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第37話
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しおりを挟むエレベーターから降りて和彦の視界にまっさきに飛び込んできたのは、エントランスの隅に立つ、地味な色合いのスーツを着た男の姿だった。
ごっそりと感情をどこかに置き忘れたような顔で、じっと外を見つめている。静かだが鋭い眼差しは、のんびりと景色を眺めているわけではない。怪しげな人物がうろついていないか、警戒しているのだ。
和彦は気配を殺して近づいてみたが、とっくに気づいていたらしく、ふっと表情を和らげてこちらを見た。
「――今朝は風が少し冷たい」
開口一番の三田村の言葉に、和彦はにっこりと笑む。久しぶりに間近で聞いたハスキーな声に、耳の奥がくすぐられる。
「もう十月だからな……。この間、海で泳いだような感覚なのに」
「先生がマフラーを巻くようになるまで、あっという間だろうな」
「……ぼくは別に巻かなくてもいいんだが、周りが言うから、巻いていたんだ。そんなに、寒々しそうに見えていたのかな」
「みんな、先生に風邪をひかせたら大変だと、気が気じゃなかったんだ。――俺も」
囁くようにさりげなく、言葉が付け加えられる。和彦がじっと見つめると、三田村は居心地悪そうに肩をすくめ、顔を背けた。らしくないことを言ってしまった、と三田村の心の声が聞こえてきそうな仕種だ。
和彦は必死に笑いを押し殺し、三田村の腕に手をかける。
「行こう、三田村。映画に間に合わない」
土日を一緒に過ごしたいという電話越しの和彦のわがままに、三田村は即答した。先生の望み通りに、と。
三田村と顔を合わせるまで、実は和彦は緊張していた。これまでのように、自分に対して三田村が、優しい眼差しを向けてくれるか心配だったからだ。しかし、杞憂に終わった。
複雑な想いを抱えているはずの三田村は、それを表に出すようなことはしない。そんな男の誠実さに、和彦は二日間をかけて報いるつもりだった。
三田村と並んで歩きながら駐車場に向かっていると、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴る。映画館に入る前に電源を切っておかなければと思いながら、誰からの電話かと確認した瞬間、顔が強張っていた。
「先生?」
足を止めた三田村が不審げに眉をひそめる。一気に顔色が変わったと、和彦自身、自覚はあった。
「……長嶺、会長からだ」
そう呟いてから、短く息を吐いて電話に出た。
「もしもし――……」
『今、大丈夫かね、先生』
挨拶もそこそこに、守光は本題を切り出した。
『今日と明日はクリニックは休みだろう。久しぶりに、こちらで過ごせないかと思ったんだ』
「こちらで、って……、本部でですか?」
『あんたに味わってもらいたいと、美味い店も見つけてある。昼は、そこに行こう』
否という返事は聞かないとばかりに守光が、穏やかな口調ながら予定を話し始める。和彦は動揺しながら、半ば無意識に三田村の腕を掴んでいた。
「あの……、今日と明日はちょっと……」
『予定があるかね?』
「……はい」
『わしの誘いより優先するほどの予定とは――』
賢吾によく似た太く艶のある声が、わずかに怖い響きを帯びる。
『あんたに会いたいのは、この間言った、相談したいことがあるからなんだが』
「本当に、申し訳ありません。休み明けに、必ずお伺いします。ですから……」
見えない重圧に押し潰されそうになり、呼吸が速くなる。それでもなんとか断りの言葉を口にすると、電話の向こうから低い笑い声が聞こえてきた。
『年甲斐もなく、あんたに意地悪をしたな。すまなかった、先生。気にせず、楽しんでくれ。ただし――あんたと相談したいことがあるのは本当だ。それも、なるべく早く。休み明けは、わしのほうで予定があるから、また連絡すると思うが、かまわんかね?』
「はい、それはもちろん」
なんとか電話を終え、ぎこちなく肩から力を抜く。気遣うような三田村の眼差しに、小さく笑いかけた。
「行こうか、三田村」
「先生……、今日は――」
「決めているんだ。今日と明日は、何があっても、ぼくの〈オトコ〉と一緒に過ごすって」
三田村はもう何も言わず、肩にそっと手をかけてきた。その感触に気持ちが高ぶり、涙が滲んだ目を見られないよう、和彦は顔を伏せた。
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