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第37話
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床の上に積み重ねた本たちを、本棚のわずかなスペースに押し込んでいると、廊下からパタパタと足音が近づいてくる。
「先生っ」
勢いよく千尋が書斎に駆け込んでくる。せっかく着替えを用意してやったというのに、下着を穿いただけの姿だ。一体何事だと和彦は目を丸くする。
「……着替えなら出しておいただろ。というか、お前がカラスの行水なのは知ってるけど、さすがに早すぎだろ。きちんと体を洗ったのか?」
「ピッカピカに磨いてきたけど」
どうだか、と呟いた和彦の側に千尋が歩み寄ってきたかと思うと、いきなり抱き締められた。まだ湿り気を帯びた肌からは、確かに石けんの香りが立ちのぼっている。
「――ここ最近の先生は、ふっとどこかに行っちゃいそうで、怖い……というより、不安」
「何言ってるんだ」
和彦は、宥めるように千尋の背をさすろうとして、ドキリとした。自分の記憶にある、滑らかで瑞々しい肌の感触ではなかったからだ。ここで、今の千尋の背に何があるのか思い出した。
「ああ、そうか。お披露目してくれるんだったな」
和彦の言葉を受け、体を離した千尋が背をこちらに向ける。久しぶりに目にした千尋の裸の背には、一面に刺青が彫られていた。和彦がこれまで見てきた男たちの刺青とは違い、鮮やかな色が使われているわけではなく、黒一色で描かれている。しかし、墨の濃淡が使い分けられ、肌本来の色も覗いており、こういう刺青もあるのかと、息を呑む。
「墨を入れたばかりだから、まだ黒々としてるけど、時間が経ってくると、少しずつ色が落ち着いてくるんだ。オヤジみたいな青みがかった色合いが出るのは、何年かかるだろ……」
刺青の細かい部分に見入っていた和彦だが、ハッと我に返って一歩だけ後ずさる。こうすることで、千尋の背に一体何が彫られているのか、よく見ることができた。
不思議な獣だ。千尋の肌の色を活かした白い毛と、墨で塗りたくるように彫られた部分が黒い毛として表現され、それが獣の毛並みと柄を巧みに表している。獣は丸い目を見開き、牙を剥き出しにして、何かを威嚇しているようだった。その理由はおそらく、獣の体にたおやかそうな腕を回し、艶めかしい表情で寄り添っている人間を守るためだろう。人一人を背に乗せられそうな大きな体躯は、それが可能だと思わせる力強さを漲らせている。
和彦の顔が知らず知らずのうちに熱くなってくる。獣に寄り添っているのは女かと思ったが、そうではないと気づいたのだ。はだけた着物の胸元に膨らみはなく、裾が大きく捲れ上がって露わになったふくらはぎから腿のラインは、明らかに女のものではない。
これは、男だ。そして、男が寄り添っている獣は――。
「……犬、か」
「先生、里見八犬伝って知ってる?」
「中学生のときに読んだ」
「さすが。俺なんて、刺青のモチーフを相談したときに、彫り師の人に言われて初めて読んでみたんだ。で、これだって思ったんだ」
「執念深い犬だよな。初めて読んだときは、怖かった」
会話を交わしながら和彦は、てのひらでそっと背を撫でる。そこに彫られた犬を可愛がるように。
「でも、一途だ。惚れたお姫様をどうしても自分のものにしたくて、犬の身ですごいことをやった。結果として、手に入れたんだ」
「だからって、お前、この刺青は……」
千尋がピクリと肩を震わせ、振り返った顔は不安そうな表情を浮かべている。
「――……この刺青、嫌い?」
その表情から、千尋が何を思ってこの刺青を入れたのか、推測するのは容易い。
「きれいだ。だけどお前、こんなに大きなのを入れたら、体に負担が――」
言いかけて、やめる。こんなに立派な刺青を入れた今、忠告はすでに無駄であり、ささやかな道徳心を示したい和彦の偽善でしかない。何もかも覚悟したうえで、この刺青を背負うことにした千尋の気持ちを尊重するべきなのだろう。
「本当にきれいだ。ぼくがいままで見てきた刺青とは、色合いも雰囲気も違う。……お前だけの刺青だな」
「見たらわかると思うけど、俺と先生の姿だよ」
和彦と向き直った千尋が、強い光を放つ目でまっすぐ見つめてくる。怖いほどに純粋で一途な目は、ある意味、凶器だ。和彦の心に深々と突き刺さってくる。言葉ではなく眼差しで、こう訴えてくるのだ。
自分から逃げたら許さない、と。
「先生のことだからきっと、この先、もし自分に飽きたらどうするんだと言いたいだろうけど、そんなこと心配しなくていいよ。俺はずっと決めている。今は、じいちゃんとオヤジのものでもある先生を、将来絶対、俺だけのものに……オンナにするって」
