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第39話
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部屋に入ると、すでに三組の布団が延べられていた。別の階の、賢吾の名で取られた部屋には、一組の布団が延べられているはずだ。当の賢吾は、どちらの部屋で休むつもりなのかは知らないが――。
風呂上がりで火照っているせいばかりではなく、別のものによって和彦の顔がさらに熱くなる。
着込んでいた丹前を脱ぐと、お茶を一口飲んでから窓に歩み寄る。まだ宵の口といえる時間のため、通りは街灯や店先の明かりで照らされており、昼間ほどではないが人が行き交っている。中には、浴衣に丹前姿の人もあり、それがいかにも温泉街らしい。
今の自分は寛いでいるなと、ふと和彦は実感する。今日一日、実家のことをまったく思い出さなかったのが、その証拠だ。本宅を出るとき、賢吾に言われて携帯電話を置いてきたことも関係あるだろう。
知らない顔をしていれば通り過ぎる嵐ではない。相手が父親だからこそ、きちんと向き合い、なんらかの対処をしなければならないし、話はもう個人レベルではなく、家同士の問題となっている。和彦をオンナにしている限り、賢吾も難しい判断を迫られるのは明らかだ。
寸前まで、寛いでいると実感していたはずなのに、すでにもう、自分が厄介な存在であるという現実に胸を塞がれている。惜しみなく与えられる、男たちからの情愛に報いたいという気持ちがあるからこそ、どうにかしたいと足掻きたくなる。
ふっと息を吐き出した次の瞬間、窓ガラスに反射して映る自分以外の人影に気づく。慌てて振り返ると、浴衣姿の千尋が立っていた。
「風呂に入ってきたのか?」
笑みをこぼして和彦が尋ねると、頷いた千尋が側にやってくる。
「入った。ほかほかだよ。……先生も、一緒に入ればよかったのに」
「せっかくの機会だから、やっぱり大きい風呂のほうを選ぶんだよ」
言うまでもなく、千尋の背には大きな刺青が入っているため、貸切にでもしない限り大浴場には入れない。些細なことだが、千尋はもう普通の生き方ができる青年ではないのだと、改めて実感する。
再び窓の外に目を向けていると、肩に腕が回される。自分で言った通り、浴衣を通して千尋の高い体温が伝わってくる。一方の千尋も、同じことを感じたらしい。
「先生もしっかり温まってきたんだね。体、ほかほか」
千尋の表現がなんだかおかしくて、つい声を洩らして笑うと、ため息交じりに言われた。
「ほっとする。先生がここにいることに」
「何言ってるんだ。もう何日も、本宅でも顔を合わせてるだろ」
「でも、ピリピリしてた。今は違う。顔つきが穏やか……元に戻った」
ハッとした和彦は、思わず千尋に目を向ける。紅葉を見ながら、子供のように拗ねた表情を浮かべていた青年は、今は大人びた静かな表情を湛えている。
「……ずっと、気をつかってくれていたんだな」
本宅で過ごす間、千尋は同じ布団に潜り込んではきても、和彦を求めてくることはなかった。それは、賢吾も同じだ。父子揃って、和彦の精神状態が落ち着き、気持ちが解れてくるのを待っていたのだ。いつも、和彦が塞ぎ込んだときにそうしていたように。
「そんないいものじゃないよ。先生が実家に戻ると言い出すんじゃないかって、見張ってたんだから」
「ぼくが、実家に戻るって……」
「先生、優しいだろ。ときどき腹が立つほど。――俺だってわかるよ。先生が、俺やオヤジに迷惑をかけたくないとか考えて、大事なことを一人で抱え込んでたことぐらい。先生が泣きながら寝てる姿を、隣で見てたんだから」
肩にかかった千尋の手にぐっと力が加わる。
「俺、大丈夫だから。何があっても、先生を責めたりしないし、迷惑だなんて思わない。……そんな権利もないしさ。ただ、先生に側にいてほしいんだ。どこにも行かないでほしい」
「千尋……」
「カッコいいこと言って、今の俺じゃ、難しいことはオヤジに丸投するしかないんだけど。まだまだ俺は、ガキだ。先生に犬っころみたいに甘えることしかできない」
卑屈さもなくこんなことを言えるのが、千尋の美点だ。生まれた頃から、組を背負う長嶺の男たちを見てきて培ったものが、確固たる芯となって千尋の中にはある。きっと将来、千尋もあの怖い男たちのようになるのだ。
和彦はちらりと笑みを浮かべると、千尋の頬を軽く抓り上げる。
「あまり急いで、組長みたいになられても困る。――演技だとしても、お前の屈託のなさと明るさに、ぼくはほっとするんだ」
千尋は何か言いかけたあと、きゅっと唇を引き結ぶ。片手で和彦の肩を抱いたまま顔を近づけてきたので、意図を察して慌てて頭を引く。
