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第31話
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しおりを挟む風呂から上がった和彦は客間に入ると、延べられた布団を横目に見つつ、逡巡しながらも携帯電話を取り上げた。
電話に出てほしいような、そうではないような、複雑な心理に心が揺れる。しかし、呼出し音が途切れ、耳に届いた魅力的なバリトンに、あっという間に心は搦め捕られた。
『――帰してもらえなかったか』
開口一番の賢吾の言葉に、吐息を洩らすように笑ってしまう。
「会長が検査入院から戻ってきたから、それではお暇します、とは言えない。ぼくが帰ったところで、側近の誰かが側についているんだろうけど……」
『そういうことは、本来は家族の役目なんだろうがな。俺がずっとついているわけにはいかねーし、千尋じゃ心許ない。結局、先生に頼むことになる。こう言っちゃなんだが、先生の存在は、使い勝手がよすぎる』
「別に、咎めはしない。ぼくみたいな医者でもいいから、側にいてほしいと言われるんだ。……長嶺の人間ではないのに、こんなに信頼されていいんだろうかと、戸惑ってはいるけど」
『ヤクザに信頼されても、嬉しくねーだろうがな』
返事がしにくいことを言わないでくれと、和彦は心の中で呟く。
『夕方ぐらいに、オヤジから連絡はもらっている。来週、検査結果を聞きに行くのは、俺が付き添う。すまないが、先生にはその日まで、本部に滞在してもらいたい』
「……あんたに、すまない、と言われるのは、ちょっと気分がいい」
『こんなことで気分がよくなってくれるなら、今度は土下座でもしてやろうか? きっと先生は、晴れやかな笑顔を見せてくれるだろうな』
そんなわけないだろうと、和彦は電話の向こうにもしっかり聞こえるよう、大きくため息をついた。
「もういい……」
本当は、言いたいことは他にあるのだ。ただ、守光が倒れたと聞かされてから、そこから検査入院となり、すぐに命の危険が脅かされる状態ではないとはいえ、それですぐに心配が払拭されるわけではない。組織を背負っている者なりに、和彦ではわからない気がかりもあるだろう。そんな賢吾に〈あんなこと〉を訴えられない。
しかし勘のいい男は、和彦が言葉を呑み込んだことを察したようだ。
『俺は、総和会に近づきたくないが故に、自分のオンナを生贄に差し出したようなものだな』
「……ぼくは、使い勝手がいいんだろう」
電話の向こうで賢吾が苦笑した気配が伝わってくる。
『それ以上に、いいオンナだ。どいつもこいつも先生に手を出して、骨抜きになる』
「そっ……、そんなことまで言わなくていいっ」
動揺する和彦の反応をさんざん笑っていた賢吾だが、ふいに真剣な口調に戻って言った。
『――オヤジを頼む。とんでもなく食えなくて、ときどき心底憎たらしくて堪らなくなるが、それでも、俺のオヤジだ。それに、あの古狐に何かあると、何かと厄介だ。総和会の安寧は置いといて、長嶺の家と組の安寧のために、まだしばらく元気でいてもらわねーと」
父親への複雑な情愛もあるだろうが、賢吾の口ぶりからして、それだけでもないようだ。組を守る立場としてもまた、総和会会長へは複雑な想いがあるのだろう。それは、賢吾だけではなく、総和会に関わる者すべてが抱く感情のはずだ。
いまさらながら、自分がどれほどとてつもない組織の中心にいるのかと、重圧が肩にのしかかる。
守光の住居に、南郷が自由に出入りしていることを当然賢吾は知っており、その南郷が、和彦に手出ししないと考えるほど、賢吾は甘くはない。すべて予見したうえで、和彦をこの場に置き、さらに滞在してくれと言っている。
ひどい男だと詰る気にはなれなかった。『使い勝手がいい』と言われたことにも、傷つきはしない。長嶺の男たちのオンナでいるということは、つまり、そういうことだ。
こう割り切ってしまったほうが、多少なりと、抱えた罪悪感も薄まる気がする。
和彦は、嫌っている――恐れている南郷に嬲られても、感じてしまうことに。
電話を切って、少しの間ぼんやりしていた和彦だが、急に喉の渇きを意識して、ふらりと立ち上がる。キッチンに行って水を飲んだあと、守光はもう休んでいるだろうかと気になり、部屋の前まで行く。足音は極力抑えたつもりだが、聡い守光には通用しなかったようだ。襖の向こうから声がかかった。
「――先生、入ってもかまわんよ」
申し訳なく思いながら静かに襖を開ける。すでに横になっているかと思われた守光だが、文机について何か書きものをしていた。
「横になっていなくて大丈夫ですか?」
和彦が声をかけると、肩から羽織をかけた守光が顔を上げる。
「病院で嫌というほど横になっていたから、まだ布団に入る気がしなくてね」
「そうだとしても、二、三日ぐらい、体を休めることを優先しても……」
「主治医がそう言うなら、従おうか」
主治医なんてとんでもないと、和彦慌てて首を横に振る。守光は手紙を書いていたらしく、老眼鏡を外してから、文机の上を片付け始める。
「賢吾とは話したかね?」
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