血と束縛と

北川とも

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第42話

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 クリニックのスタッフたちも、休憩時間となると熱心にスマートフォンの画面を見つめているので、気にならないといえばうそになるが、だからといって自分が持ちたいかというと、それは別の話だ。
 和彦は一声唸ると、前髪に指を差し込む。
「買っても使いこなせないし、あまり手軽に、誰かとやり取りできるようになるのは、嫌なんだ。……息が詰まって、相手を遠ざけたいと思い始めそうだ」
 優也は一瞬、何か言いたそうな顔をしたが、次の瞬間には大きなくしゃみをする。和彦はマスクの下でため息をつき、もう一度忠告しておく。
「熱が少し下がったからって、油断しないように。いつぶり返しても不思議じゃないんだからな。何かあったら、ショートメールでSOSと送ってくるんだぞ」
 返事のつもりなのか、優也は鼻をすすり上げた。




 ビルを出た和彦は、白い息を吐き出して、空を見上げる。今日はクリニックの通常業務のあと、業者を入れてのワックスがけを行ったため、いつもより二時間ほど遅くなってクリニックを閉めた。
 和彦自身は作業に立ち会っていただけなのだが、それでもやはり、いつも以上の疲労感がある。そのせいか、歩く足取りは重い。
 夜遊びには寛容なくせに、仕事からの帰宅が遅くなることにはあまりいい顔をしない賢吾から、どんな小言をいわれるのだろうかと考えているうちに、いつものように傍らにスッと車が停まった。
「はー、疲れた……」
 車が走り出すと、シートにぐったりと身を預けて和彦はこぼす。前列に座る組員から、お疲れ様ですと声をかけられ、もぞりと身じろいで姿勢を正す。
「君らもだ。ぼくを待ってたせいで、仕事終わりが遅くなっただろ」
「わたしらはかまいませんよ。先生を待っている間は、交代でのんびりできますから」
 和彦に気をつかっての発言なのだろうが、ここは直に受け止めておく。
「ワックスがけは終わったから、あとはクリニックのスタッフたちとの食事会があって、大掃除――……。あっ、御堂さんたちとの忘年会もあるんだ」
 昨日御堂から、忘年会の日程が決まったと連絡が入ったのだ。店選びと予約は任せてほしいとのことで、甘えることにした。すでに中嶋にも伝達済みで、何事もなければ、秘密の忘年会はクリスマス前に開催されるだろう。
「少しぐらい、楽しいことがないとなあ……」
 和彦の呟きに、助手席の組員がちらりと振り返り、よくわかっていない顔をしながらも頷いてくれる。ふふっ、と笑った和彦は、ついでとばかりに尋ねてみた。
「組長は、もう戻っているのか?」
「夕方、一旦戻られて、またすぐに出かけられたそうですが……。本宅に電話して、確認してみます」
「いや、いいんだ」
 和彦もそれなりに忙しいが、賢吾には負ける。それはもう、比べるのもおこがましいレベルで。最近は特に忙しいようで、そこに、自分の抱えた厄介な事情も影響しているのではないかと、和彦は気が気でない。
 賢吾に尋ねたところで、うまく躱されるのがオチだろうが。
 物思いに耽っていた和彦の耳に、携帯電話の着信音が届く。組員のものだ。即座に電話に出た組員が抑えた声音でぼそぼそと話したあと、困惑した。そう、後ろから見ていてもわかるほど。
 そして、和彦を振り返った。
 この瞬間、ざわりと肌が粟立った。困惑を隠しもしない組員の様子から、嫌なものを感じ取ったからだ。
 組員から、本宅で何が起こった――起こっているのか、手短に告げられて、血の気が引く。和彦は激しく動揺し、無意識に自分の手の甲に爪を立てていた。
「組長に指示を仰ぎますから、先生は一旦、組事務所で待たれたほうが……。とにかく今は、本宅に戻らないでください」
「だけどっ……」
「組で対処します。先生は心配しないでください」
 そうではないと、身を乗り出そうとする。なんとか動揺を抑え込んだ和彦は、決然として告げる。
「構わないから、このまま本宅に向かってくれ」
 当然のように組員二人は反対したが、和彦は聞き入れない。組の事務所に連れて行かれたところで、自分一人で本宅に戻るだけだとまで言うと、ようやく賢吾に連絡を取ってくれる。すでに本宅からの報告を聞いていたという賢吾は、和彦を説得しようとはしなかった。
 大丈夫かと短く問われ、平気だとやはり短く応じる。その頃には本宅の建物が見えてきたため、和彦のほうから電話を切った。
 車がゆっくりと本宅の前に停まる。立派な門扉の前には、すでに数人の人影が立っており、それぞれが車のライトに一瞬眩しげに目を細めた。その中に一人、組員ではない人物の姿があった。

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