「外から見えるっ……」
「見えないよ。見えたとしても、湯に浸かってのぼせた恋人同士が盛り上がってるなー、ぐらいにしか思われないよ」
風呂上がりで火照っているせいばかりではなく、別のものによって和彦の顔がさらに熱くなる。
着込んでいた丹前を脱ぐと、お茶を一口飲んでから窓に歩み寄る。まだ宵の口といえる時間のため、通りは街灯や店先の明かりで照らされており、昼間ほどではないが人が行き交っている。中には、浴衣に丹前姿の人もあり、それがいかにも温泉街らしい。
今の自分は寛いでいるなと、ふと和彦は実感する。今日一日、実家のことをまったく思い出さなかったのが、その証拠だ。本宅を出るとき、賢吾に言われて携帯電話を置いてきたことも関係あるだろう。
知らない顔をしていれば通り過ぎる嵐ではない。相手が父親だからこそ、きちんと向き合い、なんらかの対処をしなければならないし、話はもう個人レベルではなく、家同士の問題となっている。和彦をオンナにしている限り、賢吾も難しい判断を迫られるのは明らかだ。
寸前まで、寛いでいると実感していたはずなのに、すでにもう、自分が厄介な存在であるという現実に胸を塞がれている。惜しみなく与えられる、男たちからの情愛に報いたいという気持ちがあるからこそ、どうにかしたいと足掻きたくなる。
ふっと息を吐き出した次の瞬間、窓ガラスに反射して映る自分以外の人影に気づく。慌てて振り返ると、浴衣姿の千尋が立っていた。
「風呂に入ってきたのか?」
笑みをこぼして和彦が尋ねると、頷いた千尋が側にやってくる。
「入った。ほかほかだよ。……先生も、一緒に入ればよかったのに」
「せっかくの機会だから、やっぱり大きい風呂のほうを選ぶんだよ」
言うまでもなく、千尋の背には大きな刺青が入っているため、貸切にでもしない限り大浴場には入れない。些細なことだが、千尋はもう普通の生き方ができる青年ではないのだと、改めて実感する。
再び窓の外に目を向けていると、肩に腕が回される。自分で言った通り、浴衣を通して千尋の高い体温が伝わってくる。一方の千尋も、同じことを感じたらしい。
「先生もしっかり温まってきたんだね。体、ほかほか」
千尋の表現がなんだかおかしくて、つい声を洩らして笑うと、ため息交じりに言われた。
「ほっとする。先生がここにいることに」
「何言ってるんだ。もう何日も、本宅でも顔を合わせてるだろ」
「でも、ピリピリしてた。今は違う。顔つきが穏やか……元に戻った」
ハッとした和彦は、思わず千尋に目を向ける。紅葉を見ながら、子供のように拗ねた表情を浮かべていた青年は、今は大人びた静かな表情を湛えている。
「……ずっと、気をつかってくれていたんだな」
本宅で過ごす間、千尋は同じ布団に潜り込んではきても、和彦を求めてくることはなかった。それは、賢吾も同じだ。父子揃って、和彦の精神状態が落ち着き、気持ちが解れてくるのを待っていたのだ。いつも、和彦が塞ぎ込んだときにそうしていたように。
「そんないいものじゃないよ。先生が実家に戻ると言い出すんじゃないかって、見張ってたんだから」
「ぼくが、実家に戻るって……」
「先生、優しいだろ。ときどき腹が立つほど。――俺だってわかるよ。先生が、俺やオヤジに迷惑をかけたくないとか考えて、大事なことを一人で抱え込んでたことぐらい。先生が泣きながら寝てる姿を、隣で見てたんだから」
肩にかかった千尋の手にぐっと力が加わる。
「俺、大丈夫だから。何があっても、先生を責めたりしないし、迷惑だなんて思わない。……そんな権利もないしさ。ただ、先生に側にいてほしいんだ。どこにも行かないでほしい」
「千尋……」
「カッコいいこと言って、今の俺じゃ、難しいことはオヤジに丸投するしかないんだけど。まだまだ俺は、ガキだ。先生に犬っころみたいに甘えることしかできない」
卑屈さもなくこんなことを言えるのが、千尋の美点だ。生まれた頃から、組を背負う長嶺の男たちを見てきて培ったものが、確固たる芯となって千尋の中にはある。きっと将来、千尋もあの怖い男たちのようになるのだ。
和彦はちらりと笑みを浮かべると、千尋の頬を軽く抓り上げる。
「あまり急いで、組長みたいになられても困る。――演技だとしても、お前の屈託のなさと明るさに、ぼくはほっとするんだ」
千尋は何か言いかけたあと、きゅっと唇を引き結ぶ。片手で和彦の肩を抱いたまま顔を近づけてきたので、意図を察して慌てて頭を引く。
「外から見えるっ……」
「見えないよ。見えたとしても、湯に浸かってのぼせた恋人同士が盛り上がってるなー、ぐらいにしか思われないよ」
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