そんなこと……」
「なんだ。俺に髪を拭いてほしいのか?」
和彦はムキになって勢いよく髪を拭く。
賢吾が持ってきたのは、二人分にしては多すぎる立派なオードブルだった。さらにシャンパンとケーキまで買っており、本当にここでクリスマスイブを祝うつもりのようだ。
吾川は二人分の食器をようやく満足のいく形に並べられたのか、一礼して部屋を出て行く。その姿を見送った和彦は、ここに賢吾がいていいものなのかと、急に不安になってくる。
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