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第43話
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それでも、吐いてしまえば、驚くほど楽になった。体調が悪いというより、過度な緊張に胃が耐えられなかったのかもしれない。
和彦はトイレットペーパーで口元を拭って流したあと、ドアに目を向ける。気配を感じたわけではないが、この向こうに南郷がいると確信があった。このまま閉じこもっていると、こんなドアなど簡単に蹴破って押し入ってくるだろう。
おそるおそるドアを開けると、タオルを手にした南郷が立っていた。和彦は何も言わず洗面台で口をすすぐと、差し出されたタオルを受け取る。
「レトルトだが、お粥がある。温めようか?」
ダイニングに戻る途中で南郷から提案されたが、和彦は首を横に振る。
「サンドイッチ、もう少し食べます。……体調が悪いわけじゃないんで」
「まあ無理はしないでくれ」
改めてテーブルにつくと、南郷は紅茶を淹れ直し始める。
見た目からは想像もつかないような南郷の甲斐甲斐しさには、覚えがあった。隠れ家だというもとは保育所だった建物に連れて行かれたときのことだ。皮肉を言われながらも世話を焼かれたが、あのときも、そして今も、もちろん心は動かない。
ただ和彦がどう受け止めようが、南郷には関係ないだろう。重要なのは、〈佐伯和彦〉という存在に利用価値があるという一点のみのはずだ。
和彦は、苦い事実をサンドイッチと共にじっくりと噛み締める。自身の勝手な行動のせいで、総和会に付け込まれたのだ。
情けなくて泣きたくなったが、そんな権利すら今の自分にはないだろう。和彦はぐっと奥歯を噛み締めたあと、無理やりサンドイッチの残りを胃に収めた。
朝食のあと和彦は、部屋に戻る気にもなれず、別荘の敷地内を歩き回る。守光についている総和会の人間も大半が引き揚げたのか、離れの様子をうかがっても、人の気配は乏しい。当然、吾川の姿も見かけない。
一刻も早くここを出たい和彦としては、このまま軟禁状態が続くのではないかと、気が気でなかった。
庭に出て、南郷が設置したという電気柵の前でしばらく立ち尽くしていたが、ワイヤーに触れてみる勇気もなく、結局、ため息をついて引き返す。
すると、いつから見ていたのか、裏口の前に南郷が腕組みをして立っていた。ニヤニヤとした表情に対して、険を含んだ眼差しを向けた和彦は、距離を取りつつ南郷の前に立つ。
「そこ……、退いてください」
「ずいぶん退屈しているようだな、先生。朝メシを食ったあとから、ずっとうろうろと動き回ってる。こっちとしては、寝込まれたらどうしようかと思っていたが、そういやあんたは、タフな人間だった。どうしても見た目に騙される」
「……ぼくは、ひ弱に見られたことはありません」
「周囲をいかつい男たちに囲まれて、ちやほやされている自分の姿を想像してみたらいい。俺の言いたいこともわかるはずだ」
こういう言い方しかできない男だとわかっていても、神経を逆撫でされる。和彦は、露骨に南郷を避けて裏口を通ろうとしたが、腕を広げて阻まれた。
「あのっ――」
「散歩に行こうか、先生」
絶句する和彦に、歯を剥き出すようにして南郷が笑いかけてくる。
「ちょうど着込んでいるようだし、都合がいい。このまま表に回ってくれ」
二人きりでなんて冗談ではないと、和彦は懸命に拒否し、建物の中に逃げ込もうとしたが、南郷は頑として前に立ち塞がって動かない。
いくら抗議しようが南郷は動じず、それどころか芝居がかった恭しい動作で、まるでエスコートするかのように手を差し出してくる。和彦は、その手をじっと見つめたあと、建物に入ることを諦めた。
南郷と共に別荘の前の道に出ると、雪が解けてぬかるんだ地面に視線を落とす。まだ新しい轍がいくつも残っていた。
和彦は、歩き出した南郷のあとを渋々ついて行く。筋肉痛と体に残る倦怠感のせいだけではなく、道の状態の悪さもあって、一歩一歩が重い。普段以上にゆっくりとした歩調となり、すぐに南郷との間に距離ができる。それに気づいた南郷が振り返り、一旦立ち止まる。
「……先に行ってもらってかまいませんよ」
追いついた和彦がぼそぼそと告げると、南郷は軽く鼻を鳴らした。
「いつかみたいに、転んだあんたに泥だらけになられると困る。遠慮せず、俺に掴まってくれ」
