776 / 1,267
第33話
(11)
しおりを挟む
同じように、鷹津にも要求するのだろうかと想像しかけたが、エレベーターの扉が開いたのをきっかけに、半ば強引に頭を切り替える。
三田村が傍らにいて、中嶋が待っていて、海がすぐ近くにあり、とりあえず今のこの時間を楽しもうと思った。和彦がそうすることを、男たちは望んでいるのだから。
中嶋と合流して、さっそく海に繰り出す。
長嶺の男たちが法要に出席している中、のんびりと自分だけ楽しんでいいのだろうかと、ささやかな罪悪感の疼きに苛まれていたのは、海に浸かってわずかな間だった。
ごくごく普通の家族やカップル、学生らしいグループたちと同じように泳ぎ、ときにはただ波に身を任せて浮かんでいると、頭の中は空っぽになる。水の心地いい冷たさと、頭上に降り注ぐ強い陽射しに、夏の一時を楽しめと諭されているようだ。
ただ、こんなに気楽なのは和彦だけのようで、砂浜で交替で荷物の番をしている中嶋は、海に入っている和彦を目で追いつつ、携帯電話で誰かとたびたび連絡を取っていた。三田村も、涼しい店に入るどころか、目立たないよう身を潜め、こちらの様子をうかがっているだろう。そういう男なのだ。
「――秦さんに羨ましがられましたよ」
休憩のためレジャーシートに座ってお茶を飲んでいると、前触れもなく中嶋が切り出す。
「羨ましがられるって……、何を?」
「今、先生と海にいて、泳いでいると言ったんです。あの人、ここのところ休み返上で仕事をしているんで、海の画像でも送りつけようかと思って」
さきほどまじめな顔で、そんなことを秦と話していたのかと、和彦は微苦笑を洩らす。
「あの男の場合、なんの仕事で忙しいのか、さっぱり見当がつかない」
「相変わらずいろいろやっているみたいですね。――長嶺組と組んで」
「気にはなるが、知りたいとは思わない。せいぜい、雑貨屋の経営が順調なのかどうかぐらいか、聞けるのは」
軽く頭を振ると、髪の先からしずくが落ちる。すかさず中嶋がタオルで拭いてくれた。
「あっ、そうだ。先生の水着姿を撮って送ろうかな」
「……男の水着姿なんて見ても、誰もおもしろくないだろう」
「先生のなら、ありがたがるかもしれませんよ」
芝居がかったニヤニヤ笑いを浮かべて、中嶋が和彦の体を見る。ここが海でなければ、多少なりと中嶋の視線を意識したのかもしれないが、和彦は動じることなく言い返す。
「だったらぼくは、女の子からナンパされている君の姿を隠し撮りして送るからな」
中嶋が急に神妙な顔となり、声を潜めた。
「見ていたんですか……」
「モテるよなー、君は。あしらい方も慣れた様子だったし。ぼくも見習わないと」
「勘弁してください。本当にあちこちの方面から、先生に余計なことは教えるなと、ときどき忠告をもらっているんですから、俺」
「――……例えば、南郷さんから?」
いくぶん声を潜めて問いかけると、中嶋は食えない笑みを浮かべて首を傾げた。
「さあ、どうでしょう」
実にわざとらしい動作で中嶋が携帯電話を手に取り、時間を確認する。
「さて先生、交替でもう一泳ぎしたら、宿に引き上げますか」
「まだ早くないか?」
「先生にはしっかりと湯に浸かって体を温めてもらって、身支度を整えてもらわないといけません。後ほど長嶺組の皆さんで、外で食事をされるそうですよ」
中嶋の説明を聞いて和彦は、顔をしかめる。
「どうして当事者のぼくが知らなくて、組の人間じゃない君が知ってるんだ」
「ギリギリまで先生に楽しんでもらいたいという配慮でしょう」
それが事実がどうかはともかく、納得するしかない。和彦はふっと息を吐き出すと、お茶をもう一口飲んだ。
スーツに着替えてロビーに降りてきた和彦を見るなり、珍しく三田村は破顔した。
「泳ぎ疲れたから、横になりたくて仕方ないという顔だ、先生」
支度を手伝ってくれた中嶋に、軽く腕を突かれる。
「三田村さんにまで言われてますよ」
「……食事に出ることを最初に教えてくれていたら、ぼくだってもう少し余力を残していたよ……」
和彦はため息交じりに応じると、髪に指を差し込む。部屋付きの風呂に入ったあと、自分でやると訴えたが、中嶋が丁寧にドライヤーで乾かしてくれたのだ。普段から何かと世話を焼いてくれる中嶋だが、今日は特に甲斐甲斐しい。本来なら詰め所で待機しているところを、和彦のおかげで自分も呼んでもらえたというのが理由のようだ。
「それで、これからぼくは、どうしたらいいんだ?」
「ここから近くにある店に、組長たちは直接向かわれるそうだから、先生にも来てほしいそうだ」
三田村が傍らにいて、中嶋が待っていて、海がすぐ近くにあり、とりあえず今のこの時間を楽しもうと思った。和彦がそうすることを、男たちは望んでいるのだから。
中嶋と合流して、さっそく海に繰り出す。
長嶺の男たちが法要に出席している中、のんびりと自分だけ楽しんでいいのだろうかと、ささやかな罪悪感の疼きに苛まれていたのは、海に浸かってわずかな間だった。
ごくごく普通の家族やカップル、学生らしいグループたちと同じように泳ぎ、ときにはただ波に身を任せて浮かんでいると、頭の中は空っぽになる。水の心地いい冷たさと、頭上に降り注ぐ強い陽射しに、夏の一時を楽しめと諭されているようだ。
