血と束縛と

北川とも

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第40話

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 秦と中嶋の関係にこれ以上立ち入っては、単なるお節介だなと見切りをつけ、和彦は帰り仕度を始める。まだ飲み足りないし、弱音も吐き足りないのだが、秦をつき合わせるのも気が咎めた。
 秦なりに今夜は傷心のようで、いつものように甘ったるい台詞は期待できないだろう。――別に聞きたいわけではないが。
 立ち上がり、コートに袖を通す和彦を、驚いたように秦が見つめてくる。
「もうお帰りですか?」
「ぼくは、中嶋くんと飲みたかったんだ。せっかくの機会を潰した罰として、ここの支払いは君が持ってくれ」
「それはもちろんです。でも、もう少しわたしにつき合ってもらえると嬉しいのですが……」
「今夜は、他人の愚痴を聞ける精神状態じゃない。それに、中嶋くんの同行があって、護衛なしでの夜遊びを許可されているのに、肝心の彼がいなくなったんだ。それが組にバレると面倒だ」
 引き止めようとする秦の声を振り切って、個室を出ようとした和彦だが、ふとあることが気になって足を止める。思い切って秦を振り返った。
「――……あの男から、連絡はないのか」
「聞きたいことは、一つでは?」
 和彦が唇を引き結ぶと、秦は気障な仕種で肩を竦める。そして、緩く首を横に振った。それを見届けてから、今度こそ和彦は個室をあとにした。
 きちんと四人分の飲み代を支払って店を出ると、エレベーターホールに向かいながらマフラーを首に巻く。
 期待したわけではないので、失望はなかった。ただ気まぐれに、行方をくらました男――鷹津のことを尋ねただけで、それ以上の意味はない。和彦はそう自分に言い聞かせながらエレベーターに乗り込んだ。
 ビルのエントランスまで降り、外の通りを眺める。寒そうに肩を竦めて歩く人たちの姿を見て、帰りはどうしようかと考えていた。この時間帯、すぐにタクシーが捕まるとも思えないが、だからといって長嶺組から迎えを寄越してもらうわけにもいかない。
 ひとまず中嶋に、一人で帰るとメールだけでもしておこうと、携帯電話を取り出す。簡単な文章を打ち込んでから和彦は顔を上げ、再び通りに目を向ける。何げない一連の動作だが、数瞬遅れて強烈な違和感に襲われた。
 今確かに、自分は〈何か〉を視界に捉えた――。
 それが何であるか理解したとき、和彦はエントランスから通りへと飛び出していた。ちょうど、若者たちのグループが通りいっぱいに広がって、楽しげに声を上げて歩いている。その間から、見覚えのある後ろ姿がちらりと見えた。
 ジーンズにブルゾンというよくある組み合わせの格好ながら、引き締まった体つきと、癖のある長めの髪の男。
 その男が肩越しに振り返り、鋭い目元が確認できた。和彦を一瞥したことも。
 男の姿をもっと近くで確認しようとするが、男は巧みに人ごみに紛れながら、あっという間に姿を隠してしまう。それでも背の高い男のため、ときおり頭の先が覗く。和彦は必死に追いすがろうとして、とうとう声を上げた。
「鷹津――……、秀っ」
 なかなか道を開けようとしない若者たちに苛立つ。なんとか追い抜こうとしながら、思い出していた。
 前にもこんなことがあったのだ。賢吾と街中を歩いていて、人ごみに紛れるようにして立っていた鷹津を見かけた。あのときは、単なる見間違いかと気にも留めなかったが、今にして断言できる。
 鷹津はあの場にいて、和彦を見張っていた。いや、見守っていたのだ。そして今夜も。
 ようやく人がばらけ、和彦が駆け出そうとしたとき、背後から腕を掴まれて引き止められた。
「先生っ」
 ハッとして振り返ると、中嶋が立っていた。
「どこに行くんですか。一人で」
「あっ、いや……」
 和彦は気もそぞろに応じながら、鷹津が歩いて行った方角を見つめる。完全に姿を見失ってしまった。肩を落とし、ため息をつくと、中嶋に顔を覗き込まれる。
「何かあったんですか?」
「……知り合いがいたような気がしたんだ。けど、見間違いだったようだ」
 中嶋から探るような眼差しを向けられ、それが嫌で強引に話題を変える。
「加藤くんは? 一緒に帰ったかと思ったんだ」
「まさか。先生を放って、そんなことしませんよ。あいつは電車で帰ったようです。俺は、タクシーを捕まえようと思ったんですけど、こんな場所ですから、なかなか。一旦先生のところに戻って、店から連れ出そうとしたら――……」
 中嶋は露骨に、和彦が誰を追おうとしていたのか気にしている。もし、鷹津がいたと知ったら、和彦が懇願したところで黙ってはいないだろう。まっさきに南郷に報告するか、それとも賢吾か。なんにせよ、自分のために最大限利用するはずだ。
「気になりますね。先生が必死で追いかけようとしていた相手……」
「医大時代の知り合いだ。聞いたところでおもしろくはないぞ」
「先生の話は、なんだっておもしろいですけどね」
 ニヤリと笑いかけてきた中嶋だが、心なしかいつもよりぎこちない。今から別の店に移動するという心境ではないだろう。和彦も、すぐにでも体からアルコール分を抜いて、ついさきほど見た光景を冷静に思い返したかった。
 気にかけるべきことは他にあると頭の冷静な部分ではわかっているが、気持ちが、鷹津の存在に引きずられている。引きずられすぎて、誰かにそれを悟られる事態だけは、避けたかった。
「今夜はもうお開きということでいいですか?」
 案の定、中嶋のほうから切り出してくる。和彦は頷き、二人並んで通りを歩き始める。
「タクシーが捕まりそうなところまで、少し歩きましょう。その間、俺の愚痴につき合ってください」
 本当に愚痴をこぼしたくて堪らないといった中嶋の口ぶりに、苦笑しながら和彦は頷く。
「愚痴は聞くけど、アドバイスはできないからな」
「……先生の普段の生活を知っていると、恐れ多くて、そんなもの求められません」
 どういう意味だろうかと思ったが、とりあえず今は黙って中嶋の愚痴を聞くことにする。
 ただ、もう一度だけと思いながら、鷹津が消えた方向を和彦はそっと見遣った。

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