身を竦めるような寒さの中、和彦の肌に蘇ったのは、陽射しの強さと、伝う汗の感触。そして、体をまさぐってきた南郷の手の動きだった。
和彦はトイレットペーパーで口元を拭って流したあと、ドアに目を向ける。気配を感じたわけではないが、この向こうに南郷がいると確信があった。このまま閉じこもっていると、こんなドアなど簡単に蹴破って押し入ってくるだろう。
おそるおそるドアを開けると、タオルを手にした南郷が立っていた。和彦は何も言わず洗面台で口をすすぐと、差し出されたタオルを受け取る。
「レトルトだが、お粥がある。温めようか?」
ダイニングに戻る途中で南郷から提案されたが、和彦は首を横に振る。
「サンドイッチ、もう少し食べます。……体調が悪いわけじゃないんで」
「まあ無理はしないでくれ」
改めてテーブルにつくと、南郷は紅茶を淹れ直し始める。
見た目からは想像もつかないような南郷の甲斐甲斐しさには、覚えがあった。隠れ家だというもとは保育所だった建物に連れて行かれたときのことだ。皮肉を言われながらも世話を焼かれたが、あのときも、そして今も、もちろん心は動かない。
ただ和彦がどう受け止めようが、南郷には関係ないだろう。重要なのは、〈佐伯和彦〉という存在に利用価値があるという一点のみのはずだ。
和彦は、苦い事実をサンドイッチと共にじっくりと噛み締める。自身の勝手な行動のせいで、総和会に付け込まれたのだ。
情けなくて泣きたくなったが、そんな権利すら今の自分にはないだろう。和彦はぐっと奥歯を噛み締めたあと、無理やりサンドイッチの残りを胃に収めた。
朝食のあと和彦は、部屋に戻る気にもなれず、別荘の敷地内を歩き回る。守光についている総和会の人間も大半が引き揚げたのか、離れの様子をうかがっても、人の気配は乏しい。当然、吾川の姿も見かけない。
一刻も早くここを出たい和彦としては、このまま軟禁状態が続くのではないかと、気が気でなかった。
庭に出て、南郷が設置したという電気柵の前でしばらく立ち尽くしていたが、ワイヤーに触れてみる勇気もなく、結局、ため息をついて引き返す。
すると、いつから見ていたのか、裏口の前に南郷が腕組みをして立っていた。ニヤニヤとした表情に対して、険を含んだ眼差しを向けた和彦は、距離を取りつつ南郷の前に立つ。
「そこ……、退いてください」
「ずいぶん退屈しているようだな、先生。朝メシを食ったあとから、ずっとうろうろと動き回ってる。こっちとしては、寝込まれたらどうしようかと思っていたが、そういやあんたは、タフな人間だった。どうしても見た目に騙される」
「……ぼくは、ひ弱に見られたことはありません」
「周囲をいかつい男たちに囲まれて、ちやほやされている自分の姿を想像してみたらいい。俺の言いたいこともわかるはずだ」
こういう言い方しかできない男だとわかっていても、神経を逆撫でされる。和彦は、露骨に南郷を避けて裏口を通ろうとしたが、腕を広げて阻まれた。
「あのっ――」
「散歩に行こうか、先生」
絶句する和彦に、歯を剥き出すようにして南郷が笑いかけてくる。
「ちょうど着込んでいるようだし、都合がいい。このまま表に回ってくれ」
二人きりでなんて冗談ではないと、和彦は懸命に拒否し、建物の中に逃げ込もうとしたが、南郷は頑として前に立ち塞がって動かない。
いくら抗議しようが南郷は動じず、それどころか芝居がかった恭しい動作で、まるでエスコートするかのように手を差し出してくる。和彦は、その手をじっと見つめたあと、建物に入ることを諦めた。
南郷と共に別荘の前の道に出ると、雪が解けてぬかるんだ地面に視線を落とす。まだ新しい轍がいくつも残っていた。
和彦は、歩き出した南郷のあとを渋々ついて行く。筋肉痛と体に残る倦怠感のせいだけではなく、道の状態の悪さもあって、一歩一歩が重い。普段以上にゆっくりとした歩調となり、すぐに南郷との間に距離ができる。それに気づいた南郷が振り返り、一旦立ち止まる。
「……先に行ってもらってかまいませんよ」
追いついた和彦がぼそぼそと告げると、南郷は軽く鼻を鳴らした。
「いつかみたいに、転んだあんたに泥だらけになられると困る。遠慮せず、俺に掴まってくれ」
身を竦めるような寒さの中、和彦の肌に蘇ったのは、陽射しの強さと、伝う汗の感触。そして、体をまさぐってきた南郷の手の動きだった。
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