ただ、こんなに気楽なのは和彦だけのようで、砂浜で交替で荷物の番をしている中嶋は、海に入っている和彦を目で追いつつ、携帯電話で誰かとたびたび連絡を取っていた。三田村も、涼しい店に入るどころか、目立たないよう身を潜め、こちらの様子をうかがっているだろう。そういう男なのだ。
「――秦さんに羨ましがられましたよ」
休憩のためレジャーシートに座ってお茶を飲んでいると、前触れもなく中嶋が切り出す。
「羨ましがられるって……、何を?」
「今、先生と海にいて、泳いでいると言ったんです。あの人、ここのところ休み返上で仕事をしているんで、海の画像でも送りつけようかと思って」
さきほどまじめな顔で、そんなことを秦と話していたのかと、和彦は微苦笑を洩らす。
「あの男の場合、なんの仕事で忙しいのか、さっぱり見当がつかない」
「相変わらずいろいろやっているみたいですね。――長嶺組と組んで」
「気にはなるが、知りたいとは思わない。せいぜい、雑貨屋の経営が順調なのかどうかぐらいか、聞けるのは」
軽く頭を振ると、髪の先からしずくが落ちる。すかさず中嶋がタオルで拭いてくれた。
「あっ、そうだ。先生の水着姿を撮って送ろうかな」
「……男の水着姿なんて見ても、誰もおもしろくないだろう」
「先生のなら、ありがたがるかもしれませんよ」
芝居がかったニヤニヤ笑いを浮かべて、中嶋が和彦の体を見る。ここが海でなければ、多少なりと中嶋の視線を意識したのかもしれないが、和彦は動じることなく言い返す。
「だったらぼくは、女の子からナンパされている君の姿を隠し撮りして送るからな」
中嶋が急に神妙な顔となり、声を潜めた。
「見ていたんですか……」
「モテるよなー、君は。あしらい方も慣れた様子だったし。ぼくも見習わないと」
「勘弁してください。本当にあちこちの方面から、先生に余計なことは教えるなと、ときどき忠告をもらっているんですから、俺」
「――……例えば、南郷さんから?」
いくぶん声を潜めて問いかけると、中嶋は食えない笑みを浮かべて首を傾げた。
「さあ、どうでしょう」
実にわざとらしい動作で中嶋が携帯電話を手に取り、時間を確認する。
「さて先生、交替でもう一泳ぎしたら、宿に引き上げますか」
「まだ早くないか?」
「先生にはしっかりと湯に浸かって体を温めてもらって、身支度を整えてもらわないといけません。後ほど長嶺組の皆さんで、外で食事をされるそうですよ」
中嶋の説明を聞いて和彦は、顔をしかめる。
「どうして当事者のぼくが知らなくて、組の人間じゃない君が知ってるんだ」
「ギリギリまで先生に楽しんでもらいたいという配慮でしょう」
それが事実がどうかはともかく、納得するしかない。和彦はふっと息を吐き出すと、お茶をもう一口飲んだ。
スーツに着替えてロビーに降りてきた和彦を見るなり、珍しく三田村は破顔した。
「泳ぎ疲れたから、横になりたくて仕方ないという顔だ、先生」
支度を手伝ってくれた中嶋に、軽く腕を突かれる。
「三田村さんにまで言われてますよ」
「……食事に出ることを最初に教えてくれていたら、ぼくだってもう少し余力を残していたよ……」
和彦はため息交じりに応じると、髪に指を差し込む。部屋付きの風呂に入ったあと、自分でやると訴えたが、中嶋が丁寧にドライヤーで乾かしてくれたのだ。普段から何かと世話を焼いてくれる中嶋だが、今日は特に甲斐甲斐しい。本来なら詰め所で待機しているところを、和彦のおかげで自分も呼んでもらえたというのが理由のようだ。
「それで、これからぼくは、どうしたらいいんだ?」
「ここから近くにある店に、組長たちは直接向かわれるそうだから、先生にも来てほしいそうだ」
42
お気に入りに追加
1,359
あなたにおすすめの小説
もう人気者とは付き合っていられません
花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。
モテるのは当然だ。でも――。
『たまには二人だけで過ごしたい』
そう願うのは、贅沢なのだろうか。
いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。
「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。
ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。
生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。
※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
ヤクザと捨て子
幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子
ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。
ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる