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第42話
(22)
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「……いまさら、ぼくの破廉恥な私生活を知ったからって、兄さんは怒鳴り込んできたりはしないはずだ。それこそ、父さんに任せておけばいいんだから。でも、そうしなかった。〈誰か〉が、兄さんを刺激したんだ」
カップにかかった英俊の長い指がピクリと動く。〈誰か〉の名を、あえて和彦が口にするまでもなかった。堪えきれなくなったように、英俊から切り出したからだ。
「――……里見さんは、お前の里帰りのことをとっくに知っていた。……父さんとお前が二度目の話し合いをした場に同席していたと、今日になって里見さん本人から教えられた。本当か?」
「そうだよ」
そう答えた瞬間、驚いたように英俊が目を見開く。その反応を、ひどく冷めた目で和彦は観察していた。
「里見さんから聞かされて、居ても立ってもいられなくなったんだね。そんなに、気に食わなかった? 兄さんの知らないところで、ぼくらが大事なことを決めていたの」
睨みつけてくる英俊の胸中には今、どんな感情が渦巻いているのだろうと、傲慢な想像を巡らせる。
和彦は、かつて里見と体の関係を持っていた。英俊は現在、里見と体の関係を持っている。和彦と里見の間に特別な感情はあったが、果たして英俊と里見との間はどうなのか。
少なくとも英俊からは、さきほどの様子からも、里見への強い執着めいたものを感じるが――。
ほの暗い優越感はすぐに吐き気へと変わり、我に返った和彦は顔を強張らせた。
「ごめん、兄さん……」
小さく謝罪すると、瞬く間に顔を紅潮させた英俊がカップを取り上げ、コーヒーを和彦にぶちまけてきた。咄嗟に顔を背けたが、まだ熱いコーヒーが首筋や手にかかる。突然のことに驚いた和彦は、呆然として英俊を見つめる。
一方の英俊は、自分の行為に動揺した素振りを見せたが、すぐに気を取り直したように、低い声で言った。
「お前が、わたしを憐れむな」
何事もなかったように立ち去る英俊の後ろ姿を、打ちのめされた気分で和彦は見送った。
店内は静まり返っていたが、和彦が紙ナプキンでテーブルの上のコーヒーを拭き始めると、ぎこちなく会話が戻っていく。
うかがうように向けられるいくつもの視線から逃れるように、テーブルの上を片付けた和彦も席を立つ。支払いを済ませて店を出ると、血相を変えて組員が駆け寄ってきた。
「先生っ……」
どうやら歩道に面した窓から、店内の様子を見ていたらしい。大丈夫だと応じた拍子に、髪先からコーヒーが滴り落ちた。甲斐甲斐しく組員がハンカチで拭いてくれるのに任せながら、念のため尋ねてみる。
「兄さんは?」
「先に駐車場を出られました」
「そうか……」
和彦は力なく応じて顔を伏せる。その拍子に、コーヒーがかかった首筋がピリッと痛んだ。
文机に向かい、物憂げに携帯電話を眺めていた和彦は、肩から落ちそうになった羽織をかけ直す。
突然の英俊の来訪によって浮足立っていた本宅内の空気は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだった。いつになく大きく響いていた足音や話し声も、耳を澄ませてようやく聞き取れるほどとなっている。
和彦のほうは、何事もなかったようにというわけにもいかず、申し訳なさと憂鬱さから、遅めの夕食もほとんど喉を通らなかった。あとから帰宅した千尋は、事情を聞きたそうに客間の前を行き来していたが、和彦の顔を一目見て、おとなしく自分の部屋に戻ったようだ。
本当は早く説明して安心させたほうがいいのだろうが、今夜はもう何をするのも億劫だ。
だから里見に、どうして英俊に余計なことを言ったのか、説明を求めるメールを打つことすらできない。仮に打てたとしても、里見のことなので、折り返し電話をかけてくるだろう。そこで、自分が冷静に話せる自信がなかった。どうして英俊と関係を持っているのかと、何かの拍子に里見に詰問してしまいそうだ。
秘密を抱えているのなら、ずっと胸の奥に抱えておけばいいのに――。
英俊と会ったことで湧き出た黒い感情が、まだ和彦の中でのたうち回っている。英俊に対してだけではない。里見にも、事実という毒を吹き込んできた俊哉にも怒りを覚えるのは、そのせいだろう。一方で、自分に怒る権利はないのだともわかっているのだ。
重苦しいため息をついて、携帯電話をやっと手元から離す。気が高ぶって眠れそうもなく、仕方なく安定剤の力を借りようとしたが、小物入れを覗いて、失望の声を洩らす。一錠も残っていなかった。