「心配って……、お前、自惚れるな」
「先生っ」
勢いよく千尋が書斎に駆け込んでくる。せっかく着替えを用意してやったというのに、下着を穿いただけの姿だ。一体何事だと和彦は目を丸くする。
「……着替えなら出しておいただろ。というか、お前がカラスの行水なのは知ってるけど、さすがに早すぎだろ。きちんと体を洗ったのか?」
「ピッカピカに磨いてきたけど」
どうだか、と呟いた和彦の側に千尋が歩み寄ってきたかと思うと、いきなり抱き締められた。まだ湿り気を帯びた肌からは、確かに石けんの香りが立ちのぼっている。
「――ここ最近の先生は、ふっとどこかに行っちゃいそうで、怖い……というより、不安」
「何言ってるんだ」
和彦は、宥めるように千尋の背をさすろうとして、ドキリとした。自分の記憶にある、滑らかで瑞々しい肌の感触ではなかったからだ。ここで、今の千尋の背に何があるのか思い出した。
「ああ、そうか。お披露目してくれるんだったな」
和彦の言葉を受け、体を離した千尋が背をこちらに向ける。久しぶりに目にした千尋の裸の背には、一面に刺青が彫られていた。和彦がこれまで見てきた男たちの刺青とは違い、鮮やかな色が使われているわけではなく、黒一色で描かれている。しかし、墨の濃淡が使い分けられ、肌本来の色も覗いており、こういう刺青もあるのかと、息を呑む。
「墨を入れたばかりだから、まだ黒々としてるけど、時間が経ってくると、少しずつ色が落ち着いてくるんだ。オヤジみたいな青みがかった色合いが出るのは、何年かかるだろ……」
刺青の細かい部分に見入っていた和彦だが、ハッと我に返って一歩だけ後ずさる。こうすることで、千尋の背に一体何が彫られているのか、よく見ることができた。
不思議な獣だ。千尋の肌の色を活かした白い毛と、墨で塗りたくるように彫られた部分が黒い毛として表現され、それが獣の毛並みと柄を巧みに表している。獣は丸い目を見開き、牙を剥き出しにして、何かを威嚇しているようだった。その理由はおそらく、獣の体にたおやかそうな腕を回し、艶めかしい表情で寄り添っている人間を守るためだろう。人一人を背に乗せられそうな大きな体躯は、それが可能だと思わせる力強さを漲らせている。
和彦の顔が知らず知らずのうちに熱くなってくる。獣に寄り添っているのは女かと思ったが、そうではないと気づいたのだ。はだけた着物の胸元に膨らみはなく、裾が大きく捲れ上がって露わになったふくらはぎから腿のラインは、明らかに女のものではない。
これは、男だ。そして、男が寄り添っている獣は――。
「……犬、か」
「先生、里見八犬伝って知ってる?」
「中学生のときに読んだ」
「さすが。俺なんて、刺青のモチーフを相談したときに、彫り師の人に言われて初めて読んでみたんだ。で、これだって思ったんだ」
「執念深い犬だよな。初めて読んだときは、怖かった」
会話を交わしながら和彦は、てのひらでそっと背を撫でる。そこに彫られた犬を可愛がるように。
「でも、一途だ。惚れたお姫様をどうしても自分のものにしたくて、犬の身ですごいことをやった。結果として、手に入れたんだ」
「だからって、お前、この刺青は……」
千尋がピクリと肩を震わせ、振り返った顔は不安そうな表情を浮かべている。
「――……この刺青、嫌い?」
その表情から、千尋が何を思ってこの刺青を入れたのか、推測するのは容易い。
「きれいだ。だけどお前、こんなに大きなのを入れたら、体に負担が――」
言いかけて、やめる。こんなに立派な刺青を入れた今、忠告はすでに無駄であり、ささやかな道徳心を示したい和彦の偽善でしかない。何もかも覚悟したうえで、この刺青を背負うことにした千尋の気持ちを尊重するべきなのだろう。
「本当にきれいだ。ぼくがいままで見てきた刺青とは、色合いも雰囲気も違う。……お前だけの刺青だな」
「見たらわかると思うけど、俺と先生の姿だよ」
和彦と向き直った千尋が、強い光を放つ目でまっすぐ見つめてくる。怖いほどに純粋で一途な目は、ある意味、凶器だ。和彦の心に深々と突き刺さってくる。言葉ではなく眼差しで、こう訴えてくるのだ。
自分から逃げたら許さない、と。
「先生のことだからきっと、この先、もし自分に飽きたらどうするんだと言いたいだろうけど、そんなこと心配しなくていいよ。俺はずっと決めている。今は、じいちゃんとオヤジのものでもある先生を、将来絶対、俺だけのものに……オンナにするって」
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