組に頼めば、処方箋もなく安定剤を入手してもらえるが、手軽さから常用する事態を恐れた和彦は、友人の心療内科医に毎回処方してもらっている。ただ、ここのところの多忙さもあって、安定剤が少なくなってきていることに気づいてはいたが、受診を後回しにしていた。
カップにかかった英俊の長い指がピクリと動く。〈誰か〉の名を、あえて和彦が口にするまでもなかった。堪えきれなくなったように、英俊から切り出したからだ。
「――……里見さんは、お前の里帰りのことをとっくに知っていた。……父さんとお前が二度目の話し合いをした場に同席していたと、今日になって里見さん本人から教えられた。本当か?」
「そうだよ」
そう答えた瞬間、驚いたように英俊が目を見開く。その反応を、ひどく冷めた目で和彦は観察していた。
「里見さんから聞かされて、居ても立ってもいられなくなったんだね。そんなに、気に食わなかった? 兄さんの知らないところで、ぼくらが大事なことを決めていたの」
睨みつけてくる英俊の胸中には今、どんな感情が渦巻いているのだろうと、傲慢な想像を巡らせる。
和彦は、かつて里見と体の関係を持っていた。英俊は現在、里見と体の関係を持っている。和彦と里見の間に特別な感情はあったが、果たして英俊と里見との間はどうなのか。
少なくとも英俊からは、さきほどの様子からも、里見への強い執着めいたものを感じるが――。
ほの暗い優越感はすぐに吐き気へと変わり、我に返った和彦は顔を強張らせた。
「ごめん、兄さん……」
小さく謝罪すると、瞬く間に顔を紅潮させた英俊がカップを取り上げ、コーヒーを和彦にぶちまけてきた。咄嗟に顔を背けたが、まだ熱いコーヒーが首筋や手にかかる。突然のことに驚いた和彦は、呆然として英俊を見つめる。
一方の英俊は、自分の行為に動揺した素振りを見せたが、すぐに気を取り直したように、低い声で言った。
「お前が、わたしを憐れむな」
何事もなかったように立ち去る英俊の後ろ姿を、打ちのめされた気分で和彦は見送った。
店内は静まり返っていたが、和彦が紙ナプキンでテーブルの上のコーヒーを拭き始めると、ぎこちなく会話が戻っていく。
うかがうように向けられるいくつもの視線から逃れるように、テーブルの上を片付けた和彦も席を立つ。支払いを済ませて店を出ると、血相を変えて組員が駆け寄ってきた。
「先生っ……」
どうやら歩道に面した窓から、店内の様子を見ていたらしい。大丈夫だと応じた拍子に、髪先からコーヒーが滴り落ちた。甲斐甲斐しく組員がハンカチで拭いてくれるのに任せながら、念のため尋ねてみる。
「兄さんは?」
「先に駐車場を出られました」
「そうか……」
和彦は力なく応じて顔を伏せる。その拍子に、コーヒーがかかった首筋がピリッと痛んだ。
文机に向かい、物憂げに携帯電話を眺めていた和彦は、肩から落ちそうになった羽織をかけ直す。
突然の英俊の来訪によって浮足立っていた本宅内の空気は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだった。いつになく大きく響いていた足音や話し声も、耳を澄ませてようやく聞き取れるほどとなっている。
和彦のほうは、何事もなかったようにというわけにもいかず、申し訳なさと憂鬱さから、遅めの夕食もほとんど喉を通らなかった。あとから帰宅した千尋は、事情を聞きたそうに客間の前を行き来していたが、和彦の顔を一目見て、おとなしく自分の部屋に戻ったようだ。
本当は早く説明して安心させたほうがいいのだろうが、今夜はもう何をするのも億劫だ。
だから里見に、どうして英俊に余計なことを言ったのか、説明を求めるメールを打つことすらできない。仮に打てたとしても、里見のことなので、折り返し電話をかけてくるだろう。そこで、自分が冷静に話せる自信がなかった。どうして英俊と関係を持っているのかと、何かの拍子に里見に詰問してしまいそうだ。
秘密を抱えているのなら、ずっと胸の奥に抱えておけばいいのに――。
英俊と会ったことで湧き出た黒い感情が、まだ和彦の中でのたうち回っている。英俊に対してだけではない。里見にも、事実という毒を吹き込んできた俊哉にも怒りを覚えるのは、そのせいだろう。一方で、自分に怒る権利はないのだともわかっているのだ。
重苦しいため息をついて、携帯電話をやっと手元から離す。気が高ぶって眠れそうもなく、仕方なく安定剤の力を借りようとしたが、小物入れを覗いて、失望の声を洩らす。一錠も残っていなかった。
組に頼めば、処方箋もなく安定剤を入手してもらえるが、手軽さから常用する事態を恐れた和彦は、友人の心療内科医に毎回処方してもらっている。ただ、ここのところの多忙さもあって、安定剤が少なくなってきていることに気づいてはいたが、受診を後回しにしていた。
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